北魏末「第六天魔王とその一族の末路」
爾朱榮(北魏)「出が早すぎて誰にも理解されなかった天可汗」
爾朱榮①六鎮の乱ってなあに?&暴走して爾朱氏を匈奴認定してみる。
平成から令和に改元されましたが、
みなさまいかがお過ごしでしょうか。
ナマで改元を体験する機会も
なかなかありませんから。
この機会に改元をご堪能下さい。
令和元年五月一日
▼六鎮の乱をあっさり語る。
さて、本題に入ります。
北魏末を語るにあたっては
正光四年(523)
が最初のターニングポイントとなります。
この年、沃野鎮の人とされる、
この叛乱をきっかけとして、
といった北辺の六鎮が叛乱します。
しかし、
調査した結果ではそれより先に
叛乱が発生しており、これが契機クサイ。
ここは試験に出ますが、
覚えなくていいです。
先生はねえ、
みんなのことを、
ホントに憎んでいるんだ。
以上、
大阪の某私立高校であった
実話を脚色してお送りしました。
さて、
鎮は行政区画の州に相当しますが、
人が少なく地が広いという特性上、
州とは区別されています。
六鎮の他にも鎮は存在しており、
河西の入口にあたるエリアには
という変な名前の鎮もありました。
ぶっちゃけ、
NHKの『シルクロード』でおなじみの
広い砂漠に何にもないエリアか草原の海、
そういう地域が大半を占めていた模様です。
まあ、
北魏が南に侵攻する過程では、
長安とかにも鎮が置かれていたのですが。
これは占領地の軍政を行う単位でしょう。
つまり、
鎮は濃厚に軍事的色彩を帯びておった。
この六鎮の乱の詳細は別にお話します。
というのも、
乱の性質から話はエビ反り気味に
孝文帝の治世にまで遡り、
非常に煩雑にならざるを得ないのです。
あっさり簡潔にお話もできますが、
そんな意志がないので仕方ない。
固めコッテリねぎ多めで
やらせて頂くつもりです。
だが、
それは今じゃない。
(いつだよ?)
話を戻しまして、
六鎮の乱は西北辺からスタート、
当然のように東と南に広がります。
何しろ、
陰山の西端の沃野鎮で始まって
北京の北の
黄巾の乱も顔負けの大反乱です。
何より、
参加者が農民じゃなくて遊牧民&府戸、
府戸は鎮に従う下級兵と思って下さい。
要するに、
「
ヤバさが伝わる感じでしょうか?
そら、大混乱にもなりますわな。
叛乱は陰山南麓を東に広がり、
一部はおそらく黄河を遡って薄骨律鎮の
対岸にある
高平は今の固原、隴西の要衝の一つです。
なんで要衝かというと、
西に向かえば武威などの河西、
東に向かえば涇陽など涇水沿岸、
南に向かえば秦州
といった各方向に道が分岐しているのです。
さらに悪いことに、この地域には
漠北で拉致った高車のみなさんを
北魏が入植させてやがりました。
そもそもコワモテ&北魏に不満アリアリの
高車のタフガイが黙っているはずもない。
マッチ一本の火で燃え上がりまくります。
当然のように、
叛乱の火は南の秦州にまで広がり、
そのあたりをウロウロしておりました
毎度おなじみ羌族のみなさんが蜂起、
長安の西の秦州が乱れれば、
ドミノ倒しのように火は東に向かって
雍州界隈も騒然とします。
韋孝寛が洛陽に叛乱をチクッた蕭寶寅も、
雍州界隈の叛乱鎮定にあたっています。
ここまでは余談。
マジか、長すぎ。
むしろ大事なのは
陰山南麓を東に広がった叛乱の行方です。
▼盛大に脱線して破六韓氏と歩六孤氏と歩落稽の音が近すぎて、もしかしてこれ同じじゃない?問題をムダに暑く語る。
陰山南麓、要するに内蒙古ですね。
このエリアでの叛乱は東に広がり、
破六韓抜陵の他に、
の二人が大物として挙げられます。
懐朔鎮将だった
その他に、
破六韓抜陵に従っていた
という人があり、武川鎮を陥れました。
