第56話 例えばこんなハプニング

 決して平穏とは言えない結末に終わったキャンプから二日が経ち、水曜日の今日。バイトの日である。

 あれから葵とはまともに話していない。キャンプから帰ってきた日曜日も、別れ際の挨拶すらなかった。幸いにして人数の多さに紛れて特に目立っていなかったから、誰にも突っ込まれなかったけど。広瀬の他にも、朝陽と柏木はなにか気づいていそうだけれど。その二人からも、特になにも言われず別れた。

 素直に薄情してしまえば、とても怖い。あんなことがあって、俺は葵に嫌われていないだろうか。別れを切り出されはしないだろうか。一度はその背中を押した俺が、彼女が信じて歩いている道を否定したのだ。裏切られたと思われてもおかしくない。

 口を利いてくれなかったらどうする? 真面目な彼女のことだから、最低限仕事に影響のない範囲では会話してくれるだろうけど、ではそれ以外は? 始まる前、休憩中、終わった後。いつも楽しく会話していたのに。

 これまで幼馴染とまひるさん以外でろくな人間関係を築いてこなかった故に、誰かと仲違いした時の正しい対処法なんてもんを知らない。素直に謝ればいいのか? 自分の主張を曲げてまで? それは違うだろう。そんなものただの一時しのぎにしかならない。いつかどこかで瓦解する。

 そもそも、俺だって広瀬のことは応援したい。小さい頃からずっとあいつの想いを知っていたのだ。それを成就させて欲しいと思っている。ただ、素直にそう出来るほど俺たちはもう子供じゃなくて、状況はより複雑に絡まり合っている。

 これ、マジで詰んでるな……。俺も葵も譲る気はなく、こちらの事情を詳しく説明するわけにもいかない。こればっかりは誰かに助力を頼むことはできないし。とりあえず、あの時言い過ぎたということだけはちゃんと謝っておかなければ。

 主義主張の対立は誰との間にも起こり得るものだし、そのことを悪いとは言えないが、それにしたってやり方というものがある。あんな感情的に相手を否定するようなやり方は、本来俺の嫌う似非リア充なりDQNなりと同じやり方だ。

 ちゃんと謝って、せめていつも通り普通に接してくれるようにはなんとかしなければ。


 と、そこまで考えたところで葵の家に到着してしまった。店の入り口の前に立ち、一つ深呼吸。果たしてどうなるのか、この扉を開いてみないことには分からない。やはりまだ少し怖いけれど、どの道避けては通れないのだから。

 気合いを入れて、いざ開いた扉の先。そこに葵の姿はまだなくて。


「あら、おはよう大神くん」

「おはよう。キャンプはどうだった?」


 厨房で小夜子さんと勇人さんの二人が開店準備中だった。土日を休みにしてもらったお陰か、なんだか久しぶりな気がする。


「おはようございます。楽しかったですよ、キャンプ。休みにしてもらってありがとうございました」

「いいのいいの。若いうちは好きなだけ遊ばないと損なんだし」

「働いて稼いだお金はちゃんと使わないとね。他にも休みたい日があったら気軽に言ってくれて構わないよ」


 この様子だと、二人は葵からキャンプでのことを聞いていないっぽい。しかしそれでも、葵が家でもおかしな様子を見せていたらなにかあったのかと気付くだろう。それすらなさそうだと言うことは、もしかして俺が思ってるよりも葵は怒ってなかったりするのだろうか。

 などと考えるのは明らかなフラグになりかねないけど。


「あの、ところで葵は?」

「夜露ならまだ部屋にいるよ」

「いつもならもう降りてきて手伝ってくれてる時間なんだけどねぇ……大神くん、悪いけどちょっと呼んできてくれる?」

「えっ、俺っすか」


 いや、二人で話す時間が欲しかったからちょうどいいんだけどさ。それにしてもそんな、ちょっとそこの物取って、程度の気軽さで男を娘の部屋に入れようとしてもいいのか。いやまあ、俺と葵が付き合ってるのは両親公認なわけだし、そう考えるとおかしなことではないのかもしれないけど。


「なに今更遠慮してるのよ。もう何回も家には上がってるでしょう?」

「まあ、そうですけど……」

「てことで、お願いね。ついでに二人きりで話したいことがあれば話しときなさい」

「……分かりました。ありがとうございます」


 どうやら、ある程度察せられていたらしい。さすがは親というべきか。この人たちには敵う気がしない。自分たちは変に首を突っ込まず、本人たちの手による解決を促す。これが大人というものか。

 優しい笑みを浮かべる小夜子さんにもう一度頭を下げ、家の中に上がらせてもらう。

 もはや慣れてしまった葵家の中を進み、二階にある彼女の部屋へ。何度か部屋に上がらせてもらっているが、そのいずれも入る前はかなり緊張していた。もちろん、今もその例外にもれず。面白いのはそれぞれで理由が違うことだが、そんなことに笑っていられるほどの余裕がない。

 意を決して右手を掲げ、部屋の扉を三回叩いた。ノックしてもしもーし。


「葵、いるか?」


 呼びかけてみるも、返事はない。勇人さんは部屋にいると言っていたから、不在ではないと思うけれど。となれば、まさか無視? 顔も合わせたくないし口も聞きたくないとか? なにそれつらい。

 もう一度ノックしてみるも、やはり返事はない。しかし耳を澄ましてみれば中から物音が聞こえる。やっぱり無視されてんじゃん。泣きそう。

 だが小夜子さんからは呼んできてくれと頼まれている。ここで諦めるわけにはいかない。俺の心の真矢みきも諦めないでって言ってるし、俺の心の全肯定ハム太郎もそうなのだって言ってる。

