第48話 完全にタイミングを逃した
朝陽と別れてから家に入ると、幸いにも姉ちゃんはまだ寝ているらしかった。両親も帰ってきてないし、姉ちゃんが起きてきて色々と追及される前に家を出たい。まあ、今日は日曜日だから昼まで寝てると思うけど。
一度気分をリセットさせるために軽くシャワーを浴びる。昨日の雨の影響か、外は湿気が多くてまとわりつくような気持ち悪い暑さだったのだ。冷水シャワーが気持ちいい。キンキンに冷えてやがる。
気を抜けばすぐに思い出してしまう、葵との別れ際。熱くなる顔を冷却しながら、ついでに余計な思考も水に流してしまう。
あいつ本人が大丈夫だと言っていたのだから、今はそれを信じるしかない。
「よし……」
シャワーの水を止めて風呂を出る。服を着てから顔を洗って髪のセットまで済ましリビングへ。時刻は八時半。姉ちゃんはまだ起きてこない。時間的にまだ少しだけ余裕があるけれど、構わずに準備を終わらせて家を出た。
直前にシャワーを浴びたお陰か、外の暑さもまだマシに感じる。ここから徒歩五分、汗を掻くこともないだろう。
小夜子さんと勇人さんが帰ってくるのは夕方になるから、葵は既に一人で仕込みやら開店の準備やらを始めているかもしれない。実際、昨日も俺が来た頃には既に一人で開始していた。
いつもよりも心なしか足の動くスピードが速い気がするのは、果たして気のせいだろうか。あんなことがあってどんな顔して会えばいいのか分からないというのに、それでも早く会いたいと思ってる俺がいる。
その結果五分と経たず店に着いてしまった。さっきとは違って店の入り口から中に入ると、証明は付けられ各テーブルの準備も完了しており、ここだけ見ればいつでも開店できる状態になっていた。いや、早すぎない? 葵一人じゃなかったっけ?
その葵はどこに行ったのかと厨房の方に視線をやれば、物陰から見える黒いポニーテールが尻尾のように揺れていた。
いきなり近づいたら驚かれるだろうから声をかけようとして、しかしすんでのところで思いとどまる。いや、喉になにかつっかえたような気がして、声が出なかった。
呼ぶべき、なのだろうか。苗字ではなく、彼女の名前を。
そうしている間にも気配に気づいた葵が振り返り、俺を視認した途端半ば予想通りに顔を赤面させる。そんな表情を見せられてしまえば、余計に言葉なんて出るはずもなく。形にならない声が無意味な吐息となって口から漏れるばかり。
しかし、ここでずっと立ったまま見つめあっているわけにもいかない。なにを言えばいいよかも碌に分からず、それでもなんとか言葉を絞り出そうとした結果。
「……ただいま」
なぜか、見当違いなセリフを口にしていた。
いや。いやいや。いやいやいやいや。おかしい。それはおかしいぞ。なんだよただいまって俺はなに様のつもりだよここは自宅でもなんでもないただのバイト先だぞ頭いかれてんのか俺は。
失言に気づくことができても時既に遅し。一度発した言葉を撤回することなんて出来ない。もし仮に葵の耳に届いていなかったのならなかった事に出来たかもしれないが、眼前で目を瞠っている葵を見る限り、ちゃんと聞こえていたようだ。
しかし次の瞬間には、彼女の口角は上がり、つい一時間ほど前と同じ表情を浮かべていて。優しくて、柔らかくて、穏やかな、慈愛に満ちた笑み。顔は赤いままだけど。
見惚れてしまうほどに美しい笑顔で、彼女は言葉を紡ぐ。
「はい、お帰りなさいです。真矢くん」
上機嫌で、大切な宝物をソッと包み込むように、小さな幸せを噛み締めるように。
その表情をずっと見ていたくて。けれど、これ以上この場にいると、どうにかなってしまいそうで。
「……手伝う。カバン置いてくるからちょっと待っててくれ」
「お願いします」
逃げるようにその場を後にし、店から家の方へと移動した。
全く、これでは今までと立場が逆だ。せっかく葵が恥ずかしさから逃げることがなくなったというのに、俺が逃げてどうする。
顔の熱が収まってから向かおうと思ったが、それでは時間がかかりすぎるから観念して店に戻ることにした。
今日まともに仕事できるんだろうか。
結論から言えば、心配は杞憂に終わったと言っていいだろう。
開店してからしばらく経つまでは多少ギクシャクしていたものの、昼前になればそれなりに客が入ってきた。満席にはならずとも、埋まっている席の方が多い。
普段なら大したことのない、簡単に捌けるだけの数なのが。今日は普段と違う。
小夜子さんも勇人さんもおらず、俺と葵の二人だけなのだ。しかも厨房に立っているのは葵一人。俺はレジ打ち料理出し空いたテーブルの片付けおまけに皿洗いとしている上に回転も結構早いから、葵を手伝えるだけの余裕もない。
