王思政④パワハラ&セクハラから始まる恋、ではなく邙山の戦
▼王思政、玉壁に城を築くのこと
パワハラとセクハラから始まるのは
恋ではなく裁判です。
気をつけましょうね。
さて、
王思政が弘農に赴任した頃、
西魏の最前線はほかに河東がありました。
王羆さんは雍州刺史に転任するまで
河東に鎮守しており、
返品後も河東にあって
大統七年(541)に世を去りました。
河橋の戦はその三年前です。
王羆さんが河東に鎮守していた時期と
王思政が弘農に鎮守していた時期は
ちょっとかぶります。
二人の馬が合ったかというと、
どうなのかなあ。
マジメな王思政は
王羆さん好みではありますが。
弘農と河東の関係が
ちょっと分かりにくいですが、
東魏からすると、
山西から軍勢を南下させて
関中に入ろうとすると、
黄河の南の洛陽に入り、
そこから関中を目指そうとすると、
要するに、両方とも
東魏の軍勢が関中に向かう途上にあり、
たいへんに目障り、ということです。
洛陽から南の
向かう道もありますが、
こちらは道が細い上に険しく、
大軍で進むと進退に窮する場合あり。
だから、
奇襲には使えても
全面的な侵攻には不向き。
ここから攻め込むよう
命じられていますが、
陰謀クサイんだよなあ。
そういうわけで、
弘農と河東は片方が破れると
残りも危うくなるという
一連托生な関係にありました。
河東を破られると、
蒲坂の手前の
黄河を南に渡り、
弘農を背後から襲ったりできます。
その逆もまた可能。
王思政はそれを承知していたようで、
河東に新たな城を築きます。
なかなかの戦略家だったようです。
▽
『北史』
思政以玉壁地險要,
請築城。
即自營度,移鎮之。
遷汾晉并三州諸軍事、并州刺史、
行臺如故,仍鎮玉壁。
八年,東魏復來寇,卒不能克。
以全城功,
授驃騎大將軍、開府儀同三司。
思政は玉壁の地の險要なるを以って、
築城を請う。
即ち自ら營度し、移りて之に鎮ず。
汾晉并三州諸軍事、并州刺史に遷り、
行臺たること故の如し、仍りて玉壁に鎮ず。
八年、東魏は復た來寇し、卒に克くする能わず。
城を全うするの功を以って、
驃騎大將軍、開府儀同三司を授く。
△
王思政は、
河東と弘農を比較して
河東がヤバいと見ました。
正解。
河東から
東魏の体制はちょっと特殊で、
軍事的中心と政治的中心を
分離しています。
政治的中心は東魏帝がいる鄴、
つまり山東にあります。
一方、軍事的中心は山西の晋陽、
山西って河東の北隣ですからね。
超ヤバい。
六鎮の乱で
鮮卑兵の多くは高歓に従い、
晋陽周辺に住まわされていました。
主だった将帥も晋陽にあり、
当の高歓も晋陽にいます。
軍権だけが権力を保証しますから、
当然です。
鄴には子の
睨みを利かせ、
自らは晋陽にあって西魏を押さえる。
それが高歓の戦略だったのでしょう。
一方、
関中の宇文泰にはそのような戦略はなく、
物理的に圧倒してくる東魏に対抗すべく、
自らの身を
蒲坂、潼関、やや可能性は落ちますが
藍田関からの侵攻に備えるのみです。
よく考えると、
東魏が梁と結んで漢中あたりで
背後を脅かされると非常にマズい。
東魏には戦略家がいなかったのかな。
そういうわけで、
西魏にとって河東の防備を固めることは、
すなわち、
晋陽にある高歓に備えることと同義でした。
なるべく障害は多い方がよい。
そこで、
王思政が河東の
城を築きたいと申し出ました。
玉壁は
にあり、
壁のように切り立った崖の上に
あったようです。
だから、玉壁というのですかね。
大軍を進める際には水の確保の都合上、
どうしても川に沿って進むこととなる。
山西から河東にかけてのそれは汾水です。
沿岸に城を築くのはよい作戦でした。
玉壁に城が完成すると、
王思政は玉壁に移っています。