この武川鎮失陥が100年ほど後に
武川鎮軍閥の精華としての
唐王朝の建国
に繋がるとは誰も思いますまい。
当たり前か。
ちなみに、
杜洛周は『魏書』などの記載、
杜斤洛周は『梁書』の記載です。
同一人物ですけど南朝の方がナマっぽい。
ナマっぽいっつーか、
バルバロイ=野蛮人っぽい。
衛可孤と衛可瓌はおそらく文字が互通で、
後年に北齊の
この、
という互通はちょっと気になる。
脱線ついでに暴走すると(するな)、
北魏に
漢人風には陸氏と省略されるのですが、
この歩六孤って
疑っているのです。
歩落稽は
略して
さらに暴走すると、
この歩落稽は匈奴の別部とされますが、
破六韓抜陵の破六韓部も匈奴とされ、
歩と歩と歩と破
六と落と落と六
孤と稽と堅と韓
近そうな音で構成されているのですね。
で、
破六韓部は黄河の湾曲部である河套地方、
オルドスから山西の離石界隈をウロウロと
していたっぽい。
コイツらフツーに黄河を渡るのね。
その山西の離石や杜京のあたりは、
歩落稽のみなさんがいたエリアです。
さらに、
杜斤洛周の杜斤は山西の杜京と音が近い。
なんとなく、
六鎮の乱で暴れていた人たちって、
山西に取り残された生胡の方々と
近しそうな人が多いなあと思います。
無論、
匈奴屠各部のエリートである
獨孤氏のような名門の方々は、
六鎮に配されておりましたが、
それ以下の取り残され組も
多数おったと思うのですよね。
どうも、
六鎮の乱には匈奴系の怨念のような
何かを感じる気がしなくもないのです。
拓跋部、許すまじ。
ノーモア、北魏。
ノーモア、鮮卑。
で、
ぶっちゃけてしまいますと、
後段で語られる
契胡=稽胡で彼らも匈奴系じゃないか、
と何となく疑っているのが現状なのです。
契胡=
何となくしっくりこない、個人的に。
というか、
羯胡も匈奴系なんで、
爾朱氏=匈奴系の結論変わらんやんけ。
問い
爾朱氏が羯胡よりも稽胡が望ましい、
その理由を述べよ。
答え、
特になし。
強いて言うならそっちのがオモシロそう。
以上、明らかなトンデモ言説でした。
眉にツバをつけて頂ければ幸いです。
▼六鎮の乱と爾朱氏。
盛大に読む方を置き去りにしたところで
話を爾朱氏と六鎮の乱に戻します。
遅いわ。
先ほどよりご説明のとおり、
陰山南麓で勃発した六鎮の乱、
一方、
爾朱氏の本拠地は山西の
僻地っぽい感じの山がちなエリアです。
何しろ、汾水沿岸から秀容に行くまでに
曲がりくねった峠道を行かねばならない。
その名も、
羊の腸という命名もあからさまに北族ですが
そんくらいグネグネ曲がっておったと。
車なら酔うこと必至です。
肆州とは聞き慣れない名前ですが、
要するに、
太原がある
代郡平城がある
山西の北の端と考えて下さい。
ということは、
恆州は六鎮の乱のデリケートゾーン、
討伐の拠点になったり失陥したりと
ワチャワチャすること請け合いですが、
一歩引いた位置の肆州は比較的平穏、
結果として、六鎮の乱を逃れた人々を
受け入れる場所となったのです。
爾朱氏には、
宇宙代将軍=
といった人々が逃げ込みます。
それもあって、
爾朱氏は山西の雄と言うに足る
軍事力を貯えて動き始めるのです。
しかも、
爾朱氏の当主はまだ30代初め、
狩猟大好き人でなしのオッサン、
これはもう、
何も起きない方が不思議というものです。
この「スーパー人でなし」がどのように
北朝貴族のみなさまを恐怖のズンドコに
突き落としたのか、拝見していきますよ。
ご興味の向きはお付き合い下さい。
ただし、かなり長くなりますのでご注意を。
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