爾朱榮②第六天魔王の家系Part1

▼爾朱氏は山西に土着だったか外来種だったか問題を考える。


爾朱榮の列伝は『魏書』と『北史』に

収められています。


このあたり、東魏~北齊に敵対していた

王羆、王思政、韋孝寛とは違いますね。


ちゃんと『魏書』に記載があります。


しかも、

『魏書』の編纂にあたった魏収に

爾朱榮の子の爾朱じしゅ文略ぶんりゃく

ワイロを贈ったことが奏功いたしまして、

『魏書』の爾朱氏は大絶賛に近くなった、

という人間的なエピソードもございます。


そういうわけで、

二書の列伝を参照しつつ読んでいきますよ。

ただ、

オモシロイのはやはり『魏書』です。



『魏書』爾朱榮伝


尒朱榮,字天寶,北秀容人也。

其先居於尒朱川,因為氏焉。

常領部落,世為酋帥。

 尒朱榮、字は天寶、北秀容の人なり。

 其の先は尒朱川に居し、因りて氏と為せり。

 常に部落を領し、世々酋帥たり。


高祖羽健,登國初為領民酋長,

率契胡武士千七百人從駕平晉陽,定中山。

論功拜散騎常侍。

以居秀容川,

詔割方三百里封之,

長為世業。

 高祖の羽健は登國の初めに領民酋長と為り、

 契胡の武士千七百人を率い、

 駕に從いて晉陽を平げ、中山を定む。

 論功して散騎常侍を拜す。

 秀容川に居するを以て、

 詔して方三百里を割きて之に封し、

 長らく世業と為す。




爾朱榮の字は天寶といいます。

天の宝とはなかなか思い切った字です。


自分でつけたと考えると実に味わい深い。


「オレは天の宝だ」


というわけで、誰が聞いても


「コイツ痛え」


と思わざるを得ません。


しかしまあ、

そういう人ならやむを得ないですし、

付けた字が史書に残ってしまった。


こうなっては仕方ありませんね。


一点注意が必要なのは、

北族の字は幼名の場合があります。

そうなると、

爾朱榮の字=天寶(笑)も実際は、

パパンが付けた幼名の可能性あり。


そうなると、

「どんだけ愛されてんだよ。。。」

という可能性もなくもなくもない。


その場合、

「天の宝」に相当する別の言葉、

匈奴系か、

鮮卑系か、

そんな感じの幼名だった可能性もあるかも、

ですね。


さて、

その爾朱氏ですが、もともとは、

尒朱川じしゅせんという地に住んでおり、

部族を率いる酋帥という立場にありました。


尒朱川の場所は不明。


その後、

爾朱榮のヒーヒージイサンにあたる、

爾朱じしゅ羽健うけんの代で

道武帝=拓跋珪たくばつけい

に従います。


そこから、

領民酋長という官職なのか何なのか、

イマイチ感じが掴めないものに任じられ、

契胡の武士1700人を率いて道武帝に従い、

晋陽を攻めてさらに中山攻めにも加わった。


1700人というのはなかなかの規模です。


祖父母、父母、子供四人の8人家族で

一家が構成されるとして、

兵役に加われるのは父と壮丁の子供2人の

三人と考えると、3/8が出征することになる。


単純計算で部落の規模は約5000人となります。


その際の軍功によって秀容川のあたりで

方300里の地を与えられたそうで、

そこで生業を営むことになったようです。


以上は文字面だけを読んだわけですが、

爾朱氏について以下の点が分かります。

・爾朱氏は尒朱川の部落で暮らしていた

・登国の初めに爾朱羽健が北魏に従った

・契胡兵1700人を率いて従軍した

・戦功により秀容に土地を与えられた

情報は以上となります。案外少ない。


で、

登国の初めは北魏の道武帝=拓跋珪の治世、

魏がいよいよ慕容垂ぼようすいの後燕との戦を始める、

ちょうどその頃にあたります。


ちなみに、

慕容垂が健在の間、拓跋珪は句注山こうしゅさんの南に

兵を進められておりませんでした。


つまり、山西に入っていない。


ぶっちゃけ、

慕容垂が強すぎてどうにもならんかった。

それが

慕容垂の老病に乗じてソロソロ侵攻した。


で、

慕容垂の死と後燕の混乱もあり、

それが上手くいったわけですけども、

戦勝の後に論功でご褒美を貰います。


ここで気になる点が一点、

 秀容川に居するを以て、