この間、
誰かが弘農を継いでいるはずですが、
調べきれていません。
焦眉の急はないと見切ったというか、
むしろ、
河東の防備を固める方を優先した、
ということです。
王羆さんが世を去った翌年、
大統八年(542)に、
晋陽から東魏軍が南下を始めました。
このあたり、
高歓にも都合があったと思いますが、
どうにもこうにも動きが遅い。
少なくとも、
大統四年の河橋の戦の後に
大軍を河東に繰り出せば
防備は固まっていません。
王羆さんがナゾの棒で
応じるしかなかったはずです。
玉壁城の築城後に兵を出しては
それに拠って防がれてしまいます。
悪手だなあ。
玉壁の攻略に手こずった高歓は
あっさり兵を返しました。
王思政は
に任じられました。
西魏軍の最高指導者の一人になった、
と考えて間違いありません。
▼高仲密、妻が高澄にセクハラされて西魏に降るのこと(王思政、邙山の戦に向かうも到着前に終わるのこと)
この頃、
東魏の世代交代が始まり、
ゴタゴタが起こっています。
おおよそ、
高歓は創業の人だけに万事に鷹揚で、
武人の汚職にも目を瞑っています。
このあたりは面白い話があるので
いずれご紹介したいと思うのですが、
いつになるかは不明。
一方、
ムスコの高澄は大らかではなく、
けっこう自分に甘くて他人に厳しい。
漢人官僚を用いて厳しい法治を進めます。
なもんで、毎度おなじみの
新旧の争いが起こりがちでした。
高歓はムスコの行いを黙認しつつ、
武人の不満解消に努めていたようですが、
それだけではなかなかうまく行きません。
そういうわけで、
高歓が玉壁を攻めて失敗した翌年、
大統九年(543)に軋みが表れます。
それが、
▽
『北史』
高仲密以北豫州來附,
周文親接援之,
乃驛召思政,將鎮成臯。
未至而班師,
復命思政鎮弘農。
思政入弘農,令開城門,
解衣而臥,
慰勉將士,示不足畏。
數日後,
東魏將劉豐生率數千騎至城下,
憚之,不敢進,乃引軍還。
於是修城郭,起
樓櫓,營田農,積芻秣,
凡可以守禦者皆具焉。
弘農之有備,自思政始也。
高仲密の北豫州を以って來附するや、
周文は親ら接して之を援く。
乃ち驛にて思政を召し、將に成臯に鎮ぜしむ。
未だ至らずして班師し、
復た思政に命じて弘農に鎮ぜしむ。
思政は弘農に入りて城門を開かしめ、
衣を解きて臥し、
將士を慰勉して畏るるに足らざるを示す。
數日の後、
東魏將の劉豐生は數千騎を率いて城下に至るも、
之を憚りて敢えて進まず、乃ち軍を引きて還る。
是において城郭を修め、
樓櫓を起こし、田農を營みて芻秣を積み、
凡そ以って守禦すべきは皆な具われり。
弘農の備あるは、思政より始まるなり。
△
高仲密は高歓の一族ではありません。
仲密は字で名は
兄に
弟に
があります。
高昂は字を
東魏屈指の猛将でした。
河橋の戦で戦死したので、過去形。
この一族は、
自立を図る高歓と早い時期に結んだ、
いわば東魏開基の柱石でもあります。
ただ、
兄の高乾は孝武帝により誅殺され、
高歓がその原因となっています。
また、
弟の高敖曹は河橋の戦で戦没しましたが、
高歓の一族の者が見殺しにした節あり。
これらの事情より推して、
権力を確立した高歓は
渤海高氏の抑制を図った、
とも解釈できそうです。
居心地がよくない東魏の渤海高氏、
その一人である高仲密は
高澄が重用する漢人官僚、
崔暹は
山東の超名門です。
高仲密はその妹を娶ったものの離婚、
それから仲がこじれます。
さらに、
高澄が高仲密の後妻にちょっかいをかける
(性的な意味で)という離れ業を演じ、
いよいよ東魏を捨てる決心をしたわけです。
そりゃ捨てるわ。
高歓の一族の
乱倫というか、
エロさというか、
見境なく周囲の女性に手を出す性癖は、
帝位が兄弟に伝えられたことと相俟ち、
