韋孝寬③韋孝寬パパンの経歴はちょっとヤミがあんじゃね?

これから韋孝寛の列伝を読むわけですが、

最初にちょっと触れたとおり、

ここまでは

西魏=北周

東魏=北齊

の戦の最前線にいた西魏の人たちを

集中的に読んでいます。


孝文帝の頃に任官した王羆さんから始め、

河東の防衛を引き継いだ王思政と来て、

さらにそれを引き継いだ韋孝寬ですが、

その死は580年、

王羆さんの任官が太和末年としても499年、

この三人で81年をカバーできてしまいます。


というのも、

韋孝寬は長命です。

享年72歳ですから当時としては相当です。


しかも、晩年まで現役。

尉遅迥うつちかいとの戦に勝った後、

世を去っています。


なんというか、超人的。


その死の翌年、

楊堅ようけんにより隋が建国されます。


本作のテーマである

北魏末から隋の直前までを

まるっと生きた人なのです。


韋孝寬は隋の建国にも絡んでおり、

『隋書』にも記述があります。


多くの人がその軍勢に

従っていたのです。


また、

先の二人と同じく『周書』『北史』に伝があり

兄の韋敻いけいも列伝に収められています。


他の人に比して多角的に観られるのです。

兄の韋敻はニート気味ですけど。


『周書』と『北史』の記述に

異同がないのが唯一の欠点ですね。


そういう事情もあり、

韋孝寬については列伝をメインとしつつ、

他の傳も参照してやや詳しくやってみたい

と思います。


それではスタート。



『周書』韋孝寬伝

韋叔裕字孝寬,

京兆杜陵人也,

少以字行。

世為三輔著姓。


 韋叔裕、字は孝寬、

 京兆の杜陵の人なり。

 少くして字を以って行わる。

 世々三輔の著姓たり。



韋孝寛と通称されますが、孝寛は字です。

名は叔祐と言います。


この頃、字で呼ばれる人がいますが、

理由はよく分かりません。


項羽なんかもそうですけど、

どういう理由なんでしょうね。


知っていたら誰か教えて下さい。


出身は京兆けいちょう杜陵とりょうというところです。

長安の南東にあり、

王羆さんが育った覇城はじょうのちょっと先。


この地には杜氏としという名門もあり、

三国時代末の杜預どよもここの出身です。


杜子春とししゅん』という

芥川龍之介の小説をご存知の方も

おられると思いますが、

これには元ネタがあって

そこでも杜子春が出て参ります。


この人も杜陵出身と見られているようです。

元ネタも小説なんで設定として、ですが。


三輔さんぽ

京兆けいちょう

扶風ふふう

馮翊ひょうよく

という三つの行政区画を指し、

長安近郊の意です。


なので、

韋氏は長安界隈では名の通った家柄でした。



『周書』韋孝寬伝

祖直善,魏馮翊、扶風二郡守。

父旭,武威郡守。

建義初,為大行臺右丞,

加輔國將軍、雍州大中正。

永安二年,拜右將軍、南豳州刺史。

時氐賊數為抄竊,

旭隨機招撫,

竝即歸附。

尋卒官。

贈司空、冀州刺史,

諡曰文惠。


 祖の直善は魏の馮翊、扶風二郡守たり。

 父の旭は武威郡守たり。

 建義の初め、大行臺右丞となり、

 輔國將軍、雍州大中正を加えらる。

 永安二年、右將軍、南豳州刺史を拜す。

 時に氐賊は數々抄竊を為し、

 旭は機に隨いて招撫し、

 竝びに即ち歸附せり。

 尋いで官に卒す。

 司空、冀州刺史を贈られ、

 諡して文惠と曰う。



祖父と父の略歴ですね。

 祖父=韋直善いちょくぜん

  馮翊、扶風二郡守

 父=韋旭いきょく

  武威郡守

  →大行臺右丞

    +輔國將軍、雍州大中正

  →右將軍、南豳州刺史


祖父は郡太守、

父は州刺史ですから

なかなかの高官です。


父の韋旭が大行臺だいこうだい右丞ゆうじょうに任じられた

「建義の頃」は、建義けんぎ元年(528)を指すと見られます。


この改元は、河陰の変の後、

爾朱榮が北魏の実権を握った時に

行われました。


河陰の変では多くの朝臣が殺されたため、

生き残った朝臣は急に官職を進められた、

と史書に記されています。


よって、

韋旭も本来であれば韋直善に同じく

郡太守で終わるはずだったんじゃないか、

と推測します。


要するに、

爾朱榮の虐殺で上の方がスカスカなので、

官職を進められたのでしょう。


大行臺は大行臺だいこうだい尚書省しょうしょしょうの略称で、

中央の尚書と同等の機能を持つ臨時官です。


緊急事態が起きた際に置かれ、

右丞はそこの次席補佐官にあたります。


建義の年号は4月から9月の間ですが、

『資治通鑑』をチラ見する限り、

この間に大行臺に任命されたのは、

実は爾朱榮しかいません。


同年5月に北道大行臺に任じられています。


ということは、

韋旭はその右丞に任じられたのかなあ。


さらに同年中に

輔國ほこく將軍、

雍州ようしゅう大中正だいちゅうせい

を加えられています。


これは右丞に官職が加わったことになります。


大中正は九品中正法により

地域の人材を品評する役目だと思って下さい。

この人に決められた等級に応じて、

任官の際の官品が決められます。


つまり、なかなか権力があるご身分です。


雍州は韋旭の出自である京兆郡を含みます。


大中正に任じられるのは慣例的に

州出身の有力者ですから、

爾朱氏に与した雍州出身者では、

韋旭は有力者だったとも考えられます。


で、

翌年にあたる永安えいあん二年(529)、

右將軍ゆうしょうぐん

南豳州みなみひんしゅう刺史

に転じます。


南豳州とは聞きなれない地名ですが、

長安の北東にあります。


永安二年も爾朱榮の専権期にあたります。


よって、

韋旭は爾朱榮に与していた、

あるいは、

評価されていた

と見てよいと思うのです。


これまで歴した官職と時期を見る限り、

そうじゃないと理屈に合わないなあ、と。


韋旭の官歴はこれで終わります。

右將軍、南豳州刺史のまま

世を去ったためです。


死後に贈られた

司空しくう

冀州きしゅう刺史

の官職も高位です。


特に司空は三公に相当します。


爾朱榮は永安三年に孝荘帝に誅殺され、

爾朱榮亡き後も爾朱氏は専権を保ちますが、

それから一年半ほどで高歓によって洛陽を

逐われています。


爾朱氏に重用された人に追贈する理由は、

高歓にはありません。


だから、

爾朱氏の没落後とは考えにくく、

韋旭の死はそれより前、

爾朱氏が専権を振るった時期、

と思われます。


それなら、この追贈も筋が通る、かなあ。


以上より推して、韋孝寛の父の韋旭は、

爾朱榮とその一族に与していた可能性が

極めて高いように思われるのです。


その事実はあまり韋孝寛と兄の韋敻には

関係しなさそうなのですけどね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る