 詔して方三百里を割きて之に封し、

 長らく世業と為す。

論功の際、すでに爾朱氏は秀容川のあたりに

居住していたので、その地を与えられました。


これは二通りに解釈できます。


一つ目、

爾朱氏は尒朱川に暮らしていたが、

道武帝に従って晋陽や中山に転戦し、

その間に部落を秀容川に置いていた。

 =道武帝に従ってから秀容川に移住


二つ目、

爾朱氏は尒朱川に発したが、遊牧するうち

そこから秀容川に移っていた。

 =道武帝に従う前から秀容川に移住


後者が正しいのではないかと思います。


『魏書』を読んでいると、多くの氏族が

この「登国初め」に北魏に従っている。


つまり、

登国年間に道武帝は平城から南にある

晋陽を併呑しましたが、それ以前に

句注山の南の部族たちに調略をかけ、

切り崩していたと推測しているのです。


よって、

他の地域にあって道武帝に従い、

論功により秀容に領地を与えられた、

というストーリーよりも、

もともと秀容にあって道武帝に

調略されて従った

という方が可能性高そうに思います。


そうじゃないと、

そもそも爾朱氏はどこから来たか?

なぜこの時期に北魏に降ったか?

がまったく藪の中になってしまう。


なので、

爾朱氏は山西秀容土着の遊牧民であり、

北の平城から侵攻してきた北魏に従い、

軍功により秀容の地の領有を認められ、

その種族は契胡と呼ばれていた、

と理解しておくのが穏当なのかなあ、

と現時点では考えております。


北魏の金石文とか掘り返したら、

また意見が変わるかも知れんけど。




▼なぜか北秀容の地に固執するヒーヒージーサン爾朱羽健。


もう一つ、

爾朱氏の秀容土着を疑う理由があります。




『魏書』爾朱榮伝


太祖初以南秀容川原沃衍,欲令居之,

羽健曰:

「臣家世奉國,給侍左右。

北秀容既在剗內,差近京師,

豈以沃塉更遷遠地。」

太祖許之。

 太祖の初め、南秀容の川原の沃衍なるを以て、

 之に居せしめんと欲せり。

 羽健は曰わく、

「臣の家は世々國を奉じ、左右に給侍す。

 北秀容は既に剗內に在り、差や京師に近し。

 豈に沃塉を以て更めて遠地に遷らんや」と。

 太祖は之を許す。


所居之處,曾有狗舐地,

因而穿之,得甘泉焉,

至今名狗舐泉。

 居する所の處に、曾て狗の地を舐むる有り、

 因して之を穿ち、甘泉を得る。

 今に至るも狗舐泉と名よばる。


羽健,世祖時卒。

曾祖鬱德,祖代勤,繼為領民酋長。

 羽健は世祖の時に卒す。

 曾祖の鬱德、祖の代勤、繼ぎて領民酋長たり。




同じく道武帝の頃、

南秀容の川原が肥沃だったので、

道武帝が気を利かせてそちらに

遷るよう命じたことがあります。


その時、爾朱羽健は

「わしの家はこれから代々、魏にお仕えして左右に近侍せにゃあならん。北秀容は畿内にあって平城にも近いじゃろ。肥沃だからなんちゅう理由で遠くの地に遷るようなマネはいたしますまいよ」


そう言ってオコトワリしたようです。


まあ、

国都が近い云々はリップサービスとして、

北秀容が古くからの拠点とすると、

ここを離れることを望まないはずです。


このことからも、

爾朱氏が秀容に居ついてから久しく、

転地を望まなかったのではないか、

というようにも考えられるのですね。


その北秀容には、

狗舐泉こうしせん」という名の

泉があったようです。


犬が舐めていた場所を掘り返すと、

泉を得たというよくあるヤツです。


ここ掘れワンワン。


これは、北秀容の土地勘がない頃、

つまり、

住み始めた頃に発する逸話でしょう。


どうも、

なぜここに置かれたのか、

その意図が解しにくい。


何となく、

爾朱氏のトーテムは犬だった、

と臭わしているような、

そうでもないような。


その爾朱羽健も

世祖=太武帝=拓跋燾たくばつとう

の頃に世を去ります。


それ以降、

ヒージイサン=爾朱じしゅ鬱德うつとく

ジイサン=爾朱じしゅ代勤だいきん

と代を重ねていくことになるのであります。

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