爾朱榮⑫皇太后・皇帝・百官まとめてヒャッハー河陰の変part2

▼北魏朝廷のもっとも長い三日間。


晋陽を発した爾朱榮の軍勢は

あっさり河内郡に到ります。


『魏書』ではあっさりですけどね。

『通鑑』については別で詳述予定。


腐り果てた北魏の姿が垣間見え、

なかなか興味深いものがあります。




『魏書』爾朱榮伝


師次河內,

重遣王相密來奉迎,

 師の河內に次するに、

 重ねて王相を遣りて

 密かに來りて奉迎す。


帝與兄彭城王劭、

弟始平王子正於高渚潛渡以赴之。

榮軍將士咸稱萬歲。

於時武泰元年四月九日也。

 帝と兄の彭城王劭、弟の始平王子正は

 高渚より潛かに渡り以て之に赴けり。

 榮の軍の將士は咸な萬歲を稱す。

 時に武泰元年四月九日なり。




河内郡は山西の上党の南、

黄河の北岸にあたります。


そこで、

元子攸、

彭城王の元劭、

始平王の元子正

の三人が黄河を渡って合流、

黄河の北岸にバンザイの声が

響くこととなりました。


しかし、お迎えは奴隷の王相のみ。

わりと扱いが悪い気もしますね。


これが、4月9日のことです。


孝明帝の崩御から約1ヶ月半後ですね。




『魏書』爾朱榮伝


十一日,

榮奉帝為主,

詔以榮為

使持節、

侍中、

都督中外諸軍事、

大將軍、

開府、

兼尚書令、

領軍將軍、

領左右,

太原王,食邑二萬戶。

 十一日、

 榮は帝を奉じて主と為す。

 詔して榮を以て

 使持節、

 侍中、

 都督中外諸軍事、

 大將軍、

 開府、

 兼尚書令、

 領軍將軍、

 領左右,

 太原王、食邑二萬戶

 と為す。




元子攸の合流から二日後、

黄河の北の河陽の城は守られず、

爾朱榮はあっさり南に渡りました。


黄河の南岸に行宮を置き、

元子攸はそこで即位したようです。

洛陽に幼主がいるけどお構いなし。


行宮とはまあ、

皇帝の御在所です。


宮城にいなければそこが行宮ですよ。

住めば都と申します。


あわせて、

軍国の権を一手に握るべく、

以下の官を賜りました。

 侍中

 兼尚書令

 都督中外諸軍事

 領軍將軍

これだけあればほぼ独裁です。


この日から3日間が

北魏朝廷の悪夢となります。




『魏書』爾朱榮伝


十二日,

百官皆朝於行宮。

 十二日、

 百官は皆な行宮に朝せり。




元子攸の即位の翌日、

洛陽にいた百官は黄河南岸にある

行宮に向かい、朝賀を行いました。


抵抗しない。


この時、

幼主と霊太后は行宮に来ていません。

翌日、爾朱榮は洛陽に騎兵を遣わし、

二人を黄河南岸の河陰に連行します。


その翌日の記事がこちらです。




『魏書』爾朱榮伝


十三日,

榮惑武衞將軍費穆之說,

乃引迎駕百官於行宮西北,

云欲祭天。

 十三日、

 榮は武衞將軍の費穆の說に惑い、

 乃ち駕を迎える百官を行宮の西北に引き、

 天を祭らんと欲すと云えり。


朝士既集,列騎圍遶,

責天下喪亂,明帝卒崩之由,

云皆緣此等貪虐,

不相匡弼所致。

 朝士の既に集まるに

 騎を列べて圍遶し、

 天下の喪亂、明帝の卒崩の由を責め、

 皆な此らの虐を貪り、

 相い匡弼せざるの致す所に緣ると云う。


因縱兵亂害,

王公卿士皆斂手就戮,

死者千三百餘人,

皇弟、皇兄並亦見害,

靈太后、少主其日暴崩。

 兵を縱にして亂害するに因り、

 王公卿士は皆な手を斂めて戮に就き、

 死する者は千三百餘人なり。

 皇弟、皇兄は並びに亦た害され、

 靈太后、少主は其の日に暴崩せり。




爾朱榮は即位に際して天を祀ると言い、

百官を行宮の西北に移らせたようです。


ただ、そこに待つのは騎兵たちでした。


天下の乱れと孝明帝の崩御は

百官の無能が原因であるとし、

控えていた騎兵に襲わせます。


この時、

丞相の元雍や司空の元欽をはじめ、

千三百人を越える死者が出たようです。

『通鑑』は二千人を越えるとしますが。


霊太后と幼主=元釗も道を同じくします。


なぜか、

元子攸の兄の元劭と弟の元子正、

この二人まで殺害されています。


ここまでが13日の前半です。

以下、後半を見ていきます。




『魏書』爾朱榮伝


榮遂有大志,

令御史趙元則造禪文,

遣數十人遷帝於河橋。

 榮は遂に大志あり、

 御史の趙元則をして禪文を造らしめ、

 數十人を遣りて帝を河橋に遷す。


至夜四更中,

復奉帝南還營幕。

 夜四更中に至り、

 復た帝を奉じて南のかた營幕に還る。




爾朱榮はいきなり大志を抱き、

禅譲の文章を造らせています。


すなわち、

自ら帝位につこうとしました。


その準備のためか、

四更=午前二時とかの深夜に

元子攸を行宮に帰したようです。


『通鑑』では、

この時に元劭と元子正が殺されたとします。


つまり、この時、

北魏は爾朱榮に禅譲する直前でした。


では、

元子攸はどうしたか?




『魏書』爾朱榮伝


帝憂憤無計,

乃令人喻旨於榮曰:

 帝は憂憤するも計なく、

 乃ち人をして榮に喻旨せしめて曰く、


帝王迭襲,

盛衰無常,

既屬屯運,

四方瓦解。

將軍

杖義而起,

前無橫陳,

此乃天意,

非人力也。

我本相投,

規存性命,

帝王重位,

豈敢妄希,

是將軍見逼,

權順所請耳。

璽運已移,

天命有在,

宜時即尊號。

將軍必若推而不居,

存魏社稷,

亦任更擇親賢,

共相輔戴。

 帝王は迭々襲い、

 盛衰に常なし。

 既に屯運に屬き、

 四方は瓦解せり。

 將軍は

 義に杖りて起ち、

 前に橫陳なく、

 此れ乃ち天意にして

 人力にあらざるなり。

 我の本と相い投ずるは、

 性命を存つを規し、

 帝王の重位は

 豈に敢えて妄りに希まん。

 直た是れ

 將軍に逼られ、

 權に請うところに順うのみ。

 今、

 璽運は已に移り、

 天命の在るあり、

 宜しく時に尊號に即くべし。

 將軍の必しも若し推して居らず、

 魏の社稷を存たば、

 亦た更めて親賢を擇ぶに任せ、

 共に相い輔戴せん、と。



人を介して爾朱榮を説諭しました。

「帝王が交替するのは世の常、北魏の命数は尽きて国家はバラバラ、将軍が義によって挙兵して阻む者がないのは、天命であって人の力の及ぶところではありません。私はもともと生命を保てれば御の字、皇帝位につこうとは思ってもおらず、将軍に迫られたために従ったのです。天命がそう望むならば将軍が帝位につかれればよく、魏の社稷を保たれるならば改めて人を選び、その人を推戴いたしましょう」


ほぼ泣き言に近いのは気のせい?


さて、

そんな泣き言ですが、

一言だけ利きました。


「天命がそう望むならば」


占い大好きッコの爾朱榮、

「それなら占っちゃおうカナ★」

となることを避けられません。


真夜中に何してんだよ。。。




『魏書』爾朱榮伝


榮既有異圖,

遂鑄金為己像,

數四不成。

 榮は既に異圖あるも、

 遂に金を鑄て己の像をなすも、

 數四にして成らず。


時幽州人劉靈助善卜占,

為榮所信,

言天時人事必不可爾。

 時に幽州の人の劉靈助は卜占を善くし、

 榮の信ずるところとなるも、

 言えらく、

 天時人事は必ず爾すべからず、と。


榮亦精神恍惚,

不自支持,

久而方悟,

遂便愧悔。

 榮は亦た精神恍惚として

 自ら支持せず、

 久しくして方に悟り、

 遂に便ち愧悔せり。




今度は自分の像を鋳造してみます。

ホントお好きですね。


結果、

四回やってもキレイにできません。


これ、

鋳造する人はストレスマッハですよね。

失敗したら、いきなり斬殺されそうで。


その結果を見たか、

爾朱榮の側近で占い師の劉霊助が言います。

「天人ともに時期尚早でございましょう」


ここでなぜか爾朱榮はポーっとしています。

恍惚。

意味不明。

ヤクでもやっていたのでしょうか。


「自ら支持せず」ですから、

「ビクンビクン」なってたのでは???


しかも、

しばらくして我に返ると、

いきなり大後悔です。


恥ずかしくて死んじゃう勢い。


そこまでは言ってませんけど、

簒奪しようとしたことを悔いた、

そういうことのようですね。


気分にムラがありすぎます。




『魏書』爾朱榮伝


於是

獻武王、榮外兵參軍司馬子如等切諫,

陳不可之理。

 是において

 獻武王、榮の外兵參軍の司馬子如等は

 切諫し、

 不可の理を陳ぶ。


榮曰、

愆誤若是,

惟當以死謝朝廷,

今日安危之機,

計將何出?

 榮は曰わく、

 愆誤すること是の若し、

 惟だ當に死を以て朝廷に謝すべきも、

 今日は安危の機なり。

 計は將た何くにか出でんや?


獻武王等曰、

未若還奉長樂,以安天下。

於是還奉莊帝。

 獻武王らは曰わく、

 未だ還りて長樂を奉じ、

 以て天下を安んずるに若かず、と。

 是において還りて莊帝を奉ず。




嘘っぱちなんでスルー推奨ですが、

高歓とその一党の司馬子如も諫言し、

爾朱榮は、

「死んで詫びるしかないけど危急の際やから死なれへん(死にたくない)。どうしたもんやろか?」

とうわ言を言い、

高歓は、

「元子攸を皇帝にするしかありまへんわ」

と何も応えていないも同然の解答をします。


ここは魏収の創作でしょうけど、

結局、爾朱榮は当初の予定通り、

元子攸を皇帝に迎えることとなりました。




『魏書』爾朱榮伝

十四日,

輿駕入宮。

 十四日、

 輿駕は宮に入れり。




そして、

翌日には元子攸とともに洛陽に入城します。


ここで行われた幼主と霊太后、

および百官の殺戮を

「河陰の変」

といいます。


時に武泰元年(528)4月13日、

太武帝の河北統一から88年、

孝文帝の洛陽遷都から35年、

北魏の朝廷は形を失い、

以降は、かつて北魏だった何か、

となります。


爾朱榮は河陰の変により、

実質的に北魏朝廷を掌握しますが、

その一方で崩壊の芽も孕んでいます。


少なくとも、

孝荘帝=元子攸と爾朱榮の間に

不信が芽生えたことは確実です。


簒奪の意志をむき出しにした爾朱榮を、

無条件に信用することは到底できない。


孝荘帝と爾朱榮の関係を考える上で、

この点は常に考慮しなくてはダメ。


まずはざっくり把握しましたので、

次に細かく見直していきましょう。

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