韋孝寬⑥荊州で「連璧」と呼ばれました。

▼荊州で獨孤信と「双璧」と呼ばれました。


この時期は狂ったように改元が多いので

分かりにくい。


ちょっと整理してみます。


孝昌三年(527):韋孝寛19歳

 蕭寶夤の叛乱を洛陽に報告して統軍になる

武泰元年(528):韋孝寛20歳

 蕭寶夤が敗戦、万俟醜奴の許に逃げ込む

 (韋孝寛は楊侃に見込まれて娘を娶る)

建義元年(528):四月に改元

 父の韋旭が大行臺右丞に任じられる。

 多分、爾朱榮に協力していた

 (王羆さんは荊州の梁軍を撃退)

永安元年(528):九月に改元

 宣威將軍、給事中の官を授けられる


ここまではそういう経緯であります。

そうなると、

宣威將軍、

給事中

に任じられたのは、21-22歳の頃のお話、

早くから活躍していたわけですね。


永安も三年で終わり、

翌年の普泰元年(531)、

韋孝寛は荊州に向かいます。



『周書』韋孝寬伝

普泰中,以都督

從荊州刺史源子恭鎮襄城,

以功除浙陽郡守。

獨孤信為新野郡守,同隸荊州,

與孝寬情好款密,政術俱美,

荊部吏人,號為聯璧。

孝武初,以都督鎮城。


 普泰中、都督を以て

 荊州刺史の源子恭の襄城に鎮するに從い、

 功を以て浙陽郡守に除せらる。

 時に

 獨孤信は新野郡守たりて同じく荊州に隸い

 孝寬と情好は款密、政術は俱に美し。

 荊部の吏人は號して聯璧と為す。

 孝武の初め、都督を以て城に鎮ず。



源子恭げんしきょうが荊州に行った

理由はよく分からないのですが、

どうも源子恭は爾朱榮の亡き後、

爾朱氏に対抗する動きをとった節があり、

左遷されたのかも知れません。


少なくとも、

爾朱氏にとっては

洛陽にいて欲しい人ではなかったっぽい。


ちなみに、

源氏はもともとを禿髪とくはつ氏といい、

北魏に降った時に姓を改めています。


禿髪と拓跋はもともと同源なので、

源氏に改めたとされていますが、さて。


トクハツとタクバツだから

音が近いと言えば、近いでしょうけど。


それについて行った韋孝寛が

爾朱氏に嫌われていたかは分かりません。

韋旭の子であれば、

嫌われる理由はないのですけど。


ご身分は都督ととくなので、

一軍の将ですね。

なにげに出世してます。


何にせよ荊州に行って功績を挙げ、

浙陽せつよう郡守に任じられた、と。


この前年に獨孤信どくこしん

荊州の新野しんやに赴任しております。


獨孤氏はイコール匈奴きょうど屠各とかくです。


すなわち、

匈奴きょうど単于ぜんうの家柄、

名門ですよねえ。


この人は爾朱榮に従って転戦した人なので、

左遷であるはずがない。


そうなると、

韋孝寛も左遷ではないのかなあ。

あ、

お目付け役という可能性もありますか。


で、

荊州内の郡部では獨孤信と韋孝寛の政績が

抜群によく、かつ、大変に仲がよかった

ようです。


そのため、

荊州の官吏は二人を

連璧れんぺき

と呼んだそうです。


これは、

「双璧」みたいに解するとよいと思います。


『銀英伝』の

ミッターマイヤーとロイエンタールの

元ネタはこのあたりなのかなあ。


ちなみに、

獨孤信は終わりをよくせず、

北周に入ってから誅殺されております。


そのあたりも

ロイエンタールっぽいっちゃあ、ぽい。


しかし、

荊州の連璧は小説ほど単純ではなく、


 源子恭=爾朱氏からすると要注意

 獨孤信=爾朱氏の部将として活躍

 韋孝寛=パパンが爾朱氏に与したっぽい


という感じなので、

「連璧」も違う意味かも知れませんねええ。


源子恭にとって

二人は心を許せる部下だったのでしょうか。

それとも。。。まあいいや。


