第57話 嫌いにならないで
ちゃんと服を着たという葵に改めて部屋の中へ招かれ、部屋の中央にある丸机を挟んで向かい合いお互い正座。
直前の出来事ゆえかまだ頬を赤らめている葵は俯いてしまって口を開かず、俺もそんな彼女にどんな言葉をかけていいのか分からずに沈黙が場を支配していた。
いやマジで、なんて声かければいいんだよ。それに俺だってこの状況が結構恥ずかしいというか、まともに葵の顔が見れないというか。健全な男子高校生たる俺は十数分前のあの生々しい感触をバッチリ脳内フォルダにタグ付け保存しちゃってるわけで。
「……私、考えてみました」
静寂を破ったのは、俯いたままの葵だった。表情は上手く見て取れないけれど、声には沈痛な色が滲んでいる。主語がはっきりしない言葉ではあったけれど、それを察せられないほど鈍くはないし、わざわざ追求するほどバカでもない。
「帰ってきたその日は、頭に血が上っちゃってて……でも次の日に冷静になってみたら、きっと真矢くんにも理由があって、私を止めたんだって思って……」
葵は頭がいい。それはなにも勉強が出来る云々ではなく、様々な視点に立って物事を考えられるということだ。主観だけではなく、客観的に、あるいは他の誰かの主観に立って思考を巡らすことができる。
しかしそれと同時に、葵は純粋すぎるのだ。一度信じたものをとことんまで信じ抜く。誰かに裏切られた経験なんてないのだろう。もしくは、自分自身に裏切られたことだけはあるかもしれないが。
だからこそ感情的になりやすく、他人に共感できる。誰かのためになにかを為せる。
長所でもあり短所でもあるそれはきっと、葵が言うヒーローになるためには必要なことなのだろう。素質がある、ともいう。所詮はフィクションの中の存在ではあるけれど、それでもだ。
この子にはその強さと、優しさがある。
「なのに私は、自分の考えを主張するばかりで、真矢くんの言い分にも耳を貸さないで……本当、バカですよね……」
顔を上げた葵は眉尻を下げて、自虐的に微笑んだ。
全くもって耳が痛い。俺だって同じだ。理由はたしかに言えない。葵のやろうとしてることを見過ごそうとも思えない。それでももっと言い方があっただろうと、この数日で果たして何度後悔したか。
「そのことに気づいちゃったら、後悔ばかりが押し寄せて……真矢くんに嫌われてないかって、怖くなっちゃって……」
こんなところにも、見落としたものが一つ。
俺はここに来るまで、葵に嫌われていないかと不安で仕方なかった。怖かったのだ。
初めて好きになった女の子。初めての彼女。そんな葵に嫌われて捨てられたら、大げさな話生きていける気すらしなかった。
そう思っていたのが俺だけだなんて、そんなわけがないだろう。自惚れでもなんでもなく、実感を伴った事実として。付き合う前、知り合ってその日からあれだけの好意を示してくれていたのだ。
葵だって、俺に嫌われるかもしれないと思っていて当然だ。
「私は、自分の考えも、やることも変えるつもりはありません。凪ちゃんと伊能くんが、もっと距離を詰められるようにって。それでも……」
今にも泣きそうな潤んだ瞳が俺を捉える。顔いっぱいに不安を貼り付けた葵は、けれどとても綺麗に見えてしまう。
そんな表情で、彼女は言うのだ。
「それでも、私のこと、嫌いにならないでください……」
震えた声で発せられる切実な願い。今にも目尻から雫が落ちてしまいそうで、しかしすんでのところで耐えているのは信じているからだろう。信じて、くれているのだろう。
彼女にここまで言わせてしまうなんて。俺という男は本当に救いようがない。
答えなんて、決まっている。いや、答えにすらならない。これは願いだ。嫌いにならないでくれと切願した葵と同じ。ただ、俺の気持ちを、感情を、彼女にぶつけるだけ。
「嫌いになんて、なるわけないだろ。俺がどんだけ、お前のこと好きだと思ってるんだよ。むしろ、俺の方こそお前に嫌われたのかと思って……だから、俺を……!」
嫌いにならないでくれ。
その言葉が口から出ることは、ついぞなかった。情けないと思ってしまったからか。この期に及んで恥ずかしさが勝ったのか。どちらでもない。
ただ、言葉が詰まって想いが積もって。
ダメだな。ダメダメだ。葵のことをポンコツだとか感情的になりやすいだとか評しておきながら、俺だって彼女のことになると同じなんだから。
「よかったぁ……」
安堵したのかへなへなと強張っていた全身の力を抜く葵は、正座を崩してぺたんと女の子座り。そのまま丸机の上に上半身を突っ伏させてしまった。
さりげなく恥ずかしいことを口にしてしまった気もするけれど、まあ気にしないでおこう。こんな状況で口走ったセリフだし、ノーカンだ。
「言っとくけど、俺だって考えを変えるわけじゃないからな」
「はい。それは分かってます」
「そのあたりは、まあおいおい話すとするか。んで、お前寝不足じゃねぇの? 今日働けるのか?」
「え、っと、それは……」
徹夜で大人の仮面ライダーを見ていた、なんて奇行を冷静に思い返したのか、つい、とバツが悪そうに視線は明後日の方へ。頬の赤みも取れていない。
「ふぁ……」
「……」
「あっ、ち、違うんです。今のは違います。欠伸じゃないです。大丈夫です働けます」
可愛らしい欠伸が漏れたので白けた目を向けると、葵は慌てて取り繕う。誰がどう見ても欠伸だったし、別にそこまで無理して働こうとしなくてもいいと思うのだけど。
負い目のようなものを感じているのだろう。キャンプでのことがあって、今日こうして話して、なのに自分だけ休んで俺を働かせることに。些か以上に真面目すぎるのは、いい加減慣れた。
「小夜子さんには適当に体調悪いとでも言っとくから。今日は休んどけ。無理して働いて本当に体調崩しでもしたら目も当てられないからな」
「すみません……」
「謝らんでいい」
「じゃあ、ありがとうございます」
ふわり、と。花のように微笑んだその顔は、見慣れたはずのもので。だというのにこんなにも心臓の鼓動が速くなるのは、キャンプ終了から数日見ていなかったからだろうか。
その笑顔を直視するのすらも憚れて、何かを誤魔化すように立ち上がった。
「んじゃ、俺は下降りるから。ちゃんと寝とけよ」
返事は待たずに部屋を出る。今すぐこの場で悶え転がりたい衝動に襲われるが、ここは人の家だ。自分の家の自分の部屋ではない。
心臓は未だに大きく早く脈動していて、それを落ち着かせるためにもいつの間にか熱くなっていた顔を手で押さえ、天井を見上げる。
「やばい……」
日に日に増していく想いが、少し怖い。今ですら相当な自覚があるのに。これ以上葵のことを好きになってしまったら、一体どうなってしまうのだろう。
俺たちはちゃんと知り合ってからまだ四ヶ月しか経っていない。随分と濃密な四ヶ月だったとは思うが、それでも所詮は四ヶ月。たったそれだけの時間しか共有していない。ならば当然、俺のまだ知らない葵の一面だってあるだろうし、その逆もまた然りだ。
それを新しく知るごとに想いは大きくなるばかりな自分が怖い。少し、いやかなり贅沢な悩みだ。けれどそう思えることが誇らしく嬉しい。
俺みたいな人間でも、こんなに誰かを想うことが出来るんだ。
俺たちを取り巻く状況が変わったわけじゃない。依然として地雷原でタップダンスしてるような状況ではあるけれど。
この気持ちだけは、忘れないようにしよう。
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