韋孝寬⑧徐々に心の黒さが表れてきました。
▼獨孤信と洛陽に入って豫州まで軍勢を進めました。
沙苑の役で勝った後、
西魏の獨孤信は洛陽に入ります。
王思政もこれに従っていたことは
先に述べたとおりですが、
この時、
韋孝寛も一緒に洛陽に入っています。
『北史』韋孝寬伝
仍與獨孤信入洛,
為陽城郡守,
復與宇文貴、怡峯
應接潁川義徒,
破東魏將任祥、堯雄於潁川。
孝寬又進平樂口,
下豫州,獲刺史馮邕。
仍りて獨孤信と洛に入り、
陽城郡守たり。
復た宇文貴、怡峯と
潁川の義徒を應接し、
東魏の將の任祥、堯雄を潁川に破る。
孝寬は又た進みて樂口を平らげ、
豫州を下して刺史の馮邕を獲る。
陽城郡守に任じられた韋孝寛は、
潁川まで軍勢を進めています。
陽城は洛陽から潁川に向かう途上、
つまり、洛陽の南東にあります。
要するに、
洛陽の南東を委ねられたに等しい。
翻って考えれば、
潁川方面の攻略を委ねられた、
とも解釈できます。
この時、
潁川は東魏に押さえられていました。
ただ、
潁川の長史を務める
刺史の
文中の義徒とは賀若統とその一党を指します。
ちなみに、
この賀若統は韋孝寛と同じく唐宋の史家に
「名将」と評された
パパンでもあります。
東魏=高歓としても
潁川の失陥を黙ってはおれません。
というメンバーを奪回に向かわせました。
任祥の本軍だけでも四万という大軍です。
これに対し、
西魏の宇文貴、怡峯は洛陽から
二千の軍勢を率いて救援に向かい、
韋孝寛がいる陽城を経て
潁川に近い
その頃には、
堯雄の軍勢は潁川から
三十里にまで迫っていました。
西魏の援軍は潁川の城に入ると、
城を背にして必死に抵抗し、
堯雄の軍勢を打ち破ります。
この一戦だけで死傷者が一万を超えた
と言いますから、
東魏の力の入り方が分かります。
任祥は先鋒の敗戦を知ると、
潁川の北にある
そこを西魏軍に追撃されて撤退します。
その勢いを駆り、
韋孝寛は
口字が付く地名は川の合流点が多いですが、
楽口の位置は分かりません。
『北史』や『周書』には豫州内の地として
よく表れるのですけどね。
苑陵または潁川から
道上にあったと考えられます。
北魏の豫州の治所は上蔡なのです。
東魏でも変わらなかったんじゃないかなあ。
知らんけど。
刺史を捕らえていますから、
けっこうな大功ですね。
しかし、
維持することはできなかったようで、
すぐに軍勢を返しました。
▼河橋の戦の後に最前線中の最前線に行かされました。
翌年、
西魏の文帝の大統四年(538年)の八月、
河橋の戦がありました。
洛陽周辺にいた韋孝寛は参戦していました。
又從戰於河橋。
時大軍不利,邊境騷然,
乃令孝寬以本將軍
行宜陽郡事。
尋遷南兗州刺史。
又た河橋に戰うに從う。
時に大軍は利あらず、邊境は騷然とす。
乃ち孝寬をして本將軍を以って
宜陽郡事を行わしむ。
尋いで南兗州刺史に遷る。
河橋の戦は西魏軍の敗北で終わりますが、
この後、弘農は王思政に委ねられ、
韋孝寛は宜陽郡の統治を任されました。
宜陽郡は弘農よりさらに洛陽に近く、
最前線もいいところです。
追って西魏はこの地を
韋孝寛を刺史に任命したのでしょう。
まさにドロナワ。
▼離間の計で宜陽を守り抜きました。
ここまで韋孝寛の具体的な活躍は
描かれませんでしたが、
いよいよ詳しい話が出て参ります。
ただし、
心の黒さが際立った感じでもありますが。
『周書』韋孝寬伝
是歲,
東魏將段琛、堯傑復據宜陽,
遣其陽州刺史牛道恆
扇誘邊民。
孝寬深患之,
乃遣諜人訪獲道恆手迹,
令善學書者
偽作道恆與孝寬書,
論歸款意,
又為落燼燒迹,
若火下書者,
