王思政⑤名将「韋孝寬」と宇宙大将軍「侯景」

▼王思政、荊州赴任に際して後任に韋孝寛を挙げるのこと


さて。

大統九年(543)の邙山の戦の後、

ドロナワで弘農に鎮守した王思政ですが、

大統十二年(546)に荊州刺史に遷ります。


この時、

西魏の荊州は穣縣じょうけんにあったっぽい。


漢水の北では、

南陽なんよう

新野しんや

樊城はんじょう

が北から南にほぼ一列に並んでおり、

樊城の南に漢水があって、

これを南に渡ると襄陽じょうようです。


穣縣は、新野の西にありました。



『周書』

十二年,加特進、荊州刺史。

州境卑濕,城壍多壞。

思政方命都督藺小歡

督工匠繕治之。

掘得黃金三十斤,

夜中密送之。

至旦,

思政召佐吏以金示之,曰

「人臣不宜有私」,

悉封金送上。

太祖嘉之,賜錢二十萬。

思政之去玉壁也,

太祖命舉代己者,

思政乃進所部都督韋孝寬。

其後東魏來寇,

孝寬卒能全城。

時論稱其知人。


 十二年,特進、荊州刺史を加う。

 州境は卑濕にして城壍は多く壞る。

 思政は方に都督の藺小歡に命じ、

 工匠を督して之を繕治せしむ。

 掘して黃金三十斤を得て、

 夜中に密かに之を送る。

 旦に至り、

 思政は佐吏を召して金を以て之に示し、曰わく

「人臣は宜しく私あるべからず」と。

 悉く金を封じて送上せり。

 太祖は之を嘉し、錢二十萬を賜う。

 思政の玉壁を去るや、

 太祖は命じて己に代わる者を舉げさしめ、

 思政は乃ち部する所の都督の韋孝寬を進む。

 其の後、東魏の來寇するに、

 孝寬は卒に能く城を全うせり。

 時論は其の人を知るを稱う。



荊州に赴任した王思政ですが、

さっそく城の修繕にかかります。


この人、修繕が好きですね。


で、

地面を掘っていると三十斤の金が出てきた。

部下たちは気を遣って人目に付かないよう、

夜のうちに官府に運び込みます。


翌朝に金を見た王思政は、

みんなに示して言うわけです。

「人臣たるものは私心があってはならんのだあ」


で、

宇文泰にそれを贈った。


宇文泰は代わりに二十万銭を呉れてやりました。

はいはい。美談美談。


それはさておき、

ここで重要な人事が一つ行われています。


王思政は河東から荊州に遷る際、

宇文泰から後任を挙げるよう言われます。


この時に王思政が挙げたのが、

韋孝寛いこうかんという人。


この人が玉壁に鎮守したことにより、

高歓の寿命が短くなってしまいます。


このあたり、

また別の機会にお話したいと思いますが、

ここでの韋孝寛の起用は西魏にとって

ファインプレーとなります。


これはただ、それだけのお話でした。





▼王思政、なぜか潁川にこだわるのこと


韋孝寛と高歓のからみは別に詳しくお話しますが、

高歓は西魏の大統十三年(547)に世を去ります。


東魏は高歓のワンマンなところがありましたので、

高歓には従うけど、

ムスコの高澄に従うのは死んでもイヤ

というワガママ武人がいたのです。


その代表が、

宇宙大将軍、

都督六合諸軍事

でお馴染みのオモシロ武将、

侯景こうけいという人です。


この人は、

ははそしげきさん『異聞南北朝 逢魔ヶ刻』

で主役を張っておられますので、

詳細はこちらをご参照下さい。


陳慶之ちんけいしも出るよ。


異聞南北朝 逢魔ヶ刻

https://kakuyomu.jp/works/1177354054880906055


この時、侯景は高歓より、

「黄河の南のことは一任しちゃうよ」

と言われておったわけです。


しかも、

それから十年ほど経ちます。

ヤバい。


自立して十年を過ごしたわけですからね。


その侯景が西魏に降るわけです。


高澄に頭を下げるのが

よほどイヤだったんでしょう。


逆に、高澄にしてみれば、

最初に処理すべき身内の敵

であったことは疑いありません。


オヤジの臣下というより、

盟友みたいなものですから。


コイツをどうにかしないと、

逆に喰われてしまう危険さえあります。


