爾朱榮⑨北魏朝廷との関係を考えてみます。part.2

▼3,000の騎兵を相州に派遣するのを認められなかったので、もう一度朝廷に上奏してみました。


滏口を勝手に塞いだ爾朱榮ですが、

本格的に朝廷への提案を開始します。


ただ、

上奏文がクソ長いので末尾に

訓読を載っけておきますね。


どのくらい長いかと言うと、

原文はこんな感じ。


復上書曰「臣前以二州頻反、大軍喪敗、河北無援、實慮南侵。故令精騎三千出援相州、京師影響、斷其南望。賊聞此眾、當亦息圖。使還、奉敕云、「念生梟勠,寶夤受擒。醜奴、明達並送誠款。三輔告謐,關隴載寧。費穆虎旅,大翦妖蠻。兩絳狂蜀、漸已稽顙」。又承北海王顥率眾二萬出鎮相州。北海皇孫、名位崇重、鎮撫鄴城、實副羣望。惟願廣其配衣、及機早遣。今關西雖平、兵未可役。山南隣賊,理無發召。王師雖眾、頻被摧北、人情危怯、實謂難用。若不更思方略、無以萬全。如臣愚量、蠕蠕主阿那瓌荷國厚恩、未應忘報。求乞一使慰喻那瓌。即遣發兵東引、直趣下口、揚威振武、以躡其背。北海之軍、鎮撫相部、嚴加警備、以當其前。臣麾下雖少、輒盡力命。自井陘以北、隘口以西、分防險要、攻其肘腋。葛榮雖并洛周、威恩未著。人類差異、形勢可分」。於是榮遂嚴勒部曲、廣召義勇、北捍馬邑、東塞井陘。


長い長い。

これを訓読と並べると指が大変。


ざっと訳してみます。


「ちょっと前に、定州と相州で叛乱が続発して官軍がタコ負け、河北に援軍を送って阻まないと叛乱軍が南に向かいそうなんで、ウチの3,000の精鋭を相州に送って洛陽からの援軍と一緒に戦わせようって上奏したやんか。そしたら、賊徒もビビッて南に向かおうとせんかったのに。せやけど、使者が持って帰った勅命は、『隴西の莫折念生は晒し首になって蕭寶夤もひっとらえ、万俟醜奴と宿勤明達は朝廷に投降しよった。長安界隈は鎮まって関中も安寧、費穆の軍勢が異民族を討伐して河東の叛徒も投降したし、別にいらんわ』って言ってた。北海王の元顥が二万の軍勢を率いて相州に鎮守するとも言ってたから、北海王は皇孫なんで名を知られているし、鄴城に鎮守すれば民百姓も安心やと思ったんや。せやけど、まだ行ってへんやん。とにかく軍勢をなるべく多くして早よ行かせてや。関中の叛乱を平定したっつっても、疲れた兵を徴発できへんし、終南山の南は漢中の隣やから動かせへん。官軍は大軍でもよく負けよるからビビッて使い物にならへん。次の手を打たんとどうにもならんで。ワシの考えるところでは、蠕蠕主の阿那瓌は国の恩義を背負って報いたい気持ちがありよるし、使者を立てて慰撫して東の飛狐口あたりに向かわせたら、北方出身の賊徒は退路を断たれてビックリするで。そんで、北海王が大軍と鄴に鎮守してたら、前にも進めへん。ワシの麾下の兵は少ないけど、命じられたら死力を尽くしよる。井陘の北、滏口の西の要地を塞いで横腹から攻めたるやん。葛榮は杜洛周の軍勢を合わせたけど、まだしっくりいってへん。内側がゴチャゴチャしてるうちにバックリ割ったったらええやん」と上奏すると、麾下の兵を整えてさらに義勇兵を募り、北の馬邑と東の井陘を塞いだ。