「葵、次のオーダー入ったぞ」
「はいっ! あ、これ五番テーブルにお願いします!」
「りょーかい」
身体を動かしていれば余計なことを考えずに済む。
なるほど我が幼馴染の言うことはごもっともだ。こうして忙しなく動き回っていると、葵との間に満ちていた硬い雰囲気はどこへやら。まあ、おまけに名前を呼ぶタイミングも失ってしまったから、未だに葵呼びなんだけど。情けないったらありゃしないぜ。
出来上がった料理を運びさて次の仕事だと空いたテーブルの片付けへ向かおうとすれば、そうはさせるかと言わんばかりに新しい客が入ってくる。
思わず舌打ちしてしまいそうになるのをなんとか堪え、開かれた扉に向き直ると。
「こんにちはー、ってあれ。今日は結構お客さんいるね」
「良いところに来た」
「へ?」
殆ど反射的に、入店してきた柏木世奈の肩へ手をやったのは仕方ないことだろう。柏木からすればあまりにも唐突で読めない状況ではあると思うが、こちらはそうも言ってられない。疲れた脳みそでは冷静な判断なんぞ出来ないのだから。
「あの、大神くん? わたしの肩に手を置いてどうしたのかな? 通報した方がいいやつ?」
「葵ー! 労働力確保したぞー!」
「ろうどうりょく?」
「世奈ちゃん、手伝ってくれるんですか!」
「いや、あの、状況がよく読めないんだけど……」
「え、違うんですか……?」
カウンター越しに柏木を見つめる葵の目は、まるで捨てられた子犬だ。葵もこの忙しい状況に辟易としているらしい。
おまけに俺と同じく疲れで脳みそがまともに回ってないらしい。いつもの彼女なら、むしろ俺を止めそうなものなのに。
潤んだ瞳にジッと見つめられ、しかもその相手が葵夜露ともなれば柏木が折れるのも時間の問題だった。
「分かった分かった。手伝うよ。夜露にそんな目で見られたら断れないもん」
ため息を吐いて苦笑を浮かべれば、柏木は店の奥へと向かい葵の指示で予備のエプロンを取りに向かった。
ありがたい判断だ。柏木にはタダ飯を食わせてやろう。その決定権は俺にないけど。
三人シフトになってからは、それまでが嘘のように余裕を持てた。葵は変わらず厨房の中で料理に集中し、柏木が接客を一手に引き受けてくれる。さすがにレジ打ちを任せるわけにもいかないし、やり方も知らないだろうから皿洗いと葵の手伝いとの兼任で俺がやったけど。
「飲食店のアルバイトってのも結構楽しいもんなんだね」
「あれ、お前もバイトしてるんじゃなかったのか?」
僅かに出来た手持ち無沙汰の時間に、皿洗い中の俺へと声をかけてくる柏木。注文された料理も全て提供済みで、葵も一休みしている。
たしか今年からバイトを始めた、とかなんとか一学期に教室で言っていた気がするのだが。この口ぶりからするに、飲食店のバイトじゃないのだろうか。
「してるけど、接客とかそう言うのとは全然違うの。だからこれが初接客業だよ」
「その割には慣れてる様子だな」
「まあね。わたし、要領がいいから」
「自分で言うなよ」
「そう言う大神くんこそ、随分板についてるじゃん、皿洗い。似合ってるよ」
「バカにしてんのか?」
「まっさかー」
快活な笑みを残して、客に呼ばれた柏木は俺の前から去る。
バイトを始めてまだ一ヶ月も経っていないが、第三者である柏木にそう見えるということはそういうことなんだろう。皿洗い云々は置いといて。
実際、自分でも結構慣れてきた自覚はある。だからこそ小夜子さんは俺に厨房周りのことも教えてくれたのだろうし、そもそも金を貰う以上はマジメに働かなければならない。接客や皿洗いくらいはちゃんと出来ていて当然だ。
それから二時間ほどすると客入りも落ち着いて、更に数十分経てば店内に客は一人もいなくなった。柏木が来てくれなければどうなっていたか。
そんな救世主様は現在、晴れてお役御免となり葵の作ったグリルチキンとシーフードドリアを堪能してる真っ最中である。
「んー、美味しい! さすが夜露!」
「ふふっ、ありがとうございます」
ついでに俺たちもかなり遅めの昼食にしようと言うことで、一時的に店を閉めて三人でテーブルを囲んでいる。
あまり沢山食べるイメージのない葵も、今日ばかりはハヤシライスを大盛りにしている。因みに俺はでっかいハンバーグと白飯特盛りだ。
「でも、本当にお金いいの?」
「いいんです。世奈ちゃんは手伝ってくれましたから、これは正当な対価です。ですよね、真矢くん」
