邢子才③青州で肉布団をかぶったりして洛陽に戻ると、怖いパイセンは殺されて一安心でした。

▼青州でSATUGAIされそうになって激重の肉布団をかぶせられました。


洛陽でブイブイとイワせすぎ、

コワイ先輩=袁翻に睨まれた邢子才さん、

のほほんとすべく

溢れるコネを駆使して青州を目指します。


青州行きの詳細を追ってみましょう。


あ、

青州は今の山東半島あたりです。




『北齊書』李渾伝

時四方多難,

乃謝病,求為青州征東府司馬。

與河間邢卲、北海王昕俱奉老母、

携妻子同赴青、齊。

未幾而尒朱榮入洛,

衣冠殲盡。

論者以為知機。


 時に四方多難なり。

 乃ち病と謝し、求めて青州征東府の司馬と為る。

 河間の邢卲、北海の王昕と俱に老母を奉じ、

 妻子を携えて同に青、齊に赴けり。

 未だ幾ばくもせずして尒朱榮は洛に入り、

 衣冠は殲し盡くさる。

 論者は以て機を知ると為す。




失敗発見。

邢子才さんが青州に行って幾ばくもなく、

爾朱榮は河陰の変を起こしたとしています。


そうなると、孝昌の末=3年が妥当かな。


河陰の変が起きた孝昌4年(528)

=武泰元年=建義元年=永安元年、

邢子才さんは32歳になっています。


だから、

青州に行ったのは30歳を過ぎてからです。


19歳で宣武帝の挽郎になってから、

10年ほどが過ぎております。


話を戻して。

青州に行くにあたっての道連れは、

王昕と李渾のお二人でした。


二人とも名門出身、

王昕のオカンは清河の崔氏。

超名門出身ザマス。


三人揃って文学の士ですから、

青州では山水を愛でて詩を賦し、

文学を論じる生活が待っている、

そうwktkしていたのでしょうね。


ウキウキの邢子才さん、

しかし、

意外なところで生命の危機を迎えます。




『北齊書』王昕伝

昕少與邢卲俱為元羅賓友,

及守東萊,

卲舉室就之。

郡人以卲是邢杲從弟,

會兵將執之,

昕以身蔽伏其上,呼曰:

「欲執邢子才,當先殺我。」

卲乃免焉。


 昕は少くして邢卲と俱に元羅の賓友たり、

 東萊に守たるに及び、

 卲は室を舉げて之に就く。

 郡人は卲を是れ邢杲の從弟なるを以て

 兵を會して將に之を執えんとす。

 昕は身を以て其の上に蔽い伏し、

 呼ばわりて曰わく、

「邢子才を執えんと欲さば、

 當に先に我を殺すべし」と。

 卲は乃ち免れり。




情景は御覧の通り、

「テメー、邢杲の一族だよなあ?」

郡人に言いがかりをつけられ、

ボコられそうになっております。


そこに飛び出したのが王昕、

ボーっとしている邢子才に覆いかぶさり、



アッー!



ではなく、

「邢子才を捕らえたいなら、先にオレを殺せ!」

と大見得を切ったわけです。


ちなみに王昕、

若い頃は「體は素より甚だ肥ゆ」

と言われております。

つまり、

激しくふくよかだったのです。




以下、現場からお送りします。




郡人A「そこの邢子才っての、賊魁の邢杲と同族なんだろ?さっさとこっちに引き渡しな!」


邢子才は恐怖に震えるばかり。友人の危機を察し、王昕が邢子才の上に身を躍らせる。



ドズーン!!!

???「ぎゃぶうっ!」


王昕「邢子才を捕らえたいなら、先にオレを殺せ!」


郡人B「と、友達を殺すなんて。。。」



肉布団をかけられて濡れ衣が晴れた、

つまり、

そういうことなのでしょうか?


