爾朱榮⑦爾朱榮と高歓のクソ怪しい行動&いきなり肆州の城を攻め落とします。
▼爾朱榮の義勇召集時期を疑ってみます。
唐突に前回までのあらすじ。
決して前回から間が空きすぎたからではないです。
・爾朱榮が父の爾朱新興の跡を継いだ
・爾朱榮は直寝として洛陽に勤めた
・南安王の元禎の娘と縁組した
・妹は穆泰の一族の穆羆に嫁いだ
といったご家庭の事情あたりから、
その一族の性向についてほわっと考え、
以降は六鎮の乱の初期にあたって
どのように過ごしたかを見ました。
六鎮の乱により爾朱氏が軍事力を蓄えた、
その過程を見ていった感じでありますね。
ただ、
怪しい点に目を瞑っていました。
その怪しい点とはこちら。
正光中,四方兵起,
遂散畜牧,招合義勇。
正光中、四方に兵の起こるに、
遂に畜牧を散じて義勇を招合せり。
『魏書』の記事の順序に従いますと、
この後に蠕蠕=柔然への出征が来ます。
李崇の北伐ですね。
この柔然への出征ですけど、
正光四年(523)四月に
柔玄鎮と懐荒鎮の真ん中辺に遣わされ、
蠕蠕主の阿那瓌と会見しているのです。
この時、阿那瓌はすでに異志があり、
元孚を捕らえて掠奪&逃亡しました。
その報復として李崇が遣わされ、
爾朱榮もそれに従軍したのです。
出征の時期は、
同年の秋から冬になるかと思います。
一方、
六鎮の乱も同年の秋から冬にかけての発生、
つまり、蠕蠕出征が六鎮の乱より先にある。
最悪でも同時期になるはずなのです。
前年に蠕蠕では跡目争いのゴタゴタがあり、
北辺に兵を送ってはいても「四方兵起」と
称されるほどの叛乱があったわけではない。
つまり、
爾朱榮による義勇の召集が
六鎮の乱への備えであるなら、
召集は蠕蠕出征後になるはず。
『魏書』を見る限り
蠕蠕出征前に義勇兵を召集しているのは
どういう理由だったのか、
なああああああああああああああああ?
と、
問い詰められても不思議はないです。
まあ、
爾朱榮が出征時に率いたのは4,000人の寡兵、
実際は蠕蠕出征から帰還後に召集を行った、
という可能性もなくはない。
『魏書』の手拍子とでも申しますか。
そうなると、この記事で著者の魏収は、
・義勇兵の召集時期を入れ替えた
・時期は正しく、召集理由を捏造した
いずれかの曲筆を行っているはず。
どちらが正解かは分かりません。
現状、明確に分かるところは、
爾朱榮は爵位を継いで家督を継ぐと、
六鎮の乱の発生前後あたりで
兵の召集を開始したということです。
▼よく分からないけど慧眼だった人。
爾朱榮が六鎮の乱以前に義勇を召集した、
その疑いがあるということですけども、
『北史』や『北齊書』あたりを見ると、
同じく六鎮の乱の発生を予想した人が
もう一人いるのですよねえ。
高歓、字は
この方は、
羽林の兵が暴動して朝廷の大臣を殺害した、
いわゆる羽林の変を見て世の乱れを予想、
それまで懐朔鎮の函使として洛陽と鎮を
往復していた下級官吏の暮らしを捨て、
遊侠の人と交際するようになったらしい。
函使はまあ、定期連絡便の運搬担当者、
とでも理解しておくとよいみたいです。
で、
高歓の奔走の友に劉貴という人がいます。
この劉貴は秀容郡の陽曲の出身、
早くから爾朱氏に仕えていたクサイ。
高歓との交際は、函使という性質上、
肆州に宿泊した際からでしょうね。
この劉貴、明かに懐朔鎮を訪ねて
一緒に鷹狩りなんかしてやがります。
その後、
函使を辞めた高歓は妻子を連れて
六鎮の乱に参加しました。
途中で身を脱して爾朱榮の許に
投じてはいるのですけど。
このあたりの経緯は、
何となく変なニオイがするんですよねえ。
少なくとも、
爾朱榮は六鎮の乱の発生前または直後に
義勇兵を集めていたらしく、
その部下と仲良しの高歓は乱発生より前に
公務員の身分をあっさり捨てていた、
このことが史書に記載されているわけです。
陰謀論なら色々と思いつきますね。
▼なぜか肆州を襲って刺史を捕らえてみました。
さて、
戦闘マシーンの練度が上がった爾朱兵団、
いよいよおかしなことをおっぱじめます。
▽
『魏書』爾朱榮伝
時榮率眾至肆州,
刺史尉慶賓畏惡之,
閉城不納。
時に榮は眾を率いて肆州に至るに、
刺史の尉慶賓は畏れて之を惡み、
城を閉じて納れず。
榮怒,攻拔之,
乃署其從叔羽生為刺史,
執慶賓於秀容。
榮は怒り、攻めて之を拔く。
乃ち其の從叔の羽生を署して刺史と為し、
慶賓を秀容に執う。
自是榮兵威漸盛,
朝廷亦不能罪責也。
是より榮の兵威は漸く盛ん、
朝廷も亦た罪責する能わざるなり。
尋除鎮北將軍。
尋いで鎮北將軍に除せらる。
△
秀容は肆州の一郡であります。
叛乱平定に大活躍の爾朱榮、
その途上で軍勢を肆州に入れましたが、
刺史の
軍勢を城内に入れませんでした。
このあたり、
爾朱榮が警戒されていたと分かります。
しかし、当然に爾朱榮は大激怒、
いきなり攻めかかって城を抜きます。
いやいや、
城を抜くのはマズイでしょう。
これじゃあ叛乱と変わりない。
ただ、
捕虜とした尉慶賓は礼遇したようで、
後には洛陽にお返ししていますしね。
北族というか遊牧民のみなさん、
わりと簡単に擬似血縁関係になります。
ちなみに、
北齊から北周に降った
『
そこで、
「北朝の連中は知り合えばすぐに義兄弟、父親くらい歳が離れた兄がいたりしてメチャクチャ。本来はよく付き合って人となりを知り、一族に面通ししてから義兄弟になるのが筋というもんだよ」
とお怒りになっておられます。
この義兄弟という風習ですけど、おそらく、
遊牧民の慣習だったんじゃないかなあ、と。
江南ではこの風習が薄かったことは明らか、
また、石勒や唐の頃の安禄山あたりも、
部将を養子にしたりしていますからねえ。
このあたり、
爾朱榮もキッチリ北俗を踏襲しています。
逆に言うと、
刺史に含むものがあったわけではなく、
肆州の支配権が欲しかったわけです。
そのため、
一族の
これは爾朱榮の任命によって、です。
普通、
刺史の任命は朝廷の権限ですからね。
それをないがしろにしているのです。
それはそれでどうなんでしょうね。
いずれにせよ、
時は六鎮の乱の真っ只中、
洛陽の朝廷は爾朱榮の罪を問えず、
逆に鎮北將軍に除任する有様でした。
北魏もいい感じに死に体になってきました。
次は、
爾朱氏と朝廷の関係を見ていきましょうか。
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