「ん、まあそうだな。さすがに小夜子さん達に無断で金渡すわけにもいかないだろうし、タダ飯食わせるのが妥当なとこだろ」
未だに慣れない呼ばれ方についキョドッてしまいそうになるも、なんとか普通に声を出せた。あとは、俺がいつ葵を名前で呼ぶかだけが問題だ。
「そういう事なら、ありがたく食べさせてもらうね。たったあれだけの労働でこんなに美味しいもの食べられるなんて、願ってもないし」
「あれだけの労働って……」
それなりに忙しかったと思うのだが、自称要領のいい清楚系小悪魔ギャルからすれば大したことはなかったらしい。
ところで、と改まった様子で口にした柏木が、箸を置いた。
「話は変わるんだけどさ」
「どうしました?」
「夜露、大神くんのこと名前で呼ぶようになったんだね」
「あっ」
ニヤニヤといやらしい笑みを貼り付けた柏木は、完全に小悪魔モード。さっきまで働いてる途中も、そして正しく今も。葵は柏木の前で何度も俺の名前を読んでいる。
以前こいつがここに来た時とは違う呼び方に、コイバナ大好き女子高生が食いつかないはずがなかった。
一瞬で真っ赤になってしまった葵もスプーンを置いて、恥ずかしそうに俯いてしまう。
「え、っと、その、今日から、変えました、けど……」
「うんうん、付き合ってるもんね。ちゃんと名前で呼んだ方が恋人っぽいもんね。ねー、大神くん?」
俺に振るな。
葵が俺の名前を働いてる途中に何度も呼んでいたのと同じく、俺だって葵のことを何度も呼んでいるわけで。当然だ。二人だけならまだしも、三人いるとなればちゃんと相手の名前を呼ばないと連携が取れないのだから。
そしてそれは、柏木も勿論聞いていて。
責めるような視線が俺に向く。なにしてんだヘタレお前さっさと下の名前でちゃんと呼んでやれ、とその目が言葉よりも雄弁に語っていた。
全くもってその通りなのだけれど、不幸にもというべきか幸いにもというべきか、完全にタイミング逃しちゃってるわけで。
その状況で俺が取るべき行動は一つ。
「ところで更に話は変わるんだが」
「おおがみくん?」
逃げ一択である。いや、自分でも情けないとは思うんですよ? そう思ってるからそんな怖い目で見ないでください柏木さん。
しかし、これはただの逃げの一手ではない。
「いや、ちょっと真剣な話。柏木、お前最近朝陽と会ったか?」
「朝陽くん? この前用事で学校に行った時会ったけど、どうかしたの?」
どうやら本当に真剣な話だと理解してくれたらしい。柏木の表情からふざけた色が消える。俯いていた葵も顔を上げ、こちらを見ていた。まあ、葵はまだちょっと頬が赤いままだけど。
だがこの様子だと、柏木は朝陽の変化には気づいていないか。人間観察が趣味と豪語する柏木なら、なにか気づいていてもおかしくはないと思ったのだが。
「伊能くん、なにかあったんですか?」
「いや、最近あいつと会ってないからな。大会も近いだろ? だからどんな調子か知りたくて」
「直接聞けばいいじゃん。家、お向かいさんなんでしょ?」
「中々タイミングが掴めないんだよ」
「大神くんが夜露の名前呼べないのと一緒だ」
「やかましい」
なんで話が戻ってるんですか。柏木マジで容赦ねぇ。
楽しそうに笑う柏木とは対照的に、俺の隣に座っている葵はなにやら思案顔。もしかして、質問のおかしさに気づいただろうか。
「でも、大神くんが伊能くんと会ってないのも珍しいですね」
「夜露ー、呼び方戻ってるよー」
「あっ、すいません……」
「いや、謝らなくてもいいけど……」
慣れてないのだから仕方ない。呼ぶ方の葵も、呼ばれる俺も。
しかしどうやら、着眼点は違くとも葵も異変には気づいたか。恐らくはまだ明確な言葉に出来るほどではないかもしれないが、それでもおかしいと感じている。
「まあ、朝陽くんなら大丈夫だと思うよ? それよりわたしは、夜露と大神くんの話が聞きたいな」
「わ、私達のですか?」
「うんうん。夏休み始まってからデートの一回や二回はしてるでしょ? ほれほれ、詳しく話してみなよ」
「え、いや、でも……」
少し強引にも思える話題の転換ではあるが、柏木なりに気を使ったのだろう。こいつは鋭いやつだから、俺がこんな質問をした時点でなにかあったとかと察しているはずだ。しかし、この場で詳しいことを聞いてこない。
それが今はありがたい。詳しい話をするとなれば、葵の前では言い難いから。
でもそっちを聞かないからって他に余計なこと聞こうとしなくていいから。葵も素直に答えようとするな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます