爾朱榮③第六天魔王の家系part2
▼爾朱榮のグランパことジジー=爾朱代勤の逸話から爾朱氏の立ち位置を探ってみます。
ヒーヒージーサンの爾朱羽健は
道武帝=拓跋珪
に従って土地を得たりしましたが、
ヒージーサンの爾朱鬱徳は空気で、
名前があるだけという扱いです。
よって、
すぐさまジーサンの爾朱代勤が現れます。
▽
『魏書』爾朱榮伝
代勤,世祖敬哀皇后之舅。
以外親兼數征伐有功,
給復百年,除立義將軍。
代勤は世祖の敬哀皇后の舅なり。
外親にして數々征伐して功あるを兼ぬるを以て
復百年を給わり、立義將軍に除せらる。
曾圍山而獵,
部民射虎,誤中其髀,
代勤仍令拔箭,竟不推問,
曰:
「此既過誤,何忍加罪。」
部內聞之,咸感其意。
曾て山を圍みて獵するに、
部民は虎を射て、誤りて其の髀に中る。
代勤は仍りて箭を拔かしめ、竟に推問せず。
曰わく、
「此れは既にして過誤なり。
何ぞ罪を加うるに忍びんや」と。
部內は之を聞き、咸な其の意に感ず。
高宗末,假寧南將軍,
除肆州刺史。
高宗の末、寧南將軍を假され、
肆州刺史に除せらる。
高祖賜爵梁郡公。
高祖は爵梁郡公を賜う。
以老致仕,歲賜帛百匹以為常。
年九十一,卒。
賜帛五百匹、布二百匹,
贈鎮南將軍、并州刺史,
諡曰莊。
老を以て致仕し、歲ごとに帛百匹を賜わり、
以て常と為す。
年九十一、卒す。
帛五百匹、布二百匹を賜わり、
鎮南將軍、并州刺史を贈られ、
諡して莊と曰う。
孝莊初,榮有翼戴之勳,
追贈太師、司徒公、錄尚書事。
孝莊の初め、榮に翼戴の勳あり、
太師、司徒公、錄尚書事を追贈さる。
△
で、この爾朱代勤ですが、
世祖=太武帝=
の皇后、世祖敬哀皇后の
舅=しゅうと、ではないよ。
皇后の姓は賀氏=
当然、爾朱代勤の娘ではありません。
そうなると、
爾朱代勤は賀皇后の母の兄弟
と解するべきでしょうね。
要するに、
┌爾朱代勤
爾朱鬱徳─┤
└代勤の妹
├─────敬哀皇后
賀蘭氏の誰か
爾朱鬱徳の娘が賀蘭氏に嫁いで娘を産み、
それが太武帝の皇后となったわけです。
このあたり、
爾朱鬱徳は何もしなかったわけでなく、
賀蘭氏のような有力部族と姻戚関係を
結ぶなど、なかなかやり手ですねえ。
それが効いて、
爾朱代勤は太武帝の外親として
わりあいに優遇されていますよ。
征伐で軍功を建てたこともあり、
復百年を与えられています。
この復は要するに納税免除ですね。
なので、
爾朱氏は100年に渡って納税を免除された、
と解してまあよいんじゃないでしょうか。
租なのか庸なのか調なのかは知りません。
で、
高宗=文成帝=
の治世に入りますが、
この拓跋濬は太武帝の孫にあたります。
父の
この拓跋晃が太武帝と敬哀皇后の子です。
よって、
爾朱代勤にとって文成帝は姪の孫です。
その時には秀容を含む肆州の刺史となり、
なかなか羽振りもよかったようですね。
高祖=孝文帝=
の治世に入ると、
梁郡公の爵位を授けられ、
爾朱氏は晴れて公爵家となりました。
こうして見ますと、
爾朱氏は賀蘭皇后の姻戚ということもあり、
北魏の中枢ともよい関係にあったようです。
その爾朱代勤も孝文帝の御世に世を去り、
いよいよ
爾朱氏はパパン=
および、爾朱榮の時代に入ります。
▼パパン=爾朱新興は酪農家または実業家の才能があったっぽい。
パパンの爾朱新興ですが、
名前が新興であるだけに一味違います。
というより、
北魏中枢との外親関係も薄れており、
新たな強みを探したのではないか、
というような逸話になっております。
▽
『魏書』爾朱榮伝
父新興,太和中,繼為酋長。
家世豪擅,財貨豐贏。
父の新興、太和中に繼ぎて酋長と為る。
家は世々豪擅、財貨は豐贏たり。
曾行馬羣,見一白蛇,頭有兩角,遊於馬前。
曾て馬羣に行くに一白蛇を見る。
頭に兩角あり、馬前に遊ぶ。
新興異之,謂曰:
「爾若有神,
令我畜牧蕃息。」
新興は之を異とし、謂いて曰わく、
「爾に若し神あらば、
我が畜牧をして蕃息せしめよ」と。
自是之後,日覺滋盛,
牛羊駝馬,色別為羣,
谷量而已。
是よりの後、日ごとに滋盛なるを覺え、
牛羊駝馬は色ごとに別ちて羣と為し、
谷もて量るのみなり。
朝廷每有征討,輒獻私馬,
兼備資糧,助裨軍用。
朝廷に征討ある每に、輒ち私馬を獻じ、
兼ねて資糧を備え、軍用を助け裨う。
高祖嘉之,除右將軍、光祿大夫。
高祖は之を嘉し、
右將軍、光祿大夫に除せらる。
及遷洛後,
特聽冬朝京師,夏歸部落。
洛に遷るの後に及び、
特に冬に京師に朝し、
夏は部落に歸るを聽さる。
每入朝,
諸王公朝貴競以珍玩遺之,
新興亦報以名馬。
朝に入る每に、
諸王公朝貴は競いて珍玩を以て之に遺り、
新興は亦た報いるに名馬を以てす。
轉散騎常侍、平北將軍、
秀容第一領民酋長。
散騎常侍、平北將軍、
秀容第一領民酋長に轉ず。
新興每春秋二時,
恒與妻子閱畜牧於川澤,
射獵自娛。
新興は每に春秋の二時、
恒に妻子と畜牧を川澤に閱し、
射獵して自ら娛しむ。
肅宗世,
以年老啟求傳爵於榮,
朝廷許之。
肅宗の世、
年老を以て啟して爵を榮に傳うるを求め、
朝廷は之を許す。
正光中卒,年七十四。
贈散騎常侍、平北將軍、恒州刺史,
諡曰簡。
孝莊初,
贈假黃鉞、侍中、太師、相國、西河郡王。
正光中に卒す。年七十四なり。
散騎常侍、平北將軍、恒州刺史を贈られ、
諡して簡と曰う。
孝莊の初め、
假黃鉞、侍中、太師、相國、西河郡王を贈らる。
△
まず、
爾朱新興の代の爾朱氏は、
牧畜に力を入れたようです。
もともと遊牧民なのに何を今さら、
というご意見もおありでしょうが、
爾朱新興の代で必ず何かあったはず。
頭に角が生えた蛇を見つけて
牧畜の繁昌を祈った
という逸話は、
爾朱新興の代に爾朱氏の牧畜に
何かがあったと考えねばならない。
そして、
その結果が、
牛羊駝馬は色ごとに別ちて羣と為し、
谷もて量るのみなり。
牛、羊、駱駝、馬を毛色ごとに分け、
それぞれを谷の牧地に分けて育てる
という繁栄に繋がったと見ています。
そうじゃないと、
この逸話を挟む意味が分からない。
思うに、
北の朔州の
西の河套の
同じ山西の
といった遊牧民たちとの交渉があった。
それらの人々は、より広い範囲を遊牧し、
さまざまな知識を持っていたでしょう。
交配、飼料、病気や怪我の治療といった
経験により蓄積された知識を広く集め、
よいものを取り入れて悪い習慣を改める。
それだけでもかなり違ったのではないか。
これにより、
爾朱代勤の代までは武人としての性質が
極めて強い爾朱氏が牧畜による経済力で
世に知られるようになったと考えます。
その結果、
朝廷に征討ある每に、輒ち私馬を獻じ、
兼ねて資糧を備え、軍用を助け裨く。
軍事力の提供に加えて、軍需品の提供まで
担うようになったのではないでしょうか。
そうこうするうちに、
爾朱氏は他の豪族と比して
一種独特の立ち位置を確保したはずです。
この存在感と朝廷への貢献を評価され、
洛に遷るの後に及び、
特に冬に京師に朝し、
夏は部落に歸るを聽さる。
孝文帝の洛陽遷都後も洛陽に常駐せず、
冬だけは洛陽に滞在して朝廷に出仕し、
夏は北の部落に帰ることを許されました。
これは
さらに、
爾朱新興は朝廷での処世にも優れ、
朝に入る每に、
諸王公朝貴は競いて珍玩を以て之に遺り、
新興は亦た報いるに名馬を以てす。
王公や朝廷の貴人に名馬を贈ることにより、
その歓心まで得ていたのです。
当然、
贈られた珍玩より高価な名馬を贈ったはず。
これらの処世を見る限り、
爾朱新興は現実的で利に聡く、
政治家というより実業家として
有能な人ではないかと想像します。
爾朱新興には加爵の記事がなく、
代勤以来の梁郡公のままのようですが、
官職は、
右將軍、光祿大夫
から
散騎常侍、平北將軍、秀容第一領民酋長
に移っています。
爾朱代勤が、
立義將軍
から
假寧南將軍、肆州刺史
という経歴と比較すると、
散官でも官職を得て朝廷に地歩を築き、
無任所なので洛陽に詰める必要もない。
爾朱代勤が将軍号しか持たないのは
洛陽遷都前だからと推測されますが、
爾朱新興は洛陽の朝廷にありながら、
秀容の軸足を動かさない立ち回りをした
と見られます。
孝文帝の治世は爾朱新興が家長を務め、
粛宗=孝明帝=
の治世に入ると、
老齢を理由に爵位を爾朱榮に譲り、
いよいよ爾朱氏は飛躍の時を迎えます。
あ、
孝文帝の代で拓跋氏は元氏に改姓してます。
なんで、この後の皇帝は全員、元氏です。
うーん、楽しみですね。
わりとマジメにやってんじゃん、よしよし。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます