爾朱榮⑤リターン・オブ・トンデモ=爾朱氏は平城派?&六鎮の乱勃発です。

▼爾朱新興による閨閥形成からトンデモ説をひねり出しました。


キモチワルイことに

パパン=爾朱新興の愛に包まれて

洛陽で直寝を勤める爾朱榮ですが、

残念なことに、

列伝では洛陽でどう過ごしたか

一切の記述が省かれています。


ヤダー!

そういうところ省いちゃいますか。


一番大事なところやっちゅうに。


そういうわけで、

他の列伝から探ってみたいと思います。


でも、

見つかったのは一件だけでした。




『魏書』元繼伝

初,尒朱榮之為直寢也,

數以名馬奉叉,

叉接以恩意,

榮甚德之。

 初め,尒朱榮の直寢と為るや、

 數々名馬を以て叉に奉ぐ。

 叉は接するに恩意を以てし、

 榮は甚だ之を德とせり。




元乂は皇帝の生母、霊大后胡氏の妹の夫、

いわば、北魏の上級国民でありますね。


もちろん、宗室でもありますが。


粛宗=孝明帝の御代に権勢を振るい、

正光元年(520)には義姉の霊太后を幽閉、

孝明帝の親政を輔けて権勢を握りました。


爾朱新興が爵位を譲ったのは孝明帝の御代、

その頃、元乂の権勢は上り調子だったはず。


情勢を見極めて名馬で歓心を得たところは

代替わり直後の若僧にできることではなく、

パパンの指導があったことは確かでしょう。


さらに、

こちらは完全にパパンの判断となりますが、

爾朱榮は南安王の元禎げんていの娘を妻としています。

また、

おそらくやや時期が遅れると思いますが、

爾朱榮の妹は穆羆ぼくひの子の穆建ぼくけんに嫁ぎました。


穆羆という人は、

山西の西河胡の叛乱を平定した人でもあり、

吐京鎮が汾州に改められた時の州刺史です。


つまり、

秀容にほど近いエリアで活動した人です。


ただ、

同族の穆泰は孝武帝の洛陽遷都に反対し、

ついに叛乱して志を果たすことなく死に、

穆羆も関与が発覚して庶人にされました。


その一族の穆建に娘を嫁がせた点は、

ちょっと気になるところであります。


爾朱新興と穆羆の関係は

西河や離石にあるかも知れません。


一方、

その穆羆は遷都に反対して叛乱を図り、

爵位を削って庶人とされている。


それらを天秤に載せた結果として、

穆氏との縁組を選んでいるわけです。


以下はまあトンデモ気味ですが、

北魏の孝文帝の洛陽遷都は493年、

粛宗=孝明帝の即位が515年、

その間、20年ほどとなります。


平城時代を知る人は死に絶えていません。


洛陽遷都にあたっては平穏無事ではなく、

皇太子の元恂げんじゅんも平城で起こった叛乱に

与して廃嫡されてしまっているのです。


穆泰はその叛乱の中心人物です。


華の都洛陽!

中華文明サイコー!!

孝文帝バンザイ!!!


そういう人ならこの判断はおそらくない。


そもそも、

爾朱新興からして雁臣であって

洛陽べったりではありません。


モロに反対派でシバかれた穆羆と

縁組するっちゅーのは

それなりの思惑を感じざるを得ない。


つまり、

元恂-穆泰-穆羆と繋がる平城派に

シンパシーを感じていたんでないの?


そう考えられる気がしなくもない。


彼らは中原の皇帝ではなく、

北方から中原を睥睨し、

北の外モンゴルをも包含する、

別の北魏王朝を志向していた、

のかも知れません。


そうなると、

都は洛陽より平城であるべき。


後の行動を見る限り、

爾朱榮もこちら側の人ではなかったか、

そういう疑問がちょっとあるのですよ。


そして、

明らかにそちら側の穆羆との縁組から

その流れはパパン=爾朱新興から子の

爾朱榮に引き継がれたのではないか、

というように考えております。


まあ、

元恂が洛陽に移らなかった理由は、

「暑いからイヤ」だったのですけど。


ガキかよ!


以上、トンデモ説でした。




▼まずは蠕蠕を北伐して腕試しスタートです。


洛陽で顔を知られるようになった爾朱榮、

北魏が安定していれば、パパンと同じく

北魏の有力な豪族として一生を終える、

はずだったのですが、現実は無情です。


冒頭にお話した六鎮の乱の発生により、

その人生は大きく変わっていきます。




『北史』爾朱榮伝


正光中,四方兵起,

遂散畜牧,招合義勇。

 正光中、四方に兵の起こるに、

 遂に畜牧を散じて義勇を招合せり。


以討賊功,

進封博陵郡公,

其梁郡前爵聽賜第二子。

 賊を討つの功を以て

 進みて博陵郡公に封ぜられ、

 其の梁郡の前爵は第二子に賜わるを聽す。




『北史』の記述は極めてざっくりしており、

あまり何があったか分かりませんね。


これだと、六鎮の乱が起こった後、

・馬羊を売って義兵を募り、

・賊を討って博陵郡公に封じられ、

・梁郡公の爵位は第二子に与えられた。

という感じにまとめられます。


これではあんまりですので、

『魏書』で補填してみますね。


蠕蠕に対する北伐

・馬羊を売って義兵を募り、

▲馬と鎧を供給して武装させ、

▲蠕蠕主の阿那瓌が入寇すると

 都督の李崇の北征に従い、

▲4,000の軍勢を率いて磧を北に渡り、

▲追いつけずに軍勢を返した。


秀容の叛乱の平定

▲秀容の胡民の乞扶莫于が郡守を殺し、

▲南秀容の牧子の萬子乞真が太僕卿の陸延を

 殺し、

▲并州の牧子の素和婆崘嶮が叛乱し、

▲これら三つの叛乱を平定し、

 直閤將軍、冠軍將軍に任じられた。


肆州、瓜州での叛乱の平定

▲歩落堅の劉阿如たちが肆瓜で叛乱し、

▲敕勒の北列步若が沃陽で叛乱し、

▲これら二つの叛乱を平定し、

 安平縣開國侯、食邑一千戶に封じられた。

▲さらに、通直散騎常侍に任じられた。


朔州勅勒と費也頭の叛乱の平定

▲敕勒の斛律洛陽が桑乾の西で叛乱して

 費也頭の牧子と結び、

▲斛律洛陽を破り、費也頭を河西に逐い、

▲軍功により平北將軍、光祿大夫とされ、

 安北將軍を假されて北道都督とされた。

▲武衞將軍に任じられた後、

 使持節、安北將軍、都督恒朔討虜諸軍を

 加えられ、

 さらに撫軍將軍を假され、

・賊を討って博陵郡公に封じられ、

▲邑五百戶を増され、

・梁郡公の爵位は第二子に与えられた。


▲が補填箇所です。

って、

補填どころの騒ぎじゃねえ。


キョーレツに色々とありますね。

ざっと流れを見ていきましょう。


そういえば、

直寝から官位が遷ったという記述がない。


なので、この時には無任所の官に遷り、

雁臣の特権に浴していたんじゃないかなあ。


直寝の時に雁臣はムリがあると思いますが、

それはさておき。


まず、

六鎮の乱が起こると、

爾朱榮は馬羊を売って義勇兵を募りました。

パパン以来の蓄財がここで生きたわけです。


馬はたくさんおりますから、

義勇兵にも支給してやります。


これで、

大規模な騎兵隊が創設されました。


最初の敵は蠕蠕主の阿那瓌あなかいです。


蠕蠕=柔然とは先にご説明の通り、

北魏と異常なくらい仲が悪い北方の覇者、

とはいえ、

阿那瓌は家督争いに敗れて北魏を頼り、

援助を得て蠕蠕主になった経緯があります。


それでも、

背に腹は代えられませんから、

ひもじくなれば掠奪しに参ります。


不義忘恩とかじゃなくて

そういう生態なのですよ。


そんな蠕蠕に対する北伐が行われ、

爾朱榮はそれに従軍しております。


この時、

爾朱榮に従った軍勢は4,000人、

冠軍将軍の号を得ております。


どうも、

爾朱榮という人は少数精鋭で敵に向かう、

そういう習性があったように思います。


ブラック氏族のパワハラ軍事教練により

精鋭しか残らない事情もあったかもですが。


李崇という人は、

六鎮の乱のとっぱなあたりで

お亡くなりになるのですが、

なかなかの名将でありました。


北魏貴族らしく人品もなかなかに卑しい。


そんな李崇に従い、

蠕蠕を北に追ったわけでありますが、

陰山を越えてさらに北に渡ったものの、

追いつけずに軍勢を返しております。


コイツは軽視されがちですが、

なかなかに示唆的な経験でして、

爾朱榮はこの軍旅により陰山の北、

漠北という空間の存在を知りました。


あわせて、

そこに蠕蠕という敵がいることも。


この伏線はいずれ回収されるのです。

たぶん。


この時は戦にならず、

馬頭を南に返したわけですが、

帰ってからがいよいよ大変になります。

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