 若干申し訳ないなーとは思いつつもドアノブに手をかけ、勢いよく開いたその先には。


「ふふ、ふふふ……やっぱり仮面ライダーはいいなぁ……大切なものを沢山教えてくれる……この世は弱肉強食……食うか食われるか……狩るか狩られるか……なにも傷つけず、自分の手も汚さない……優しい生き方だけどなんの役にも立たない……そうですよね仁さん……」


 クーラーをがんがんに掛けた挙句頭から毛布を被って、電気もつけずカーテンも閉めた真っ暗闇の中でなんか猟奇的な仮面ライダーを観ている葵がいた。

 てかやばい。そのライダーはやばい。よりにもよって一番やばいライダーチョイスしちゃってるよこの子。おまけにやばいやつの影響受けてるし。洋食屋の娘が観ていいような作品じゃないぞそれ。

 どうやら俺に気づいていないみたいだが、さすがにこのまま葵を眺めているわけにもいかない。部屋に一歩踏み入ってクーラーのおかげで下がりきった部屋の温度に軽く腕を摩りつつも、電気をつける。


「もうちょい他にもマシな仮面ライダーあるだろ。なんでそれなんだよ」

「あっ……」


 スイッチを入れながらも呆れたように言えば、布団に包まった葵がこちらを向いた。お世辞にも顔色がいいとは言えず、夜色の瞳はどこか虚だ。目元のクマを見る限り、徹夜で観てるんだろうか。今日店のお手伝いの日だって忘れてたな? なんにせよ、無視されたわけじゃなさそうで一安心。


「おはよ、葵」

「しんやくん……?」


 俺を視認したその目に、ようやく光が宿る。驚いたような表情はどうして俺がここにいるのかと、言葉よりも雄弁に語っていた。そこに疑問を持たれるのは少し悲しいが、そもそも今日が水曜日だということも分かってなさそうだ。いや、現在時刻すらあやふやなのかもしれない。


「とりあえず冷房消すぞ。んでカーテン開けて窓も開けろ。ほれ、布団から出ろ」

「あっ、ちょっ、と、待ってください! ダメ、ダメです今は絶対ダメです!」

「ダメじゃない。体調崩したらどうすんだ」

「心配してくれるのは嬉しいですけど、本当、今はダメなんですよぉ!」


 なぜか真っ赤な顔で抵抗する葵。いきなり俺が現れて混乱しているんだろうが、それにしたって頑なだ。仕方ないので無理矢理布団を剥がそうとすれば、イヤイヤと言わんばかりに余計包まってしまう。布団から顔だけ出てるのはシュールで可愛いからありっちゃありなんだけど、こんな環境の部屋にいればマジで体調を崩しかねない。


「このっ、いい加減に……!」

「えいっ!」

「うぉっ!」

「あっ」


 どこにそんな力があるのか。男女の体格差とか座っているのと立っているのとの体勢の違いとか、その他諸々を全く無視した葵の馬鹿力に俺の上半身は引っ張られてしまい。勢いそのままに葵の上に倒れてしまった俺は、まあ、なんというか、お察しの通りではあると思うんだけど。

 端的にいうと、葵を押し倒してた。

 それだけならまだいい。いや良くないんだけども。ただ押し倒してしまっただけなら、まだどうとでも言い訳のきく状況だったろう。もっと言えばこれは葵に引っ張られたのであって俺が押し倒したわけじゃない。

 だが。引っ張られた時に布団から手を離さなかったのが悪かったのだろう。手をついた先が葵の顔の横だったから、おかげで布団を剥がすことには成功したけれど。

 視界に映るピンク色はなんだ? 問うまでもない。見ればわかる。葵が着ているキャミソールだ。問題は、パジャマの下に秘されていなければならないそれが何故か見えてしまっていることで。少し下に視線を下ろせば同じ色のショーツ。どうやらズボンも履いていないことが分かってしまった。

 永遠とも須臾とも取れる沈黙。俺を見つめる瞳は潤んでおり、唇は一文字に引き結ばれ顔全体が熟れたトマトよりも赤く染まっている。床と布団の上で乱雑に散らばった黒髪にはいつもの艶はないけれど。

 こんな格好ならそりゃ抵抗するとか、いやそもそもなんでこんな格好なんだとか、色んな思考を吹き飛ばすほどに。惹きつけられた。

 これまでのどんな姿よりも艶やかな、色のある姿。男の興奮を掻き立てるような、扇情的な格好。


「……っ! 見ないでください……!」

「ちょっ、葵っ⁉︎」


 思わず呆然としてしまうほどに見惚れていた俺の首に葵の手が回され、またしても勢いよく引っ張られる。頭が着地した先はキャミソールの上。柔らかい感触が顔面とぶつかり、更に押し付けるようにしてギューってされた。

 残念なことに徹夜明けの不健康な体からはいい匂いなんてしなかったけれど、それでも俺が今押し付けられている箇所のことを思えば嫌でも顔に熱が集まってしまう。

 小さいと思ったことはなかったけれど、いやはやこうして直に感じてみれば思っていたよりも大きいというか膨よかとか言うか……。

 あれ、おかしいぞ? なんだか息苦しくなってきたような、意識が遠のいてくような……。


「……あ、あれ? 真矢くん?」


 異変に気付いた葵が俺の後頭部に回していた手を離し、おそるおそるこちらの顔を窺ってくる。解放された俺は直ぐに立ち上がり、葵の体から離れた。冷静になって自分のしでかしたことに気づいたのか、葵はもはや涙目になっていた。


「……部屋出てるから、服着たら呼んでくれ」


 か細い返事の声を背中で聞いて、若干後ろ髪引かれながらも部屋を出た。

 死ぬかと思ったぜ。色んな意味で。

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