あ、

原文では「隘口」になっている箇所は、

「滏口」の誤りと見て修正しました。


そういうわけで三行にすると、

山東の叛乱について爾朱榮は

・北海王の元顥を鄴に鎮守させる

・蠕蠕主の阿那瓌に背後を突かせる

・爾朱榮は山西から賊徒を攻撃する

この三策で平定できると観たわけです。


しかし、上奏の中の「勅命」。


叛徒の頭目の莫折念生は前年527年9月、

杜粲という人に殺されました。


んで、その賊徒は蕭寶夤に降りましたが、

直後に蕭寶夤が自立して齊帝を名乗ります。


この時、

『水経注』を著した酈道元は

蕭寶夤の許に送られて殺されます。


当時にあっては厳猛と言われた酷吏、

『水経注』の著者はそういう人でした。


その蕭寶夤は翌年1月に部下に裏切られ、

万俟醜奴の許に逃げ込んでいますが、

朝廷に捕らえられてはおりません。


明かに爾朱榮を動かさないための方便です。

本当にありがとうございました。



▼霊太后胡氏&孝明帝の母子関係と爾朱榮の絡みを考えてみます。


『通鑑』によるとこの勅は、

霊太后胡氏が下したものとします。


また、

二度目の上奏後、霊太后は徐紇の進言により

爾朱榮の左右の者に鉄券を与えて離間を図る

という計略を仕掛けたそうです。


この鉄券は鉄板に金文字を象嵌したもので、

例えば、

「爾朱榮の南下を防げば絹千疋を授ける」

とか書かれた約束手形みたいなものです。


爾朱榮の近臣に鉄券を下して離間を図った、

ということは、爾朱榮から離れて朝廷に

尽忠するように求めたんでしょうか。


鉄券に書くべきことは色々と思いつきます。


この背景には、

孝明帝と爾朱榮の関係性がある、

というようにも推測できます。


爾朱榮は家督を継いだ後、パパンの命令で

洛陽に行かされて直寝として務めました。


直寝は皇帝と近い職です。


孝明帝と爾朱榮は17歳離れており、

熙平元年(516)に即位した際は7歳、

ほんのコドモです。


当時、爾朱榮は24歳、

直寝の職務上、二人は接触があったはず。


六鎮の乱の発生は7年後の正光元年、

孝明帝14歳、爾朱榮31歳の折です。


乱の発生から5年が過ぎ、孝明帝も19歳、

そろそろ自らの親政を欲する頃合ですね。


爾朱榮にしてみれば、

幼い頃に接した皇帝が成長したわけで、

心情的には皇帝派だったかも知れない。


当然、

天池で笙鼓の音を聞いた際のパパンの、

「皇帝を補佐する位=公輔に昇る」予言も

脳裏にあったと思うのですよね。


なぜなら、

北海王を鄴に派遣することに加え、

蠕蠕主を動かして背後を突く提案は

戦略上妥当と考えられるためです。


山西と山東を繋ぐ井陘と滏口を塞ぐ策も、

山東の叛徒を西に逃さない目的であれば

当然の対策であると言えます。


しかも、

山西を確保できて一石二鳥です。


以上より、

この時点で爾朱榮は北魏の朝廷を

支えるつもりだったのかなあ、と。


一方、霊太后と孝明帝の間には

緊張関係がありました。


それは鄭儼と徐紇への反発に表れています。


色々な意味で霊太后の信任篤い鄭儼・徐紇は

孝明帝にとって邪魔者に他なりません。


しかし、

孝明帝が憎んでも霊太后の庇護がある限り、

鄭儼と徐紇を朝廷から排除できません。


つまり、

孝明帝と霊太后の対立は先鋭化しつつあった。


これより先、

孝明帝の寵臣の谷士恢と蜜多道人が

霊太后により殺害されています。


霊太后が己の醜聞が孝明帝の耳に入らぬよう

目役耳役を果たす寵臣を除いたようです。


当然、孝明帝も意図に気づいています。


この対立の激化により、

孝明帝は爾朱榮に私詔を下し、

軍勢とともに上洛するように

命じたと記録されています。


爾朱榮はこの詔を奉じ、

高歓を先鋒とする軍勢を発して

上党に到ったところで

孝明帝崩御の報に接しました。


ここまでは『通鑑』によりますが、

『魏書』ではアッサリしています。




尋屬肅宗崩,

事出倉卒,

榮聞之大怒,

謂鄭儼、徐紇為之,

與元天穆等密議

稱兵入匡朝廷,

討定之。


 尋いで肅宗の崩ずるに屬き、

 事の出ずること倉卒なり。

 榮は之を聞きて大いに怒り、

 謂えらく、