還令諜人送於琛營。
琛得書,果疑道恆,
其所欲經略,皆不見用。
孝寬知其離阻,
日出奇兵掩襲,
擒道恆及琛等,
崤澠遂清。
是の歲、
東魏の將の段琛、堯傑は復た宜陽に據り、
其の陽州刺史の牛道恆を遣りて
邊民を扇誘せしむ。
孝寬は深く之を患う。
乃ち
諜人を遣りて道恆の手迹を訪ね獲さしめ、
善く書を學ぶ者をして
道恆の孝寬に與うる書を偽作せしむ。
歸款の意を論じ、
又た燼に落として燒くるの迹を為り、
火の書に下せるが若きを
還って諜人をして琛の營に送らしむ。
琛は書を得て果たして道恆を疑い、
其の經略せんと欲する所は皆な用いられず。
孝寬は其の離阻を知り、
日ごとに奇兵を出して掩襲し、
道恆及び琛等を擒う。
崤澠は遂に清し。
洛陽のすぐ西、
宜陽の防衛を任された韋孝寛ですが、
東魏も宜陽を狙っていました。
部将の
宜陽に送り込み、
高歓により陽州刺史に任じられた
西魏に叛くよう士民を煽動していたようです。
陽州は北魏の頃、
宜陽に置かれた州のようです。
東魏の攻勢に手を焼いた韋孝寛は、
牛道恆に離間の計を仕掛けます。
まずは間諜を遣わして牛道恆の筆跡を入手し
その筆跡を真似て牛道恆が韋孝寛に
内通したような文章を書かせました。
その書状に焼いた跡を偽装し、
段琛の手に入るよう仕向けます。
書状を見た段琛は牛道恆を疑い、
その献策を容れません。
当然のように
相互の協力も欠くようになります。
段琛と牛道恆が疑心暗鬼に陥った後、
韋孝寛はそれぞれを各個撃破しました。
戦に敗れた段琛と牛道恆は捕らえられ、
宜陽は西魏の領土となりました。
こういう計略をスラスラと立案できるのは、
史書を読み込んで事例を蓄積していたか、
生来の心の黒さか、
いずれかと思われますが、
どっちなんでしょうね。
▼王思政の跡を継いで玉壁に鎮守しました。
そういう良心を殺した計略を用いて
任務に勤しむ韋孝寛ですが、
翌年には侯の爵位を授けられます。
言うまでもなく、
宜陽を守り抜いた勲功の褒賞でしょう。
『周書』韋孝寬伝
大統五年,進爵為侯。
八年,轉晉州刺史,
尋移鎮玉壁,
兼攝南汾州事。
先是山胡負險,
屢為劫盜,
孝寬示以威信,
州境肅然。
進授大都督。
大統五年、爵を進めて侯と為る。
八年、晉州刺史に轉じ、
尋いで移りて玉壁に鎮し、
攝南汾州事を兼ぬ。
是より先、
山胡は險を負いて屢々劫盜を為すも、
孝寬は示すに威信を以ってし、
州境は肅然たり。
進みて大都督を授けらる。
それより大統八年(542)までの四年間、
ひたすら宜陽にあったようです。
この時の命令系統は、
王思政の部下という位置だったようです。
王思政は東道行臺の職を授けられており、
河東と洛陽の西一帯、東魏との最前線を
任されていました。
宜陽はそのエリアに含まれ、
黄河の南で一番洛陽に近い場所です。
おそらく、
王思政は韋孝寛と
密に連絡を取っていたでしょう。
それゆえ、
自分の跡を韋孝寛に継がせたいという
気持ちが生じたはずです。
要するに、
王思政にとって
韋孝寛は信用できる部下であった、
ということですね。
そのため、
王思政が荊州に転任するにあたり、
韋孝寛が代わって玉壁に鎮守します。
河東の要衝である玉壁の重要性は
先に述べたとおりです。
匈奴系の異民族が多い地にありながら、
統治を安定させることにも成功しました。
その結果、
南汾州には「
と呼ばれる遊牧民があり、
別名を
または
とも呼ばれ、
おそらく匈奴の一部族だと思われます。
山西でも西の黄河沿い、
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