第67話 夜露ちゃんは撫でられるのがお好きな模様
文化祭が近づいてきたからといって、勉強を疎かにするわけにもいかない。センター試験まであと半年を切り、推薦入試なんてもう二ヶ月後だ。だが、それは大学入試の話。専門学校となると話は違ってくる。
「え、来月の頭にあるのか?」
「はい。あれ、言ってませんでしたっけ?」
土曜日。文化祭まで残り一週間を切った今日は、俺の家で葵と勉強会だ。
俺は推薦を取れるほどの学力もないので、県内にある私立の経営学部に決めているのだが、葵は将来、店を継ぐと決めているため調理師専門学校の推薦を受ける。願書は出したとは聞いていたが、まさか来月にはもう試験が始まるとは。
「聞いてなかったな」
「すみません……」
「謝るようなもんでもないだろ。てか、文化祭どころじゃねぇじゃん」
「そうでもないですよ?」
来月に入試が迫っているというのに、葵からは焦った様子が微塵も見られない。聞けばどうやら、試験は面接、小論文、実技の三つらしい。本人は自信満々のようだが、少し待ってほしい。小論文と実技は、まあ大丈夫だろう。優等生の葵だ、小論文なんてお手の物だろうし、実技の実力だって俺も知っている。
だが、問題は面接だ。
「お前、面接大丈夫なのか?」
「もちろんです!」
元気のいい返事ができるのは結構。そういうの、面接で大切かもだしな。
しかし、葵だぞ? 極限の緊張状態で好きなやつに嫌いですとか言っちゃうようなやつだぞ? 専門学校の試験で圧迫面接なんてことはないだろうが、それでも本番になれば多かれ少なかれ緊張してしまうのが人間というものだ。うーん、心配だ……。
「むっ、真矢くん、信じてませんね?」
「いや、だって、なぁ……?」
「な、なんですかその目は」
「胸に手を当てて考えたら分かると思うけど」
うっ、と言葉に詰まる葵は、どうやら胸に手を当てるまでもなく心当たりがあるようで。まあ、そうだろうなってのが素直な感想。四月の出会った時のあれ以外にも、俺ですら思い当たる節がいくつもある。
数ヶ月前を振り返って懐かしんでいると、葵がなにごとがボソボソと呟いた。
「え、なんだって?」
「で、ですから……その……」
俺は断じて難聴系鈍感主人公ではないので、今のはマジで聞き取れなかっただけである。
聞き返せば、葵は頬を赤く染めて、やはりまた小さな声で口にした。
「わ、私があんな風になっちゃうのは、真矢くんの前でだけ、ですから……」
繰り返すようだが、俺は難聴系鈍感主人公なんぞではない。むしろその類はあまり好きではなかったりする。
だから、小さいながらも葵の声はしっかりと俺の耳に届いた。
「え、なんだって?」
「絶対聞こえてましたよね⁉︎」
つまりわざとである。ぷくーっと膨れっ面でぽすぽすこちらの肩を叩いて来る葵が可愛い。本気で叩いているわけでもないので特に痛くもないし。多分葵に本気で殴られたら俺程度だと失神すると思う。ほら、葵さん運動神経すごいですし。関係あるのかこれ。
「ごめんごめん」
「むぅ……」
苦笑しながらも頭を撫でてやると拳を下ろしてくれた。膨れっ面のままではあるけど、頭を撫でられるのは満更でもなさそうだ。
「でも、緊張するのは間違いないでしょうね」
「面接の話か?」
「です」
話が元に戻ったので手を離せば、一瞬だけ名残惜しそうな目をされる。本当に一瞬だけ。俺じゃなきゃ見逃しちゃうね。
そのリクエストにお応えして、再び葵の頭に手を乗せて撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めながらも話を続けた。
「もしかしたら、面接だけじゃなくて小論文と実技も。今は自信満々でも、本番になると絶対緊張しちゃいます」
「まあ、そりゃ仕方ないわな」
「特に面接はやっぱり不安ですね……」
「んー、ならあれだ。まひるさんを見習ってみろ」
なんとなしに口にした言葉だった。実際、まひるさんのあのペルソナは場面によっては参考になる。面接、なんていう見知らぬ相手と一対一、もしくは多対一で会話をしなければならない時には。
そう思っての助言だったのだけれど。まひるさんの名前を聞いた葵は、なぜか大きく肩を震わせて。