「鄭儼、徐紇の之を為せり」と。

 元天穆らと密かに議し、

 兵を稱えて入りて朝廷を匡し、

 討ちて之を定めんとす。




爾朱榮は孝明帝の崩御を知り、

洛陽への出兵を密かに企てた、

という筋書きになります。


個人的には、

孝明帝の私詔を受けていたなら、

『魏書』に記載されると思います。


爾朱文略の賂を貰った魏収としても

列伝に載せない理由がありません。


大義名分ですから。


よって、

私詔を下した可能性は低いかな、

というように考えております。


ただ、史実かどうかはさておいても、

お話としてはとても面白いと思います。


『通鑑』では、

爾朱榮の上洛を知った鄭儼と徐紇が、

禍を懼れて孝明帝を毒殺したとします。


ここは次回に詳しく見ていきます。


いずれにせよ、

この孝明帝の崩御は、すなわち、

北魏の崩壊のトリガーとなります。


孝明帝との関係性からか、

己の野心の実現のためか、

爾朱榮は軍勢を発しました。


いよいよ、

爾朱榮と霊太后の対決となります。



最後に爾朱榮の上奏を挙げておきますが、

別に読まなくても大丈夫です。




『魏書』爾朱榮伝


復上書曰:

 復た上書して曰わく、


「臣前以二州頻反,大軍喪敗,

河北無援,實慮南侵,

 臣は前に二州の頻りに反きて大軍の喪敗し、

 河北に援なきを以て,實に南侵を慮る。


故令精騎三千出援相州,

京師影響,斷其南望,

賊聞此眾,當亦息圖。

 故に精騎三千をして出て相州を援けしめ、

 京師の影響せば、其の南望を斷ち、

 賊は此の眾を聞かば、當に亦た圖を息むべし。


使還,奉敕云:

 使の還りて敕を奉じて云えらく、


『念生梟勠,寶夤受擒,

醜奴、明達並送誠款,

三輔告謐,關隴載寧。

費穆虎旅,大翦妖蠻;

兩絳狂蜀,漸已稽顙。』

『念生は梟勠されて寶夤は擒を受け、

 醜奴、明達は並びに誠款を送り、

 三輔は謐を告げて關隴は載に寧し。

 費穆の虎旅は大いに妖蠻を翦り、

 兩絳の狂蜀は漸く已に稽顙せり』と。


又承北海王顥率眾二萬

出鎮相州。

 又た、北海王顥の眾二萬を率て

 相州に出で鎮ずるを承く。


北海皇孫,名位崇重,

鎮撫鄴城,實副羣望。

 北海は皇孫にして名位は崇重、

 鄴城を鎮撫せば、實に羣望に副わん。


惟願廣其配衣,及機早遣。

 惟だ願わくば其の配衣を廣くし、

 機に及びて早かに遣らんことを。


今關西雖平,兵未可役,

山南隣賊,理無發召,

王師雖眾,頻被摧北,

人情危怯,實謂難用,

若不更思方略,無以萬全。

 今や關西は平ぐと雖も兵は未だ役すべからず、

 山南は賊に隣して理に發召するなし。

 王師は眾しと雖も、頻りに摧北を被り、

 人情は危怯して實に用い難しと謂へり。

 若し更めて方略を思わざれば、

 以て萬全なるなし。


如臣愚量,

蠕蠕主阿那瓌荷國厚恩,

未應忘報,

求乞一使慰喻那瓌。

 臣愚の量る如くんば、

 蠕蠕主の阿那瓌は國の厚恩を荷い、

 未だ應に報いるを忘るべからず。

 一使を乞いて那瓌を慰喻せんことを求めん。


即遣發兵東引,

直趣下口,

揚威振武,

以躡其背;

 即ち兵を發して東に引き、

 直ちに下口に趣かしめ、

 威を揚げて武を振るい、

 以て其の背を躡ましめん。


北海之軍,鎮撫相部,

嚴加警備,

以當其前;

 北海の軍は相部を鎮撫し、

 嚴に警備を加え

 以て其の前に當らん。


臣麾下雖少,

輒盡力命,

自井陘以北,隘口以西,

分防險要,

攻其肘腋。

 臣の麾下は少なしと雖も、

 輒ち力命を盡くし、

 井陘より以北,隘口以西、

 險要を分かち防ぎ、

 其の肘腋を攻めん。


葛榮雖并洛周,

威恩未著,

人類差異,形勢可分。」

 葛榮は洛周を并すと雖も、

 威恩は未だ著われず、

 人は差異に類し、

 形勢は分かつべし」と。


於是榮遂嚴勒部曲,

廣召義勇,

北捍馬邑,東塞井陘。

 是に於いて榮は遂に嚴に部曲を勒え、

 廣く義勇を召し、

 北のかた馬邑を捍ぎ、東のかた井陘を塞げり。


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