第73話 この感情を言葉にするなら

 真矢くんがクラスの方に戻ってしまい、私は一人で校舎の中を散策していた。彼は十三時までだったけど、私は後三十分残っている。

 出来るなら、ずっと一緒に回っていたかった。けれどそんな思いとは裏腹に、心の中はとても満たされていて。


「えへへ……」


 抑えようとしても、ついにやけた顔になってしまう。すれ違った人たちは不思議そうに私を見ているけど、今はそんなことも気にならない。

 だって、だってだって、ついに真矢くんが私の名前を呼んでくれましたから! 夏休みの時からずっと、私だけが呼んでたのに!

 まさか名前を呼ばれただけで、こんなにも嬉しくて幸せになれるなんて、思ってもいなかった。お父さんやお母さん、友達からも呼ばれているのに、彼に呼ばれただけなのに。

 なにが違うのかなんて、考えるまでもない。

 好きだから。好きで好きで、どうにかなってしまいそうで。そんな気持ちが、彼からも伝わってくるから。

 でも問題は、私がまだちゃんと言えてないことなんですよね……。

 言いたいと、伝えたいと思う。でも、そんな気持ちが高まるほどに、言葉は出てこなくなって。息が詰まったみたいに、声が出なくなってしまう。

 けれど、今なら言える気がするんです。理由や根拠なんてなにもないけど。それでも、今なら。真矢くんが勇気を出して、距離を詰めてくれたから。

 だから、次は私の番。この文化祭が終わった後。伝えてみよう。いや、伝える。絶対に。

 あなたのことが、好きですって。


「あ、あのっ!」


 不意に目の前から大きな声がして、足を止めてしまう。そこにいたのは、小柄な男子生徒が二人。身長も私とさして変わらない。

 上履きの色を見るに、一年生のようだ。その視線がこちらに向いていて、私が呼び止められたのだと遅れて理解する。


「葵先輩ですよね⁉︎」

「はい、そうですけど。どうかしましたか?」

「もしお一人でしたら、一緒に回りませんか⁉︎」


 校舎内、多くの生徒や父兄の人たちが行き交う中で、初対面の男子にそんなことを言われてしまった。

 チラリと二人の背後に視線をやれば、そこにはニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている男子が何人か。なるほど、そういうことですか。

 これがもし普通のナンパとかだったら、適当にあしらうんですけど、この手の類はちょっと困りましたね……。

 恐らくこの二人は、罰ゲームかなにかで私に声をかけさせられたんでしょう。そう言うのは、嫌いです。罰ゲームで誰かに告白したり、こうして声をかけたりというのは、相手の人にも失礼だから。

 けしかけた本人たちは成功しようが失敗しようがどちらでもいい。どちらにしても、この二人を弄るネタは出来る。だから、出来るだけ二人が傷つかない方法でごめんなさいしたいんですけど、丁度いい建前がありませんし……。


「葵、こんなとこにいたのか」


 どうしようかと悩んでいると、今度は背後から声をかけられた。振り向いた先にいたのは、真矢くんと同じ執事服に身を包んだ伊能くん。

 そして瞬時に、かけられた言葉の意味を理解する。


「伊能くん。ごめんなさい、ちょっと周りに目を奪われてしまいまして」

「まあ、その気持ちも分かるけどな。けどみんなもう向こうで待ってるぜ」


 突然の伊能くんの登場により、一年生の男子二人は呆然としている。きっと伊能くんのことを知っているのでしょう。この学校で伊能朝陽を知らない人がいるのかは分かりませんが。


「ん? その二人は?」

「い、いえ、なんでもないですっ! ごめんなさい!」

「失礼しました!」


 まるで脱兎のごとく逃げ出し、背後に隠れていた友人らしき男子たちの元へ。

 あの伊能朝陽が出てきたなら仕方ない。きっと彼らはそんな風に結論づけてくれることだろう。


「すみません、助かっちゃいました」


 その一年生がこの場を去ったのを察し、隣に立つ伊能くんにお礼する。同時に、特にあてもなく歩き出した。


「いや、いいよ。似たようなことなら今までも何度かあったしな。経験が活きてよかった」


 そう、何度もあったのだ。例えば、伊能くんや凪ちゃん、世奈ちゃんや黒田くんと遊ぶ時とか。私たちが知らない人に声をかけられていると、伊能くんが颯爽と現れて助けてくれた。まるでヒーローみたいに。