「まひるさんがどうかしたか?」
「……いえ、どうもしてませんよ?」
「本当か?」
「はい、本当です。それより、もっと撫でてくれたら嬉しいです。真矢くんに撫でられていると、安心しますから」
にこりと笑顔を浮かべる葵だが、どこかぎこちない。まひるさんとなにかあったのは間違いないだろう。けれど、本人が言いたくないのであれば無理に聞き出さない方がいいか。
追及したいのをグッと堪え、頭の上にあった手を頬まで持っていく。真っ白で柔らかい頬は、ずっと触っていたくなる。
突然そんなところを触られたにも関わらず、葵は嫌な顔ひとつしなくて。俺に撫でられるがままどこらか、自分から手に頬を擦り寄せてくる。ああ、本当に。どこまで可愛いんだよお前は。
「葵」
「はい……」
名前を呼んで、抱き寄せる。腕の中に抱いた彼女の頭を、あやすようにポンポンと優しく叩いてやる。
鼻先からは甘い匂いが漂ってきて、それだけで脳が痺れてしまいそうだ。
「なんかあったら、俺を頼れよ。俺はお前の彼氏なんだからさ」
「……はい」
腕の中から解放すると、蕩けた顔が俺を見上げる。瞳は潤んで、頬は上気して赤くなった葵。
視線が、絡まる。
熱を持った夜の瞳が、俺を捕らえる。
その熱に浮かされたわけではないけれど。綺麗な輪郭の顎を右手で優しく掴み、小さく、啄むようなキスをした。
「……不意打ちは卑怯です」
「そりゃ悪かったな。ほれ、勉強の続きだ」
最後にもう一度ポンポンと頭を優しく叩き、俺は机に向き直った。隣からは未だ視線を感じるものの、彼女と同じ色になってるであろう今の顔は、見られたくなかったから。
時折隣の葵に教えてもらいつつも問題を解き続けていると、ふと集中力が途切れてしまった。ずっと下に向けていた首をほぐすように回し、それから時計に視線をやる。現在時刻は十六時半。
葵が家に来て勉強を始めたのが十三時ごろだったから、三時間半は机に噛り付いていたことになるか。我ながらよく頑張った方だ。いつもは一時間くらいで集中切れるのに。
多分、隣に葵がいるからだろう。彼女の存在がいい具合のプレッシャーになってくれるおかげだ。
その葵はというと、俺が集中を切らしたことに気づいたのか、こちらを見て苦笑していた。
「今日はそろそろ終わりにしますか?」
「そうしてくれると助かる。さすがに疲れた」
「ふふっ、頑張ってましたもんね」
数時間前とは違い、今度は葵が俺の頭を撫でて来た。労いの意味を込めているんだろうが、どうにも親が子にするみたいで背中のあたりがむず痒くなってしまう。これが母性、これがバブみか……。
葵を帰らすにしてもとりあえず一息ついてからということで、二人でリビングに降りる。今日は両親ともに休日出勤。姉は休みなので昼過ぎまで惰眠を貪っているはずだったのだが、リビングのソファにはタンクトップに短パンというなんともだらしない格好で寝転がっている姉の姿が。思わずため息が漏れた。
「姉ちゃん、なんて格好してんだよ……」
「家でどんな格好しようが私の勝手でしょー」
寝転がってテレビを見ながら、視線をこちらに向けず返事をする姉に心底呆れてしまう。さすがにグータラすぎるだろ。女としての尊厳的なもんはないのかよ。
俺もソファに座ると思ったのか、起き上がって座り直す姉ちゃん。その際こちらに一瞬だけ視線をやったかと思えば、ものすごい勢いでこちらに振り返った。
「あれ、夜露ちゃん⁉︎」
「お、お久しぶりです加奈さん」
「ちょっと真矢、夜露ちゃん来てたんならさっさと言ってよ!」
「昨日言ったけどな。そういうことだからさっさと着替えてこい」
ごめんねー! と叫びながら二階の自室へと上がっていく姉。これにはさすがの葵も苦笑い。すみませんね本当、身内があんなので。
「さて、何飲む? つってもお茶かオレンジジュースか牛乳しかないけど」
「あ、じゃあ牛乳ください」
「おーけー」
冷蔵庫の中から牛乳とお茶を取り出し、それぞれコップに注ぐ。牛乳を葵に手渡し、俺はオレンジジュースを手に持ってソファに並んで座った。
「提案しといてなんだけど、なんで牛乳?」
「えっと、最近ハマってるから、です?」
「いや、疑問系で答えるなよ」
「あはは、そうですよね……」
