第65話 束の間の休息。またの名を労働。

 木曜日はバイトの日。つまり、あの地獄みたいな文化祭の練習から解放される日である。あんなことを毎日やらされるくらいなら毎日働いている方が何倍も楽なのだけれど。残念なことに、夏休みが明けた現在も平日は木曜日しかシフトが入っていない。先日まひるさんたちと店に来た時はついでなので手伝っていったけど。全く勉強していなかった俺の自業自得だ。

 故に本来なら文化祭なんぞにかまけている暇はなく、もっと勉強に時間を割きたいのだ。それは俺だけのみならず、一部のクラスメイトもそう思っていることだろう。まひるさん登場の衝撃や柏木のテンションの高さのせいで忘れそうになるが、俺たちは受験生である。葵や朝陽レベルで勉強できるならともかく、俺のような落ちこぼれは無駄な時間を使う暇などありはしない。

 ということを柏木に伝えてみたところ。


「いや、バイトはそりゃ仕方ないけどさ。お店に迷惑かけるわけにもいかないし。でも勉強については大神くんの自業自得じゃない? 夏休みは四十日もあったのに、夜露とイチャイチャすることしか頭になかった自分の責任じゃん」


 などという大変ありがたいお言葉を頂いてしまった。正論すぎてぐうの音も出ない。別に葵とイチャイチャすることしか考えてなかったわけではないけれど。

 しかし夏休みに毎日一時間だけでも勉強していれば、状況はもっと変わっていたはずなのも事実だ。少なくともシフトを削られることはなかっただろうし、週に二度は文化祭の準備から逃れられる建前ができた。

 まあ、過ぎたことを今更悔いても仕方がない。受験本番までまだまだ時間はあるのだ。それまでにどれだけ努力を積み重ねられるか。おまけに俺には学年トップの成績を誇る彼女と幼馴染がいる。いざとなったらあの二人の力も借りればいい。いざとならなくても葵にはかなりお世話になっちゃってるけど。

 さて。

 本日も店は閑古鳥が絶叫する勢いで客がいない。夏休みはあれだけ繁盛していたと言うのに、休みが明けて学校が始まりそれぞれがそれぞれの日常へと戻ればこんなものだ。

 それでも時たま忘れた頃に同じ学校の生徒がやって来たりするのだけど、三十分と経たずに飯だけ食ってさっさと帰ってしまうのだから暇なことに変わりはない。本気でこの店の経営が心配になってきた。


「そういえば大神くん、文化祭で面白いことやるんだって?」


 暇を持て余しているそんな時、小夜子さんからそう聞かれた。葵の方に視線を巡らせるも、彼女は全力で首を横に振っている。

 え、じゃあ誰から聞いたの?


「昨日、夕凪たちが来て色々教えてくれたわよ。執事喫茶。楽しそうじゃない」

「広瀬たちってことは、他にも来てたりしてたんですか?」

「世奈ちゃんとまひるちゃんも来てたわ」

「マジか……」


 俺と葵があいつらに呼び出されてる間、まさか店にそんな嵐がやってきていたとは。葵もあっちに連れて行って正解だったかもしれないな。

 てかなに、まひるさんと柏木の二人、仲良くなり過ぎじゃない? 出会って三日で一緒に飯行く? まひるさんに至ってはこの店に二日連続って。あの人しばらく病院食だっただろうし、ここの料理気に入ったのかな。


「……ちなみに、なんだが。まひるさん、クラスでどんな様子だ?」

「クラスでの様子ですか?」


 視線を葵の方に向ければ、少し考えるような素振りを見せる。うーんと顎に手を当てている葵が作るこの妙な間は俺がダラダラと冷や汗を流すには十分なものだ。

 あの人まさか、すでに同じクラスの連中にまで手を出してないだろうな。やめろよその皺寄せが来るのは俺たち幼馴染三人なんだぞ。


「クラスのみんなとは仲良くしてますよ? 実行委員のお仕事も頑張ってますし。ただ……」

「ただ?」

「あんまり素を見せてないのかな、って。明らかに私や真矢くんたちへの対応と、そのほかの人への対応が違うので……」


 対応というか、そもそも喋り方そのものからして相当違うはずだ。先日この店に来た時がいい例だろう。俺たち親しい者に対するそれとは一線を画すような言葉遣い。猫を被るなんて次元じゃない。だって一人称すら違うのだから。

 俺、僕、私、もしくは自分の名前を一人称に使うやつだっている。大げさな言い方をすれば、それは自己存在の定義付けだ。どう言った自分をこの世界で演じるかの基準。多くの人は相手によってそれを使い分けるだろうドラマツルギー。まひるさんは、それがあまりにも極端すぎる。

 あるいは、俺たちに見せている姿でさえあの人の本質ではないのかもしれないけれど。


「ま、仲良くやってるならそれでいい」

「月宮さんのこと、随分心配してるんですね」

「まあな。随分傍若無人なイメージあるけど、あれでもあの人はついこないだまで入院してたんだ。体が弱いのも痛いほど理解してるし、そのせいで中学の時も孤立してたし。そりゃ心配する」

「そうですか」


 だから葵にもあの人のことを見てやって欲しいのだけど、なぜかムスッと不機嫌そうな顔をしている。

 あれ、なんで? なんか気に触ることでも言っちゃった?


「真矢くんって、月宮さんのことになると饒舌になりますよね」

「え、そうか?」

「そうなんです」


 言われてみればそんな気がしないでもないが、それにしたって葵が不機嫌になる理由がわからない。……え、いや、まさかそれが理由? まさかとは思うけどこれだけで嫉妬しちゃったりしてるの?

 プイとそっぽを向いてしまった葵を見る限り、どうもそれは当たってるっぽくて、つい微笑ましくなってしまう。


「うちの娘、可愛いでしょ」

「めちゃくちゃ可愛いです」

「な、なんですか二人して!」


 俺と小夜子さんの微笑ましい視線に気づいた葵が、顔を赤くしてわたわた。可愛い。

 嫉妬してくれるのは嬉しいけれど、相手はまひるさんだ。葵が邪推するようなことなんてない。いや、まひるさんだからこそ、なのか。俺が昔まひるさんに告白しようとしたのは葵も知っているし。だからこそ不安になることだってあるのかもしれない。


「なあ葵。俺がまひるさんのことになると饒舌になるのは、さっきも言ったけどあの人が心配だからなんだよ。あんなんでも恩人だからな」

「それくらい、分かってるつもりです……」

「ならいいんだけどさ」


 若干頬を膨らませているその様は、普段よりもいくらか幼く見える。本人からしたら不機嫌なのを隠しているつもりなのだろうところもまた可愛い。可愛いのバーゲンセールじゃん。


「わ、私ちょっと休憩してきます!」


 そして俺と小夜子さんからの視線についに耐えきれなくなったのか、ぷるぷると震え出したと思ったら店の奥へと逃げてしまった。


「あら、逃げちゃったわね」

「からかいすぎましたかね」

「そんなことないんじゃない?」


 くつくつと楽しそうに笑っている小夜子さんは、自分の娘が逃げていった方を見つめている。その瞳に宿っているのは心からの愛おしさと、少しの呆れ。


「あの子、まだ大神くんに好きって一回も言ってないんでしょ」

「なんで知ってるんですか……」

「本人が悩んでるのよ。私は相談に乗ってあげただけ」


 たしかに俺は、恋人である葵からその言葉を一度も貰ったことがない。

 そもそもの始まりからしておかしかったのだ。あの日あの屋上で嫌いだと告げられて、その相手が朝陽の想い人で、一見して頭の悪い距離の詰められ方をして、彼女がとても勇気を振り絞って俺と接していることを知って。いつの間にか、そんな彼女から目が離せなくなって。

 葵がその言葉を言えない理由を、俺なりに考えたこともある。素直になれないのか、ただ恥ずかしいだけなのか、一番最初に嫌いだなんて言ってしまった手前、言い出しづらいのか。もしくは他の理由なのか。

 そのどれにせよ、結局のところそれは葵本人にしか分からないし、俺が知ったところで彼女本人の感情や心理をどうにかできるわけではない。


「大神くんは、言って欲しくないの?」

「ノーと言えば嘘になりますけどね。でも、そんなに急かそうとも思いません」


 こんな言い方しかできない俺こそ、素直ではないのかもしれない。

 言って欲しいに決まってる。好きな女の子から自分のことが好きだと言われるのは、この世全ての男が夢に見ることだろう。

 ただの言葉。音の羅列でしかない。抱いた思いを告げるにはあまりにも不自由なそれは、けれど人間が長い歴史の中で積み重ねてきた最も便利なコミュニケーションの手段。

 気持ちの全てを伝えることができなくても、そのたった一部だけでもそこに乗せることができる。

 それがどれだけ尊ぶべきことなのかは理解しているつもりだ。


「呑気なもんねぇ。夜露はあんなに悩んで焦ってるのに」

「焦る必要はないと思うんですけどね」

「大神くんが名前で呼んでくれない、とも言ってたかしら」

「うぐっ……」


 予想外の攻撃がきた。大神くんの精神に八千ダメージのダイレクトアタック。ワンパン即死攻撃じゃん。


「で、いつになったら夜露のこと名前で呼んであげるの? 私も勇人さんも葵だから、苗字で呼ぶと困惑するわよ」

「まあ、そのうち、追い追い……」

「大神くんも夜露のこと言えないわねぇ」


 葵に好きだと言わせる。葵のことを名前で呼ぶ。この二つが今のところの目標だ。そしてそう簡単に達成できてしまうなら、わざわざ目標に設定しないわけで。

 こればかりは、俺たち四人の拗れ具合なんぞ微塵も関係ない。俺と葵、二人の問題だ。


「ま、頑張んなさいよ。うちの娘を任せられるのはもう大神くんしかいないんだから」

「それを判断するにはちょっと気が早いと思いますけど……」

「じゃあ恋人のことを名前で呼べないようなヘタレに娘はやれん! とか言えばいい?」

「それ、どっちかっていうと父親のセリフですよ」

「勇人さんはそういうの言わない人だから」


 二人揃って苦笑を漏らす。彼女の母親からこういうことを言われるのは複雑な気持ちになるけれど、言われた通り頑張るしかない。

 とはいえ取り敢えず、今は目先の問題、すなわち文化祭に目を向けるしかないのだけど。

 嫌だなぁ執事……。

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