爾朱榮⑩粛宗=孝明帝=元詡の死を受けて霊太后にほぼ宣戦布告の上表文を送りました。

いよいよ北魏滅亡のトリガーが引かれます。


孝昌4年(528)は1月に武泰と改元され、

翌月2月、孝明帝が崩御します。


崩御は皇帝が死んだ場合に用います。

それも暴崩と記されています。


暴は「にわかに」ですから、

急死ということになりますね。


今回はそれを受けた爾朱榮の上表文を見ていきます。


御覧頂くと分かると思うのですけど、

爾朱榮はいきなりケンカ腰です。


問答無用、オマエの話を聞く気はない、

というくらいの上表文になっております。


それまで、

肆州と并州を領土として半自立状態なのに、

六鎮の乱の対策を提案する姿とはかなり別。


人が変わった感があります。


まずは、

孝明帝崩御の報に接したところから。



『魏書』爾朱榮伝


尋屬肅宗崩,

事出倉卒,

尋いで肅宗の崩ずるに屬き、

事は倉卒に出ず。


榮聞之大怒,謂鄭儼、徐紇為之,

與元天穆等密議

稱兵入匡朝廷,討定之。

 榮は之を聞きて大いに怒り、

 謂えらく、「鄭儼、徐紇の之を為せり」と。

 元天穆らと密かに

 兵を稱えて入りて朝廷を匡し、

 討ちて之を定めんことを議す。




爾朱榮は鄭儼と徐紇の仕業と

断定していたようです。


引いては、

鄭儼と徐紇を用いた霊太后胡氏の仕業、

ということになりますね。


『通鑑』によると

霊太后は爾朱榮にイヤガラセしていました。


当然、

ストレスMAXの爾朱榮、

放置するはずもなく、

并州刺史にして義兄弟の元天穆たちに諮り、

軍勢とともに洛陽に入ることを企てます。


このあたり、

孝明帝の私詔を受けて軍を進めていた、

と述べている『通鑑』とだいぶ違います。


で、

怒った爾朱榮がどうしたか?


孝明帝の崩御を報せる勅使に、

上表文を託したようです。


クソ長いのですが、

詳しく見ていきましょう。


なお、出典は『魏書』爾朱榮伝です。




乃抗表曰、

 乃ち抗表して曰わく、


伏承

大行皇帝

背棄萬方,

奉諱號踴,

五內摧剝。

仰尋詔旨,

實用驚惋。

 伏して承く、

 大行皇帝の

 萬方を背棄するに、

 諱を奉じて號踴し、

 五內は摧剝せり。

 仰ぎて詔旨を尋ぬるに、

 實に用て驚惋す。


海內草草,

異口一言,

皆云

大行皇帝,

鴆毒致禍。

臣等外聽訟言,

內自追測。

 今、

 海內は草草として,

 異口も言を一にす。

 皆な云えらく、

 大行皇帝は、

 鴆毒の禍を致せり、と。

 臣らは外に訟言を聽き、

 內に自ら追い測る。



これが第一節に相当します。

ざっと訳してみましょう。

「孝明帝が世を去ったと聞いて、メッチャ哀しいけどビックリしちゃったよ、ワシ。聞いた連中はみんな、陛下が毒殺されたと言うてる。そんで、それを聞いて思い返しとる」


いきなり、

陛下は毒殺されたんちゃうんかい?

から始まります。


ストレートですね。さて、次。




去月二十五日聖體康悆,

至於二十六日奄忽昇遐。

 去月二十五日、聖體は康悆にして、

 二十六日に至りて奄忽として昇遐せり。


即事觀望,

實有所惑。

 事に即きて觀望するに、

 實に惑うところあり。

 

天子寢疾,

侍臣不離左右,

親貴名醫,

瞻仰患狀,

面奉音旨,

親承顧託。

 且つ、

 天子の寢疾するに、

 侍臣は左右を離れず、

 親貴の名醫は

 患狀を瞻仰す。

 面して音旨を奉じ、

 親ら顧託を承く。


豈容

不豫初不召醫,

崩棄曾無親奉,

欲使

天下不為怪愕,

四海不為喪氣,

豈可得乎?

 豈に不豫の初めに醫を召さず、

 崩棄するに曾て親奉なきを容れんや。

 天下をして怪愕を為さざらしめ、

 四海をして喪氣を為さざらしめんと欲するも

 豈に得べけんや?




