邢子才②洛陽でブイブイいわせてましたが、怖いパイセンに睨まれたので青州に逃げました。
▼パリピな人々に超絶記憶力を披露していると、キラキラ系吏部尚書とお友達になれました。
邢子才は異常な記憶力により
文才を高めたとお話をしました。
それにまつわる逸話もあります。
▽
『北齊書』邢子才伝
嘗與右北平陽固、河東裴伯茂、
從兄罘、河南陸道暉等
至北海王昕舍宿飲,
相與賦詩、凡數十首,
皆在主人奴處。
旦日奴行,諸人求詩不得,
卲皆為誦之,諸人有不認詩者,
奴還得本,不誤一字。
諸人方之王粲。
吏部尚書隴西李神儁大相欽重,
引為忘年之交。
嘗て右北平の陽固、河東の裴伯茂、
從兄の罘、河南の陸道暉らと
北海の王昕の舍に至り、宿り飲む。
相い與に詩を賦すこと、凡そ數十首、
皆な主人の奴の處に在り。
旦日に奴は行き、諸人は詩を求めて得ず、
卲は皆な為に之を誦う。
諸人に詩を認めざる者あり、
奴の還って本を得るに、一字を誤らず。
諸人は之を王粲に方う。
吏部尚書の隴西の李神儁は大いに相い欽重し、
引きて忘年の交を為す。
△
右北平の陽固、
河東の裴伯茂、
從兄の罘、
河南の陸道暉
といったパリピな方々とともに、
北海の王昕という人の家に押しかけ、
またまたパーリイをしておりました。
この王昕という人は、
前秦の苻堅に仕えた王猛の六世孫です。
その際、
お酒を飲みながら数十首の詩を書きます。
書きなぐった草稿は回収されたのか、
王昕の召使の手元にあったらしい。
で、
その召使は早朝から出かけてしまい、
草稿を探しても見つかりません。
邢子才はそれぞれが読んだ数十の詩を
すべて暗誦していたらしく、
「オマエの詠んだ詩はこんなだぜ」
と教えてやってのですが、
「そんな下手な詩を詠むかーい!」
と認めない者も若干おりました。
そこに、
召使が戻ってきたので草稿を返させ、
見てみれば一字も誤りなく言う通り、
これより、
邢子才を王粲になぞらえたそうです。
王粲は建安七子の一人として有名ですね。
んでまあ、
隴西李氏という名門、
かつ、
吏部尚書というキラキラ系官職にあった
李神儁という人は邢子才を大変評価し、
ずいぶんと年上ではありましたが、
友人関係となるに至ったそうであります。
ふうん。
▼袁翻パイセンに超嫌われたんで青州に逃げ出しました。
ここまでの邢子才はまだ学生です。
いよいよ官に就きますが、
最初は宣武帝の挽郎、
これは葬儀の際に霊柩を引く
お役目ではありませんか??
つまり、
宣武帝が世を去った
延昌四年(515)ですかね。
邢子才さんは19歳になっています。
▽
『北齊書』邢子才伝
釋巾為魏宣武挽郎,
除奉朝請,遷著作佐郎。
深為領軍元叉所禮,
叉新除尚書令,
神儁與陳郡袁翻在席,
叉令卲作謝表,
須臾便成,以示諸賓。
神儁曰:
「邢卲此表,足使袁公變色。」
巾を釋きて魏の宣武の挽郎と為り、
奉朝請に除せられ、著作佐郎に遷る。
深く領軍の元叉の禮する所と為り、
叉の新たに尚書令に除せらるるに、
神儁は陳郡の袁翻と與に席に在り、
叉は卲をして謝表を作さしめ、
須臾にして便ち成り、以て諸賓に示す。
神儁は曰わく、
「邢卲の此の表は、
袁公をして色を變ぜしむるに足れり」と。
孝昌初,
與黃門侍郎李琰之對典朝儀。
自孝明之後,文雅大盛,
卲雕蟲之美,獨步當時,
每一文初出,京師為之紙貴,
讀誦俄遍遠近。
孝昌の初め、
黃門侍郎の李琰之と對なりて朝儀を典る。
孝明の後より、文雅は大いに盛んにして、
卲の雕蟲の美は當時に獨步す。
一文の初めて出る每に、
京師は之が為に紙貴く、
讀誦は俄に遠近に遍し。
于時袁翻與范陽祖瑩
位望通顯,
文筆之美,見稱先達,