翻って記事を見るに、

邢子才さんは府司馬なのに、

王昕は東莱の郡太守です。

そして、

邢子才さんが王昕にお願いし、

一家挙げて青州に連れていってもらった。


上文はそういう風にも読めるんですよね。

なんとなく、

そっちも邢子才さんらしい感じがします。



▼邢杲って誰よ?青州で起きた叛乱の原因調査の結果、邢子才さん=ラッキーマン疑惑。



で、

邢杲の叛乱もなかなか興味深いです。


『通鑑』によりますと、

建義元年(528)6月、

元の幽州平北府の主簿の邢杲という人が、

青州の北海で叛乱して漢王を自称します。


幽州平北府の主簿ですからね、

けっこうな高官ですよお。


この建義元年は河陰の変があった年です。

繰り返しますが、528年の改元はこんな感じ。

 1月、改元:孝昌4年 → 武泰元年

 4月、改元:武泰元年 → 建義元年

 9月、改元:建義元年 → 永安元年



邢子才さんは永安の初めには洛陽におり、

中書侍郎に除任されたと記録があります。




『北齊書』邢子才伝

永安初,累遷中書侍郎,

所作詔誥,文體宏麗。


 永安の初め、中書侍郎に累遷し、

 作る所の詔誥、文體は宏麗たり。




つまり、

同年秋には洛陽におったわけです。


んじゃあ、

叛乱の発生

=邢子才さんが肉布団をかぶった

その時期はいつなんでしょうね。


邢杲の叛乱の詳細を見てみます。


この叛乱では、

北平の陽氏が一族壊滅の害を受けており、

それぞれの伝に事情が遺されております。


「陽氏」は「楊氏」の間違いじゃないですよ。




『魏書』陽弼伝

屬洛周陷城,

弼遂率宗親南渡河,

居於青州。

值邢杲起逆,

青州城民疑河北人為杲內應,

遂害弼,時年四十八。


 洛周の城を陷るに屬き、

 弼は遂に宗親を率いて南のかた河を渡り、

 青州に居せり。

 邢杲の逆を起こすに值い、

 青州の城民は河北の人の杲の內應となるを疑い、

 遂に弼を害せり。時に年四十八なり。




陽氏は幽州の北平が本貫です。


杜洛周が幽州を落とした際、

陽弼たち陽一族は南の青州に逃れました。


そこで邢杲の叛乱に遭ったわけですが、

城民に殺害された理由は、

「邢杲に内応するのではないか?」

という疑いだったわけです。


つまり、

邢杲の叛乱は青州の人ではなく、

流民が中心だったと分かります。


一方、

同じ陽氏で生き延びた人もおります。




『北齊書』陽休之伝

孝昌中,杜洛周陷薊城,

休之與宗室南奔章武,

轉至青州。

葛榮寇亂,

河北流人,多湊青州。

休之知將有變,

請其族叔伯彥等

潛歸京師避之。

多不能從,

休之垂涕別去。

俄而邢杲作亂,

伯彥等咸為土人所殺,

諸陽死者數十人,

唯休之兄弟免。


 孝昌中、杜洛周の薊城を陷るに、

 休之と宗室は南のかた章武に奔り、

 轉じて青州に至れり。

 葛榮は寇亂し、

 河北の流人は多く青州に湊まる。

 休之は將に變あらんと知り、

 其の族叔の伯彥らに請い、

 潛かに京師に歸りて之を避けんとす。

 多くは從う能わず、

 休之は涕を垂れて別れ去く。

 俄にして邢杲は亂を作し、

 伯彥らは咸な土人の殺すところと為り、

 諸陽の死する者數十人、

 唯だ休之の兄弟のみ免る。




こちらでは、

陽氏は薊城に住んでいたと分かります。


そこから南の章武に逃れ、

東に転じて黄河を渡り、

青州に到ったとします。


同じ流れで青州に逃れた幽州の民は

けっこうな数に上ったでしょう。


さらに、

葛榮が冀州界隈で暴れた結果、

そこからも人が流れ込みます。


そうなると、

だんだん不穏な空気になるのは必定。


それを察知した陽休之は、

洛陽に逃れようと主張し、

反対する伯父たちを置いて

兄弟だけで青州を離れます。


結果、

彼ら兄弟のみが生き残ったわけです。


葛榮が冀州を落とすのは、

武泰元年の前年=孝昌3年(527)冬。


その1年前の孝昌2年(526)冬、

杜洛周は幽州刺史の王延年を

范陽で捕らえておりますので、