「ワシの知る限り、先月の25日には元気そうやったのに、26日にいきなり亡くなった言われても、そんなん信じられへんやん?そもそも、天子が寝込んだら侍臣が左右に張りつくし、天下の名医が診察するもんや。亡くなるにしても、フツーはそこで遺命を聞くもんやんか。せやのに、倒れたのに医者を呼んでへん。亡くなった時に周りに人がおらんかった言われても、信じられへんわ。それで、天下がビックリせえへんわけあらへん」


この

「去月二十五日聖體康悆」

「去月二十五日に帝は元気だった」

の一文は重要です。


并州か肆州にいる爾朱榮が

孝明帝の健康を知る可能性は二つ、

・洛陽に出て孝明帝に謁見した

・手詔の日付が25日となっていた

前者はあり得ないですね。

あれば史書に遺されているはず。


そうなると、後者。


葛榮が杜洛周の叛乱軍を合わせたのも2月、

その報を受けた爾朱榮は、

3,000の騎兵を相州に派遣したいと

上表を行っています。


これは以前に読んだところですが、再掲。




『魏書』爾朱榮伝


及葛榮吞洛周,

凶勢轉盛。

 葛榮の洛周を吞むに及び、

 凶勢は轉た盛んなり。


榮恐其南逼鄴城,

表求遣騎三千

東援相州,

肅宗不許。

 榮は其の南して鄴城に逼るを恐れ、

 表して騎三千を遣りて

 東のかた相州を援けんことを求むるも、

 肅宗は許さず。


又遷車騎將軍、右光祿大夫,尋進位儀同三司。

 又た車騎將軍、右光祿大夫に遷り、

 尋いで位を儀同三司に進めらる。




この時、

粛宗=孝明帝は許しませんでした。


それに対し、

爾朱榮は蠕蠕主の阿那瓌を用いるよう、

提案を行ったことは先に述べています。


騎兵の相州への派遣を拒んだのは、

霊太后の仕業と見ていましたが、

もしかすると孝明帝だったかも。


理由は以下の4点です。

・『魏書』に「粛宗は許さず」と明記している

・2月中に孝明帝は爾朱榮に詔を下している

・詔は孝明帝の直筆だったと推測される

・この時の他に詔を下した可能性が薄そう


『魏書』の記事に基づき、

孝明帝と爾朱榮が密かに連絡していない、

という前提ではこのように考えられます。


その一方、

『通鑑』の記事に基づき、

孝明帝と爾朱榮が密かに連絡していれば、

何の不思議もないことではあります。


どちらが正しいかは、藪の中ですね。

それでは上表文に戻ります。




皇后女生,

稱為儲兩,

疑惑朝野,

虛行慶宥,

 復た

 皇后の女生むを

 稱して儲兩と為し、

 朝野を疑惑して

 虛しく慶宥を行う。


宗廟之靈見欺,

兆民之望已失,

 宗廟の靈は欺かれ、

 兆民の望は已に失わる。


使

七百危於累卵,

社禝墜於一朝,

 七百をして累卵に危うからしめ、

 社禝をして一朝に墜ちいらしむ。


選君嬰孩之中,

寄治乳抱之日,

 方に

 君を嬰孩の中に選び、

 治を乳抱の日に寄せ、


使

姦豎專朝,

賊臣亂紀,

 姦豎をして朝を專らにせしめ、

 賊臣をして紀を亂さしむ。


惟欲

指影以行權,

假形而弄詔,

此則

掩眼捕雀,

塞耳盜鍾。

 惟だ

 影を指して以て權を行い、

 形を假りて詔を弄ばんと欲す。

 此れ則ち、

 眼を掩いて雀を捕り、

 耳を塞ぎて鍾を盜むなり。



「皇后が生んだ女児を皇太子と偽って慶賀なんぞして、宗廟の霊をたぶらかして民を絶望させるような行いや。宗廟も社稷も危うくなって当たり前。さらに赤ん坊の中から世継ぎを選んで帝位につけたら、奸臣と賊臣が政事を乱すばっかりや。こんなもん、ウソついて詔をオモチャにしてるだけや。そんなんでやらんならんことをできるんかね」


この年の1月、

孝明帝の嬪御である潘嬪が子を産みました。


子は女児でした。

霊太后はこれを男児と偽り、

翌日には大赦と改元が行われます。

この時、孝昌は武泰と改元されました。


それでは、孝明帝の後嗣はどうなったか?


崩御の翌日、霊太后は詔を下し、

潘嬪の子が女児であったと明かにします。

その上で、

臨洮王の元寶暉の子の元釗を後嗣とします。


ちなみに元釗は三歳でした。


爾朱榮はこれを、

宗廟の霊をだますものであり、

社稷を危うくするものである、

と述べています。


姦豎と賊臣が朝政を乱すというわけです。

さらに、今やるべきこともできなくなる。


じゃあ、

今すべきこととは何か?




秦隴塵飛,

趙魏霧合,

寶夤、醜奴

勢逼豳雍,

葛榮、就德

憑陵河海,

楚兵吳卒

密邇在郊。

 今、

 秦隴に塵は飛び、

 趙魏に霧は合し、

 寶夤、醜奴の

 勢は豳雍に逼り、

 葛榮、就德は

 河海に憑陵し、

 楚兵、吳卒は

 密邇にして郊に在り。


古人有言、

邦之不臧,

隣之福也。

 古人に言あり、

 邦の臧からざるは、

 隣の福なり、と。


一旦聞此,

誰不闚𨵦?

