韋孝寬④インテリなのに叛乱をきっかけにデビュー、と見せかけて結婚してみました。
官歴があやしいパパンに突っ込んだところで
いよいよ韋孝寛の登場です。
『周書』韋孝寬伝
孝寬沉敏和正,涉獵經史。
孝寬は沉敏にして和正、經史を涉獵す。
人となりは沈敏=物静かで敏い上に、
和正=穏やかで居住まいが正しかった。
さらに、
経書や史書をよく読み込んでいたと。
官僚になりそうな人ですね。
それもそのはず、
この人は二十になる前に洛陽に遊学し、
『
次のような記事があります。
彥穆は幼くして明悟、神彩は卓然たり。
年十五にして
河間の邢子才、京兆の韋孝寬と
俱に中書學に入り、偏く相い友愛たり。
呼ばれるほどの人です。
ただし、明らかな変人。
その人と韋孝寛が一緒に中書学に学んだ、
と述べております。
それも大層仲がよかったそうな。
へー、という感じです。
中書学ってなんじゃい?
という疑問もありますが、
『
記載がありました。
太宗の世に國子を改めて中書學と為し、
教授、博士を立つ。
世祖の始光三年の春、
別に太學を城東に起こし、
後に盧玄、高允等を徵し、
而して州郡をして各々才學を舉げしむ。
是において人は多く砥尚し、
儒林は轉た興こる。
顯祖の天安の初め、
詔して鄉學を立てしめ、
郡ごとに博士二人,助教二人,
學生六十人を置く。
後に詔すらく、
大郡に博士二人、助教四人、
學生一百人を立てよ。
次郡に博士二人、助教二人、
學生八十人を立てよ。
中郡に博士一人、助教二人、
學生六十人を立てよ。
下郡に博士一人、助教一人、
學生四十人を立てよ。
太和中、
中書學を改めて國子學と為し、
明堂、辟雍を建て、三老五更を尊び、
又た皇子の學を開けり。
まず、
中書学を建てた
北魏の
この明元帝は409-413年の在位ですから、
韋孝寛の100年前の人ということになります。
あ、
北魏の宗室は孝文帝の代に
拓跋姓から元姓に改めています。
つーか、帝室が姓を改めるとか、
あんまり聞いたことないですね。
天安は献文帝=
466年1月から467年8月までなので、
「初め」は466年のことでしょう。
この時、
郡ごとに郷学を立てて
博士2人、
助教2人、
学生60人
を置いた、と。
それから、郡の大きさに従って
博士、助教、学生の数を調整したようです。
最後に、孝文帝の太和年間、
中書学は
なので、
崔彥穆、
邢子才、
韋孝寛
の仲良し三人組が入学したのは、
国子学であって中書学ではないはずです。
彼らは郡の郷学で優良な成績を収め、
洛陽の国子学への入学を許された
のでしょう。
残念ながら、
崔彥穆は生年も享年も分からないので、
確実な入学時期が分かりません。
おそらく、
正光年間(520-524)のことではないか
と思われます。
それなら韋孝寛は14歳から18歳。
崔彥穆伝の文意から推して、
「15歳で国子学に入ったのは早熟である」
と言いたい節があるようですので、
韋孝寛が17歳か18歳の頃かと推測します。
それなら正光年間後半のご入学となります。
次の弱冠=20歳くらいにも対応できますね。
『周書』韋孝寬伝
弱冠,屬蕭寶夤作亂關右,
乃詣闕,請為軍前驅。
朝廷嘉之,即拜統軍。
隨馮翊公長孫承業西征,
每戰有功。
拜國子博士,行華山郡事。
弱冠にして蕭寶夤の亂を關右に作すに屬し
乃ち闕に詣り、請いて軍の前驅と為る。
朝廷は之を嘉し、即ち統軍を拜す。
馮翊公長孫承業の西征に隨い、
戰う每に功有り。
國子博士、行華山郡事を拜す。
で、
韋孝寛が19歳の秋になります。
韋孝寛は杜陵に還っていたようです。
国子学の学生だったかは分かりませんが、
なんとなく、在学中に帰省していた
と考えた方がオモシロそうな気がします。
孝昌三年(527)、
六鎮の乱に端を発する叛乱を平定すべく
出征していた
平定がうまく行きませんでした。
ヤケになり、
ついに自立して齊帝を自称します。
蕭寶夤は南朝齊からの亡命者、
という恥ずかしい出自でもあります。
けっこうツライ目を見て叛乱しているので
一概に悪くは言えないのですが、
北魏から見れば謀叛人となりました。
韋孝寛は叛乱を知ると、
単騎で洛陽に向かって叛乱を報せ、
自らが軍勢の先導になると申し出ています。
これを評価されて
一部隊の指揮を委ねられました。
さらに
平定に向かう
戦の度に軍功を重ねて
に任じられています。
華山郡は洛陽から関中に向かう
入口あたりです。
しかし、
なんで國子博士に任じられたんでしょうね。
ということで、
国子学の学生だったらオモシロイんです。
学生がいきなり教授。
そんなんされても逆に困りますよねえ。
『周書』韋孝寬伝
屬侍中楊侃為大都督,
出鎮潼關,
引孝寬為司馬。
侃奇其才,
以女妻之。
永安中,
授宣威將軍、給事中,
尋賜爵山北縣男。
侍中の楊侃の大都督と為り、
出でて潼關に鎮せるに屬し、
孝寬を引きて司馬と為す。
侃は其の才を奇とし、
女を以て之に妻す。
永安中、
宣威將軍、給事中を授けられ、
尋いで爵山北縣男を賜わる。
それはさておき、
翌年一月、長孫稚が
長孫稚は黄河を北に渡って河東に入ったのですが、
それに従っていた
潼関の鎮守を委ねられました。
韋孝寛はこの人に従って
潼関に残ったらしいです。
その間、
楊侃に見込まれてその娘を妻にした、と。
戦の最中に何をやっとるんじゃい。
蕭寶夤はその一月に部下の裏切りに遭います。
妻子と少数の腹心だけを伴い、
同じく関中で叛乱軍を率いていた
関中の叛乱はまったく収まっていないのですが、
蕭寶夤だけは片付いた感じ。
その論功により、
の官職を授けられ、
山北縣男の爵位を授けられました。
ちなみに、
蕭寶夤を破った年の九月に永安に改元され、
二年後の十月までつづきます。
同年四月から九月の年号が建義です。
よって、
この頃に韋孝寛のパパンの
大行臺右丞に任じられており、
おそらく爾朱榮に与しておったのであろうと
想像されるわけです。
親子そろって、
しかしながらあまり関わることなく
活動していたわけです。
叛乱がきっかけというのは少々変則的ですが
なかなか華々しい滑り出しと言えましょう。
ちゃっかり結婚までしちゃってまあ。
ちなみに、
舅の楊侃は弘農楊氏という名門です。
前漢の
バリバリの漢人名門ですよ。
なお、
隋の文帝=楊堅も
楊震の末裔を自称しています。
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