薊の失陥はたぶんこの頃でしょう。


つまり、

孝昌2年(526)冬に薊城は失陥して

陽氏一族&幽州の流民が青州に流入、

翌年には葛榮が冀州での活動を

活発化させておりますので、

冀州からも断続的に流入していたはず。


流民の不満が爆発=邢杲の叛乱は、

たぶん孝昌3年末から4年ですかね。


そうなると、

孝昌4年=武泰元年の6月発生という

『通鑑』の記事も疎かにできません。


まあ、

数ヶ月のタイムラグはあるでしょうから、

朝廷に6月に知られたのなら、それより

1か月前くらいですかね。


夏5月、アツイ。


その頃、邢子才さんは青州にいた、

そこで肉布団をかぶっていた、

つまりそういうことになりますね。


で、

どうも青州刺史だった元羅ですが、

叛乱発生直後に洛陽に帰ったクサイ。


理由はコレ。




『北齊書』李渾伝

時河北流移人聚青土,

眾踰二十萬,

共劫河間邢杲為主,

起自北海,襲東陽。

青州刺史元世儁欲謀誅之,

府人遂猜貳。

渾乃與長史崔光韶具陳禍福,

由是歃血而盟,上下還睦。


 時に河北の流移の人は青土に聚まり、

 眾は二十萬を踰え、

 共に河間の邢杲を劫して主と為す。

 北海より起ちて東陽を襲う。

 青州刺史の元世儁は之を誅すを謀らんと欲すも、

 府人は遂に猜貳せり。

 渾は乃ち長史の崔光韶と與に具に禍福を陳べ、

 是より血を歃りて盟い、上下は還て睦じ。




「青州刺史の元世儁」

元羅はどこに行った!


元羅の伝によりますと

「州を罷り、入りて宗正卿と為る」、

元羅は州刺史を罷免されたっぽい。


邢杲の叛乱が原因?


そして、

青州でホトボリを冷ました邢子才さんも

この時におまけで

洛陽に帰ったものと思われるのですね。


府司馬ですから仕方ない。


また、

王昕も李神儁に推薦され、

常侍として洛陽に戻ります。


一方、

李渾さんは青州に残ったらしい。


長史の崔光韶とともに

刺史の元世儁を輔けています。


崔光韶はかなりのやり手でして、

邢杲は青州を攻め切れませんでした。


ついでですが、

「邢杲を劫して主と為す」から、

最初は邢杲も脅されて叛乱軍の

首魁となった経緯のようですね。


そういえば、

邢杲の姻戚が一人判明していますよ。




『北齊書』魏蘭根伝

孝昌末,河北流人南度,

以蘭根兼尚書,

使齊、濟、二兗四州安撫,

并置郡縣。

蘭根甥邢杲反於青、光間,

復詔蘭根慰勞。

杲不下,仍隨元天穆討之。

還,拜中書令。


 孝昌の末、河北の流人の南に度るに、

 蘭根を以て尚書を兼ねしめ、

 齊、濟、二兗四州に安撫せしめ、

 并せて郡縣を置けり。

 蘭根の甥の邢杲は青、光の間に反するに、

 復た蘭根に詔して慰勞せしむ。

 杲は下らず、仍りて元天穆に隨いて之を討つ。




というわけで、

邢杲さんは魏蘭根という人の姻戚、

魏蘭根は魏収と同族の人でもあり、

邢杲もけっこうな名士ですよねえ。


鉅鹿の魏氏と縁組するような

河間の邢氏。。。


これって要するに、

「テメー、邢杲の一族だよなあ?」

という青州の郡人の言いがかりは、

的を射ていたということですよね。


まあ、

叛乱に与してないからいいか。


邢杲の叛乱が『通鑑』の通り、

武泰元年6月の発生だとすると、

邢子才さんは奇跡的な強運で

河陰の変を避けているのです。


しかも、

敵視されていた袁翻は河陰の変で死亡。

なんだこれ。。。



孝昌3年(527)頃?

 元羅たちと青州に赴任し、洛陽を離れる

孝昌4年(528)

 1月、武泰に改元

 2月、孝明帝が崩御

 4月、河陰の変(袁翻ザマア)、建義に改元

 6月、邢杲の叛乱発生、洛陽に帰任

 9月、永安に改元、中書侍郎になる



『とっても!ラッキーマン』みたい。


史実だからいいけど、

フィクションだったら間違いなく

「ご都合主義」って言われますね。

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