後に相当に多くの問題を生じますが、
それはまた別の機会に。
高歓の御子息、
マヂキチ揃いです。
この時、
高仲密は北豫州刺史でした。
北豫州ってどこやねん
という感じですが、
要するに、
洛陽の東にある黄河と山が迫る地形、
ここを押さえると、
洛陽の北東の備えになります。
二月に高仲密が西魏に通じ、
三月には
宇文泰、
などの主力層を中心とする西魏軍が
洛陽周辺に進出、
洛陽の北、
黄河の南岸
にある城を包囲します。
これに対し、
高歓は十万の軍勢を率いて急行、
北岸に布陣して睨み合いとなりました。
西魏は火船で河橋を焼こうとして果たせず、
東魏軍は黄河を南に渡ります。
東魏軍は
洛陽の北の
西魏軍は
西の
邙山に攻め上がります。
夜明けを期した奇襲ではありましたが、
東魏軍に看破されて大敗を喫します。
何しろ、
西魏の宗室に連なる者まで
捕虜となったほどの大敗です。
それでも宇文泰は兵を退かず、
翌日、再び戦を挑みます。
かなりの混戦となったらしく、
高歓は
馬を失ったり、
に命をとられそうになったり、
散々な目に遭っています。
しかし、
西魏も左翼が崩れて決定的勝利を得られず、
勢いを盛り返した東魏軍に逆襲されます。
最後には、
宇文泰も命からがら退く
オチとなっております。
王思政は戦の前に召集されましたが、
到着前に戦が終わってしまいます。
そこで、
退く軍勢を迎えるべく
弘農の確保を命じられ、
洛陽に向かっていた軍勢を
弘農に入れたわけです。
この時、
邙山の戦で敗れた西魏兵が陸続と
弘農に入ってきました。
ついでに、
逃げる西魏兵を追う東魏兵も
弘農に向かっております。
王思政は城門を開いて敗兵を迎えつつ、
衣を解いて余裕綽々の態度だったらしい。
なぜ脱ぐ。
つーか、
西魏の君臣はよく衣を解くな。
西魏兵を追撃していた東魏の将は
数千の騎兵を率いて弘農に着いたものの、
城門が全開になっていることから警戒し、
軍勢を返したそうです。
留まって様子を観ればいいようなものですが、
劉豊生にやる気がなかったことは確実です。
それより前、高歓と参謀ズの間で
次のような議論が行われていました。
高歓「お、おう」
部将のみなさん「馬に食わせる青草もないし、人も馬も疲れきってますがな」
高歓「(部将連中はみんな嫌がっとんな)軍勢を進めて伏兵あったらどうしようか?」
陳元康「沙苑で吾らが大敗した時でさえそんなもんなかったでしょ!大敗を喫した宇文泰にそんな余裕があってたまるか!!とにかく、この機を捨てては絶対に後悔しますから!早く追撃しろ!!」
高歓「うーん。じゃあ、劉豊生がまだ元気そうだから、行ってもらうか」
劉豊生「(なんで俺が、、、)はーい、行ってきまーす」
そら軍勢も返すわ。
実際のところ、
この撤退は西魏兵を東魏兵が追う
という単純な形ではなく、
両軍が混在していたのです。
しかも、
于謹や獨孤信が率いる部隊はお元気で、
東魏兵を背後から襲ったりしています。
なので、
参謀ズが言うほど単純ではありません。
追撃すれば、
桶狭間チックな奇襲を受ける
可能性もなくはなかったのです。
ここは高歓&部将ズの方が
事態を冷静に観ていた、
と考えるべきかと思います。
まあ、解釈次第なので、マユツバです。
で、
弘農に入った王思政ですが、
この機に弘農の要塞化を進めます。
城を修繕して城楼を造り、
包囲に対する備えを固めるとともに、
屯田を拓いて常駐できるようにしました。
これで河東の玉壁につづき、
弘農の備えも固められたわけです。
またドロナワではありますが。
西魏の国境防備はほぼ整った、
と言えましょう。
よかったよかった。
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