まあ牛乳美味しいけどさ。葵は別に特別身長が低いわけでもなく、百六十はあるだろうし、カルシウム足りてなくて最近イライラするんです、なんてやつでもない。特に深い意味はないんだろうか。
つい、と逸らされた目は少し気になるけど、わざわざ追及するようなことでもない。
「牛乳飲む理由なんてひとつしかないわよねー」
聞き慣れた間延びした声に振り返ってみれば、姉ちゃんがリビングに戻って来ていた。服装もちゃんとしている。着替えるの早すぎだろおい。
「あ、あの、加奈さん、出来れば真矢くんには言わないでもらえれば……」
「分かってるわよー。わざわざ男の子に教えるようなものでもないし」
「そう言われると尚更気になるんだが……」
「こればっかりはダーメ。あ、でも夜露ちゃん、牛乳飲んだら大きくなるのって迷信らしいよ?」
「えっ、そうなんですか⁉︎ 世奈ちゃんがとりあえず牛乳飲めばいいって言ってたのに!」
柏木の名前が出て来たことでなんとなく察してしまった。そういえばそんなお話聞いたことがありましたね。牛乳飲めば大きくなるやらならないやら。柏木の名誉のためにどことは言わないけど。
うぅ、と絶望に歪み今にもソウルジェムが濁って魔女を生み出してしまいそうな表情の葵に、姉ちゃんがコソコソと耳打ちする。
果たしてなにを言ったのか、見る見るうちに真っ赤に染まっていく葵の顔。おい、マジでなにを吹き込みやがった。
「むむむ無理ですよそんなの! す、すす、す、……きな、人に、さわ、さわ……」
さわ? ほまれ? 国民栄誉賞? いや違うか。
耳打ちの内容もなんとなく察してしまったので、とりあえず聞いてないふり、分かってないふりをして、付きっぱなしのテレビに視線を固定する。
「あーもー、可愛いなー夜露ちゃんはー」
「きゃっ、加奈さんっ……」
葵の反応が可愛いのは同意するが、無闇矢鱈に抱きつかないでもらいたい。それは俺の特権なので。あと牛乳零すから。危ないから。
しばらく葵を愛でていた姉ちゃんは、そういえば、となにか思い出したように言う。
「もう少しで文化祭でしょ? 真矢、今年はなにするのー?」
「知らん。知ってても教えない」
教えたら絶対仕事休んででも来るし。それが分かっていて教えるはずがない。
「えー」
「真矢くんのところは、執事喫茶ですよ」
「なにそれ面白そう!」
しかし伏兵は思わぬところに。姉ちゃんに抱きつかれたままの葵が、ポロリと漏らしてしまった。
ポロリするなら他のをところをポロリしてくれた方が男の子的には嬉しいんですが。直接言ったらさすがにドン引きされるな。
「真矢、執事するの?」
「はぁ……まひるさんのせいでな……」
「あ、そういえばまひるちゃん、転校してきたんだっけ」
「加奈さんも月宮さんのこと、ご存知なんですか?」
「もちろん。昔は何度かうちに遊びにきてたからねー。どう、真矢。まひるちゃん、元気にしてるー?」
「怖いくらいに元気だよ」
本当、元気すぎるくらいだ。もう少し大人しくしていて欲しいのだけど、ずっと病室にいたことを考えてしまえば許そうと思ってしまう俺は甘いのだろう。
その後姉ちゃんにまひるさんの近況を報告していたのだが。その話の最中、姉ちゃんに抱きつかれたままの葵はなぜか表情を強張らせたままだった。密着している姉ちゃんにもそれはバレていただろうけど、しかし姉ちゃんはそこに踏み込もうとしない。
やっぱり、葵とまひるさんの間にはなにかあったのだろう。姉ちゃんみたいに一線を引いて、踏み込まないようにするのが大人の対応なのかもしれないけれど。俺はもう、線が引けないほどに近くにいるから。
「そっかー、まひるちゃん、相変わらずなんだねー」
「入院生活でちょっとは大人しくなってるのを期待してたんだけどな」
「まあ、あり得ないだろうね。なんにせよ、真矢の執事姿、楽しみにしてるねー」
「いや見にくんなよ」
「絶対行く」
「来るな!」
「行く!」
姉弟揃って子供のような言い合いを、葵はやはり苦笑いを浮かべて見守っていた。
いや、いい加減離してやれよ。ちょっと苦しそうだぞ。
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