 一旦に此を聞かば、

 誰ぞ闚𨵦せざらんや?




「関中の秦州や隴西では戦塵が飛び、河北の趙や魏では霧がかかったように先行きが見えへん。蕭寶夤と万俟醜奴は雍州や豳州あたりに迫り、葛榮と就徳興は山東あたりに拠ってる。梁の軍勢も遠くないところにおる。昔の人は、国に不祥事があれば隣国が喜ぶと言うたけど、こんなことが知られたら、誰でも国を奪おうとするやろ」


秦州や隴西に跋扈する万俟醜奴&蕭寶夤、

幽州や冀州を危うくする葛榮&就徳興、

それに隙を窺っている梁の軍勢、

これらに隙を見せてはならないと述べます。


国が乱れれば、叛乱軍は勢いづき、

隣国が攻め寄せてくるのは当然です。




竊惟

大行皇帝

聖德馭宇,

繼體正君,

邊烽迭舉,

妖寇不滅,

 竊かに惟うに、

 大行皇帝は

 聖德に宇を馭し、

 體を繼ぐ正君なるも、

 猶お

 邊烽は迭々舉がり、

 妖寇は滅びず。


況今

從佞臣之計,

隨親戚之談,

舉潘嬪之女以誑百姓,

奉未言之兒而臨四海,

欲使海內安乂,

愚臣所未聞也。

 況んや今、

 佞臣の計に從い、

 親戚の談に隨い、

 潘嬪の女を舉げて以て百姓を誑かし、

 未だ言わざるの兒を奉じて四海に臨み、

 海內をして安乂ならしめんと欲す。

 愚臣の未だ聞かざるところなり。



「先帝は正統を継いだ人やけど、叛乱は頻発して賊徒を鎮圧できなんだ。今や、佞臣の策と親戚の言葉に従い、潘嬪の女児で万民をだました上に、三歳の子を帝位につけて、それで天下泰平になるわけあらへん」


未曾有の国難の中で

三歳の皇帝を即位させる、

そのことを責めたわけです。




伏願

留聖善之慈,

回須臾之慮,

照臣忠誠,

錄臣至款,

聽臣赴闕,

預參大議,

 伏して願わくば、

 聖善の慈を留めて

 須臾の慮を回らし,

 臣の忠誠を照らして

 臣の至款を錄し、

 臣の闕に赴きて,

 大議に預り參じるを聽されんことを。


問侍臣帝崩之由,

訪禁旅不知之狀,

以徐鄭之徒付之司敗,

雪同天之耻,

謝遠近之怨。

 侍臣に帝の崩ずるの由を問い、

 禁旅の知らざるの狀を訪ね、

 徐、鄭の徒を以て之を司敗に付し、

 同天の耻を雪ぎて

 遠近の怨に謝さん。



「ちょっと頭を使ってやな、忠実で誠実なワシを朝廷に呼んで国政に参与させて欲しいわけや。そしたら、先帝の崩御の事情を明かにして、鄭儼と徐紇を裁き、国の恥を雪いで民の怨みを解くがな」


なんというかもう、

霊太后としては絶対受け入れられない要求。


これが交渉のテクニックなのか、

それとも本心なのかといえば、

爾朱榮は軍勢を率いて洛陽に向かい、

武力でケリをつける気だったでしょう。


そうなると、

本心ということになるんでしょうかね。


拒絶を前提にしているとしか思えない。

このあたり、ケンカ腰と見ざるをえません。




然後

更召宗親,

推其年德,

聲副遐邇,

改承寶祚,

四海更蘇,

百姓幸甚。


然る後、

更めて宗親を召して

其の年德を推し、

遐邇に副うと聲して

改めて寶祚を承くれば、

則ち

四海は更めて蘇り、

百姓の幸甚ならん、と。



「その後にやな、宗室の人から年長で徳のある人を選んで帝位につければ、国家も安泰で人民も幸福、いうもんやん」


思うに、これは


霊太后に言っているわけではなく、

爾朱榮の目的を宣言したのでしょう。


いわば、

洛陽に兵を向けるにあたって、

霊太后に反感を持つ宗室や百官に

自分の考えを明言して大義とする、

そのためだけの上表だと思います。


おそらく、

元天穆あたりが考えたのでしょう。


実際、

霊太后の返答を待たず、

爾朱榮は動き始めます。




於是遂勒所統

將赴京師。

 是において遂に統ぶる所を勒して

 將に京師に赴かんとせり。


靈太后甚懼,

詔以李神軌為大都督,

將於大行杜防。

 靈太后は甚だ懼れ、

 詔して李神軌を以て大都督と為し、

 將に大行に杜防せんとせしむ。




爾朱榮は軍勢を洛陽に向け、

霊太后は李神軌を大都督として

太行山で防がせようとしました。


いよいよ、

爾朱兵団が洛陽に牙を剥きます。


ただ、この時の爾朱榮が、

ヤル気満々だったことは確かですが、

殺ル気満々だったかは分かりません。

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