以卲藻思華贍,深共嫉之。
時に袁翻は范陽の祖瑩と與に
位望ともに通顯たり、
文筆の美は先達と稱さるも、
卲の藻思の華贍なるを以て、
深く共に之を嫉む。
每洛中貴人拜職,
多憑卲為謝表。
嘗有一貴勝初受官,
大集賓食,
翻與卲俱在坐。
翻意主人託其為讓表。
遂命卲作之。
翻甚不悅,
每告人云:
「邢家小兒嘗客作章表,
自買黃紙,寫而送之。」
卲恐為翻所害,
乃辭以疾。
屬尚書令元羅出鎮青州,
啟為府司馬。
遂在青土,終日酣賞,
盡山泉之致。
洛中の貴人の職を拜する每に、
多くは卲に憑きて謝表を為る。
嘗て一貴勝の初めて官を受くるあり、
大いに賓食を集め、
翻は卲と俱に坐に在り。
翻は意えらく、
主人は其の讓表を為すを託さん、と。
遂に卲に命じて之を作さしむ。
翻は甚だ悅ばず、
每に人に告げて云えらく、
「邢家の小兒は嘗て章表を客作するに
自ら黃紙を買い、寫して之を送れり」と。
卲は翻の害する所と為るを恐れ、
乃ち辭するに疾を以てせり。
尚書令の元羅の出て青州に鎮するに屬き、
啟して府司馬と為る。
遂に青土に在りて終日酣賞し、
山泉の致を盡くせり。
△
ここで邢子才さんの官職は、
奉朝請→著作佐郎
という異動しかありません。
その後は青州に行ってます。
むしろ、
爾朱榮も馬を贈ってゴマをすった
元叉という人に気に入られてしまい、
李神儁と友人であったこともあり、
社交界にデビューした感があります。
そこで、
一人のパイセンに目をつけられます。
それが、袁翻という人ですね。
この袁翻という人も、
文才で知られた人です。
けっこう年上なんですけど、
史書では、
後進を抑制したと謗られてます。
いわゆる、老害。
だから、
そういう人だったわけです。
元叉が尚書令に除任された際、
その宴席で邢子才は謝表を
書かされてしまいます。
袁翻もその場にいます。
謝表は除任の恩に謝する上表文です。
しかも、
李神儁はその上表文を褒める際、
「袁公=袁翻も顔負けですなあ」
と言いやがったわけですよ。
袁翻いるって!
たぶん、
李神儁は袁翻をキライだったのでしょう。
巻き込まれた邢子才さんは大迷惑です。
それより、
朝廷では儀礼を掌る役を与えられますが、
孝明帝の頃から洛陽では文学が盛んでした。
邢子才の文章は独特のものだったらしく、
一作が発表されるたびに、
文字通り、洛陽の紙価を高めたそうです。
袁翻や祖瑩といった、
年上の文人たちはそれが気に食わない。
特に袁翻は元叉に引き続き、
他の貴人の除任に際しても
謝表の代筆を邢子才に奪われ、
ストレスがマックスになります。
それでまあ、
色々とヒボーチューショーを受けます。
「邢家の小倅は上表を代筆するのに、
黄色の紙に書いて送りやがったらしい」
黄紙は詔にも使われるものなので、
「調子こいて僭越なことしてやがる」
という感じなのかと思われます。
ちなみに、
弾劾の際は罪が重いと白簡、
罪が軽いと黄紙だったらしい。
でも、唐代の話なんですよね。
このままでは袁翻に陥れられてしまう。
そこで、
尚書令の元羅が青州刺史に転任する際、
邢子才もついていくことにしました。
元羅は元叉の弟です。
この元羅という人の賓客には、
先ほどの王昕さんがあり、
邢子才も同じくでありました。
コネクションがあったのですね。
こうして、
邢子才と王昕は洛陽を出て、
青州に居を移したわけです。
で、
青州では山東の山水を満喫した、と。
いいご身分ですねえ、おい。
時期としては、
おそらく正光五年より前、
邢子才さんが26、27歳の頃と思われます。
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