 だから、伊能くんはある意味私の憧れでもある。伊能くんみたいに、困っている人を、友達を、助けられるような。そう思ったことは、両手の数では数え切れないほどだ。


「出来れば、あまり活きて欲しくない経験ですけどね」

「ま、お前とか凪たちが可愛いから仕方ねぇよ。男ってのは可愛い女の子には目がない生き物だからな」


 こうやってサラッと可愛いとか言えちゃうあたり、やっぱり伊能くんってイケメンなんですよね。容姿だけではなく、言動の全てに至るまで。

 幼馴染としてずっと一緒にいた凪ちゃんが好きになるのも当然です。


「そういえば、伊能くんはどうしてここに?」

「真矢と交代で休憩。適当に歩いてたら、こりゃまた随分嬉しそうな葵を見つけたからな。どうせ真矢となんかあったんだろうって声かけようと思ったら、あの現場に居合わせたんだよ」

「そ、そんなに嬉しそうに見えましたか……?」

「そりゃもう」


 そ、そうですか……たしかにニヤついてた自覚はありましたけど、そんなに……うぅ、なんだか今更恥ずかしくなってきました……顔熱い……。

 そんな私を見てからかうように笑った伊能くんが、質問を畳み掛けてくる。


「で? 真矢となんかあったんだろ? あっちは顔真っ赤にして戻ってきたし、こっちはずっとにやけてたし、なんもなかったはずないよな?」

「い、言わなきゃダメですか……?」

「どうせ俺に言わなくても、凪とか世奈辺りには無理矢理言わされるんだ。だったら、今のうちに楽になった方がいいぞ」

「うぅ……」


 たしかに伊能くんの言う通りですし、どの道そのうちバレることですけど……。

 いや、そうですよね。そのうちバレるなら、今教えても変わらないですよね。むしろ後からバレた方が恥ずかしいですし!


「その、ですね? 真矢くんが私のこと、夜露って、呼んでくれて……」

「え、あの真矢が⁉︎」

「はい、あの真矢くんが……」


 なんだか失礼な物言いになってる気がするけど、きっと気のせい。

 だって、私自身も、名前で呼ばれることなんてもっと先の話だと思っていたから。それが事実はどうだろう。今日、あんな不意打ちで呼ばれてしまったのだ。にやけていたのも無理はない話。


「はー、そうかそうか、あの真矢がなぁ……なんだかんだでクラスの方も楽しんでやってるし、大きくなりやがって……」


 少し大げさに感動した素振りを見せる伊能くんは、しかしあながち嘘の反応をしているわけでもないのだろう。

 真矢くんは言っていた。伊能くんから、学校生活をもっと楽しめと言われた、と。

 その言葉を贈った本人からすれば、思うところもあるのだろう。


「まあでも、よかったな」

「はいっ!」

「あとは葵が、ちゃんと真矢に好きって言うだけだな」

「はい……」


 急に現実を突きつけられた気分になって落ち込んでしまう。それは態度にも声音にも出てたのだろう。伊能くんは私を見て楽しそうに笑い、慰めるように言葉をかけてきた。


「焦る必要はないんじゃねぇの? 真矢にはちゃんと伝わってると思うし、俺らから見ても、お前があいつのことを好きなのは痛いほど分かるからさ」

「そう、ですか……?」

「おう」


 まだ伝えれていないのは、私の怠慢に過ぎない。彼が私のことを好きになってくれて、彼から告白してくれて、今の関係に落ち着いて。そんな現状に満足して、胡座をかいていたからだ。


「でも、私決めてるんです」

「決めてるって、なにを?」

「いい加減、言わなきゃダメだって思ったから。文化祭が終わったら、ちゃんと真矢くんに伝えるって」

「そうか」


 そう言って笑った伊能くんは、いつもの元気が少し薄れていて。

 なぜだろう。その笑顔が、寂しげに見えたのは。


「じゃあ、俺も今のうちに伝えとくかな」


 その笑顔のままで、前を向いて。

 彼は、伊能くんは、告げた。


「俺、葵のことが好きだ」


 私たちを変えてしまう、決定的な一言を。

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葵夜露は素直に好きと伝えたい。 宮下龍美 @railgun-0329

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