爾朱氏が洛陽を追われた後、

元脩げんしゅうが高歓により皇帝とされます。


これが孝武帝。

この人と王思政は仲がよかったわけです。


孝武帝の即位は韋孝寛が荊州に赴任した翌年、

532年のことでした。


その時、

韋孝寛は都督としてどこか分かりませんけど

城を鎮守していたらしい。


 孝武の初め、都督を以て城に鎮ず。


この一文の意味がよく分からないんですよねえ。


普通に考えれば、

任期が決まっているわけですから

荊州のはずなのですが。


どうも、何かの脱落があるような気もしますが、

詳細は不明。


いずれにせよ、

荊州で連璧と呼ばれていた韋孝寛には

次の仕事が待っておりました。



▼どこにいたのか不明だけど宇文泰に従いました。


韋孝寛が荊州に赴任した三年後の534年、

孝武帝は高歓と対立して長安に逃れます。


この間の経緯は王思政のところで

ちょろっと触れました



『北史』韋孝寬伝

周文帝自原州赴雍州,

命孝寬隨軍。

及剋潼關,

即授弘農郡守。


 周文帝は原州より雍州に赴き、

 孝寬に命じて軍に隨わしむ。

 潼關を剋くするに及び、

 即ち弘農郡守を授く。



周文帝=宇文泰が

隴西ろうせい原州げんしゅうから

長安がある雍州に赴いた時、

自分の軍勢に加わるよう

韋孝寛に命じたらしいです。


そうなると、

王羆さんと同じく、韋孝寛も杜陵にいた

ということになりますかね。


翌年の535年、

西魏軍が東魏軍を退けて潼関を占領した折、

弘農郡守に任じられたようです。


弘農はなかなかの要地ですから

能力を認められていたのでしょうね。


その二年後、

西魏の文帝の大統三年(537)一月、

東魏軍は大挙して侵攻を開始します。



『北史』韋孝寬伝

從擒竇泰,

兼左丞,節度宜陽兵馬事。


 竇泰を擒うるに從い、

 左丞、節度宜陽兵馬事を兼ぬ。



竇泰とうたいという人は、

王羆さんのところでも触れたとおり、

高歓の姉の夫です。


高歓の軍勢では常に先鋒を務めた人でもあり

速戦に能力を発揮する遊牧民っぽい人です。


竇氏はもともと

匈奴の紇竇陵氏きっとうりょうしですから、

遊牧民ど真ん中なんですけど。


この時、

東魏軍は三面から関中に攻め込みました。


河東の蒲坂ほはんからは高歓の本軍が、

高敖曹こうごうそうの軍勢が南の上洛じょうらくから

藍田関らんでんかんを目指し、

竇泰の軍勢が潼関に向かいます。


この時の本命は潼関。


高歓と高敖曹がオトリとなり、

竇泰が潼関を抜くという戦略でした。


これは宇文泰に見抜かれ、

急襲された竇泰は包囲の中で自尽します。


高歓は軍勢を返し、

藍田関に向かう隘路にいた高敖曹は

命からがら撤退しました。


この時、

高歓は軍勢を捨てて逃げ戻るよう

高敖曹に勧めています。


高敖曹の軍勢は

いわば渤海ぼっかい高氏こうしの私兵。

そろそろ目障りになっていた感じもありますね。


「渤海高氏の私兵をなくして無力化してやんよ」

と高歓が思っていなかったとは

誰も言えませんわなあ。


この戦に韋孝寛も従軍し、軍功によって

左丞さじょう

節度せつど宜陽兵馬事ぎようへいばじ

の官を加えられています。

「兼ねて」いますから、

弘農郡守はそのままだったはずです。


しかし、

この「左丞」は何でしょうね。

行臺左丞でいいのかなあ。


それなら、その行臺って誰よ?

とか色々疑問もあります。


しかし、本稿はテキトーが売りなので、

調べません。


まあ、王思政なんじゃないですかね?


いや、調べろよ。。。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る