なので、侯景の叛乱は、

東魏にとって必然でありました。


事実、高澄は侯景を試しに召還し、

従えば死刑、

従わなければ討伐、

という方針で考えていたと思います。


どっちにしても殺すんかい。


それくらい、

侯景という人は危険だったのです。


東魏、西魏、南朝梁の三つ巴のうち、

東魏のうちにもうひとつの独立国が

あったようなものですからね。


東魏も深堀りするとオモシロいのですが、

まずは王思政を片付けます。



『北史』

十三年,侯景叛東魏,

請援乞師。

當時未即應接。

思政以為若不因機進取,

後悔無及,

即率荊州步騎萬餘,

從魯關向陽翟。

周文聞思政已發,

乃遣太尉李弼赴潁川。

東魏將高岳等聞大兵至,

收軍而遁。

思政入守潁川。

景引兵向豫州,

外稱略地,

乃密遣送款於梁。

先是,周文遣帥都督賀蘭願德

助景扞禦,

景既有異圖,

因厚撫願德等,冀為己用。

思政知景詭詐,乃密追願德。

思政分布諸軍,據景七州十二鎮。

周文乃以所授景使持節、太傅、大將軍,兼尚書令、

河南大行臺、河南諸軍事,

回授思政,思政並讓不受。

頻使敦喻,

唯受河南諸軍事。


 十三年、侯景は東魏に叛き、

 援けを請いて師を乞う。

 當時は未だ即ち應じ接せず。

 思政は以為えらく、

「若し機に因りて進取せざれば、

 後悔するも及ぶなし」と。

 即ち荊州の步騎萬餘を率い、

 魯關より陽翟に向かう。

 周文は思政の已に發するを聞き、

 乃ち太尉の李弼を遣りて潁川に赴かしむ。

 東魏の將の高岳等は大兵の至るを聞き、

 軍を收めて遁る。

 思政は入りて潁川を守る。

 景は兵を引きて豫州に向かい、

 外に地を略すと稱し、

 乃ち密かに款を梁に送らしむ。

 是より先、周文は帥都督の賀蘭願德を遣りて

 景を助けて扞禦せしむ。

 景は既に異圖あり、

 因りて厚く願德等を撫し、己の用を為すを冀う。

 思政は景の詭詐を知り、乃ち密かに願德を追う。

 思政は諸軍を分布し、景の七州十二鎮に據れり。

 周文は乃ち景に授くる所の

 使持節、太傅、大將軍,兼尚書令、河南大行臺、

 河南諸軍事を以て思政に回授するも、

 思政は並びに讓りて受けず。

 頻りに使して敦喻し、

 唯だ河南諸軍事のみを受く。



宇宙大将軍の行いは省略するとして、

荊州にあった王思政はチャンスを生かすべく、

魯陽関ろようかんを北に抜け、

陽翟ようてきに向かったわけであります。


ちなみに、

魯陽関は汝水じょすい沿岸地域と

荊州を繋いでおります。


陽翟は洛陽の東南にあり、

潁川えいせんのご近所ですね。


それを聞き、

宇文泰は軍部の重鎮である李弼を

潁川への加勢に遣わします。


侯景が西魏に降ったとなると、

東魏も黙ってはおりません。


高歓の一族の高岳こうがくを遣わしましたが、

李弼の軍勢が到着したと聞くと、

さっさと軍を返します。


なんというか、やる気薄。


しかし、後日、

高岳に慕容紹宗ぼようしょうそうなどを

加えた大軍で侯景の軍勢を粉砕しております。


これは小手調べだったんでしょうかねえ。


それはさておき、

東魏の軍勢が退いた機に王思政は潁川に入ります。

ただ、

この潁川入りは裏でケチがついておりました。


『周書』の崔猷さいゆうという人の傳に

次のような記事があります。



十四年,侯景據河南歸款,

遣行臺王思政赴之。

太祖與思政書曰:

「崔宣猷智略明贍,有應變之才,

若有所疑,宜與量其可不。」

思政初頓兵襄城,

後欲於潁川為行臺治所,

遣使人魏仲奉啟陳之。

致書於猷論將移之意。

猷復書曰:

「夫兵者,務在先聲後實,

故能百戰百勝,以弱為彊也。

但襄城控帶京洛,寔當今之要地,

如有動靜,易相應接。

潁川既隣寇境,又無山川之固,

賊若充斥,徑至城下。

輒以愚情,

權其利害,莫若頓兵襄城,

為行臺治所,

潁川置州,遣郭賢鎮守。

則表裏膠固,人心易安,

縱有不虞,豈能為患。」

仲見太祖,具以啟聞。

太祖即遣仲還,令依猷之策。

思政重啟,求與朝廷立約:

賊若水攻,乞一周為斷;

陸攻,請三歲為期。

限內有事,不煩赴援。

過此以往,惟朝廷所裁。

太祖以思政既親其事,兼復固請,遂許之。

及潁川沒後,太祖深追悔焉。


 十四年、侯景は河南に據りて歸款し、

 行臺の王思政を遣りて之に赴かしむ。

 太祖は思政に書を與えて曰わく、

「崔宣猷は智略明贍にして應變の才あり。

 若し疑う所あらば、

 宜しく與に其の可不を量るべし」と。

 思政は初め兵を襄城に頓め、

 後に潁川に行臺の治所と為さんと欲し、

 使人の魏仲を遣りて啟を奉じて之を陳ぶ。

 并せて

 書を猷に致して將に移らんとすの意を論ぜり。

 猷は復書して曰わく、

「夫れ兵の務めは先聲後實に在り、

 故に能く百戰百勝して弱を以て彊と為すなり。

 但だ襄城は京洛を控帶し、寔に當今の要地、

 如し動靜あらば、易く相い應接せん。

 潁川は既に寇境に隣し、又た山川の固なし。

 賊の若し充斥せば、徑ちに城下に至らん。

 輒ち愚情を以てせば、

 其の利害を權ぶるに兵を襄城に頓めて

 行臺の治所と為すに若くはなく、

 潁川には州を置き、郭賢を遣りて鎮守せしめれば

 則ち表裏は膠のごとく固く、人心は易安なり。

 縱し不虞あるとも、豈に能く患を為さんや」と。

 仲は太祖に見え、具に啟を以て聞せり。

 太祖は即ち仲を還らしめ、猷の策に依らしむ。

 思政は重ねて啟し、朝廷と約を立つるを求む。

 賊の若し水攻せば、乞うらくは一周を斷と為す。

 陸攻せば、請うらくは三歲を期と為す。

 限內の有事は、援に赴くを煩さず。

 此を過ぎて以往は、惟だ朝廷の裁く所とす。

 太祖は思政の既に其の事に親しみ、

 兼ねて復た固く請うを以って,遂に之を許す。

 潁川の沒するの後に及び、

 太祖は深く追いて悔ゆ。



長えよ。読めねえよ。

要約してみましょう。



王思政が陽翟に向かう際、

宇文泰が一声かけました。

崔宣猷さいせんゆうっていう切れ者がいるから、

何かあったら相談してね」


河南に遷った当初の王思政は

襄城じょうじょうというところにおりましたが、

潁川に移りたいと考えました。


襄城と潁川がどう違うかと言うと、

潁川のが洛陽に近い、

襄城は洛陽からちょっと遠いけど

荊州と道が繋がっている。


このあたりの差くらいでしょうか。


他にも重要な違いがあったのかも知れません。

人口が多かったとかね。


で、

王思政は宇文泰に願い出るとともに、

崔宣猷にも相談します。


そして、フルボッコに論破されます。


「いやいやいやいや、

軍事は陽動して敵を惑わしてナンボですやん。

せやから戦に勝てるし、

弱いモンが強いんを倒せるわけで。

襄城は洛陽に近い上に荊州からも援軍出せるし、

ええ位置やで。

潁川とか敵のお隣やがな。

ちょっと行けばすぐ城やん。

賛成できへんわ。

潁川には郭賢あたりを州刺史にして

置いといたらええねん」


たしかに。


当時、

洛陽周辺は東魏に押さえられています。

潁川が囲まれれば、長安から援軍を出すにも

洛陽あたりで東魏軍を破っていくか、

荊州から襄城経由で向かうか、

しかなかったわけです。


前者は成功するか分かりませんし、

後者は時間がかかる。


潁川に鎮守するメリットが

イマイチよく分からないのです。


しかし、

王思政は潁川にコダワリ、

次のように約束しちゃいます。


「敵が水攻めしてきたら一年、

普通に包囲されたら三年、

その間は救援は要りません!

その期間が過ぎた後は、

援軍を出すも出さぬも朝廷の意向に従い、

意見などしません!!」


こうまで言われては、

宇文泰も許すよりなかったのでしょう。


王思政は八千の兵を率いて潁川に移りました。


しかし、

この潁川が王思政の最後の任地となるのでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る