第47話 昨夜はお楽しみでしたね

 朝目が覚めたのは、小鳥のさえずりなどという風情のあるものではなく。外で鳴いている蝉が煩かったせいだ。やつらはそこらのリア充以上に夏を満喫してるんじゃないのかと疑ってしまうくらい、大きな鳴き声を上げて求愛行動に勤しむ。

 あながち人間とそう大差ないのではなかろうか。俺のクラスでも、やたらとでかい声を出して「俺今面白いこと言ってますよ」感を醸し出すバカが何人かいるのだ。本人達からすれば、それで女子に対するアピールのつもりなのだろう。しかしそんなものただ煩いだけ。やつらは蝉以下の存在だ。何年も土の中で頑張って育ち、地上に出てきては一週間でその儚い命を散らしてしまう蝉の方がまだ可愛げがある。嘘、蝉に可愛げなんて微塵もない。マジで煩いだけだし。

 さて。突然だが俺は朝が苦手だ。嫌いと言ってもいい。むしろ好きなやつなんていないだろうと思うのは、俺の偏見か。

 なにせ朝がやって来たら強制的に学校へ向かわねばならないし、社会人になったらやりたくもない仕事をするため会社へ向かわねばならない。今は夏休みだからまだマシだけれど、それでも社会人になればそんなことは言ってられない。

 だがしかし、それと相反するように。俺は特段朝に弱いということもなかった。むしろ強い方だ。アラーム一回で起きれちゃうし、顔を洗えば強制的に目が冴えてしまう。

 つまり目が覚めてすぐでも、完全とまでは行かなくともこの様に脳はある程度覚醒状態にあり。

 だからこそ、視界に飛び込んで来た非現実的な光景も。つまりは我が恋人であるところの葵夜露の安心しきった天使の様な寝顔も比較的落ち着いて眺めることが出来ていた。


「……や、マジで可愛いな」


 つい声に出してしまうくらいには可愛い。それで起こしてしまわないかと心配になったが、小さく開かれた唇からは未だ寝息が漏れている。

 普段よりも幼く、あまりにも無防備な寝顔。腕の中に感じる仄かな体温は、葵がここにいることをなによりも証明してくれる。

 庇護欲のようなものが湧き上がって来て、今度めいいっぱい甘やかしてみようか、なんて考えがよぎる。あっという間にキャパオーバーして真っ赤になる葵が容易に想像出来て苦笑がしてしまった。

 艶のある長い黒髪を優しく撫でていると、葵の口から吐息と共に微かな声が漏れる。それからすぐに長い睫毛が開いて、しかし露わになった夜の瞳は焦点が合っていない。


「おはよう、葵」

「おはよ、ございましゅ……」


 蕩けた目と声でなんとか挨拶を返してくれた葵は、猫のように瞼を擦る。んぅ、と唸り声を出しながらも、まるで温もりを求める赤子のようにこちらへすり寄って来た。どうやら俺と違って、葵は朝に弱いらしい。

 部屋に掛けてある時計に目をやれば、時刻は未だ午前六時。十分早い時間だ。いつもの俺なら余裕で夢の中。それでも目が覚めてしまったのは蝉のせいなどではなく、慣れない環境故だろうか。


「まだもうちょい寝とくか?」


 その言葉に返事はなく。代わりに顔を上げた葵は、今にも瞼が落ちてしまいそうになりながらも俺を見つめる。

 やがて覚醒して来たのか、完全に焦点が合い夜の輝きを取り戻した瞳が直ぐに驚愕一色へ染まった。同時に赤くなる白い頬。


「……っ⁉︎⁉︎⁉︎」

「落ち着け落ち着け」


 口をパクパクさせながらも、声は形を成していない。朝から表情が忙しいやつだ。

 かく言う俺も、赤くなった葵を見ると昨日眠りに落ちる直前に起きた出来事を思い出してしまう。

 ある意味で葵らしい強引な行動。唇に触れた柔らかい感触。

 思い出して、触れ合った箇所に手をやったのがまずかったのだろう。

 俺のその動作をしっかり真近で見てしまった葵は、瞬間湯沸かし器宛ら耳からうなじまで見事なまでに真っ赤に染まって飛び起きた。

 それに驚いた俺も反射的に体を起こす。


「わっ、わわわ、私朝ごはんの準備してきますねっ!!!」

「あ、それなら俺も手伝う──」

「大神くんはもう少しゆっくりしてていいので! あと一時間くらいは!」


 絶叫に近い声を上げながら、葵はダッシュで部屋を出て行った。持ち前の運動神経と運動能力をフルに使ったスピードだった。サラマンダーよりずっと早い。

 そうして部屋に一人取り残された俺は、改めて、そしてより明瞭に昨日のことを思い返してしまう。


「意外と気持ちよかった、よな……」


 誰かに聞かれたら気持ち悪がられること必至な独り言を零し、今更ながら熱くなってきた頬を冷却させることに努めた。

 一時間あれば俺も葵も少しは落ち着くだろう。多分。きっと。恐らく。落ち着いてくれてるかなぁ……。






 どうやら料理どころではなかったらしい葵は、朝食に焼いたトーストと目玉焼きと簡単なものを用意してくれた。昨日の夕飯と同じく向かい合って食卓についたのだけれど、口数が少なくなったのは致し方ないことだろう。そもそも食事中はあまり会話しないのがマナーなのだし。

 朝食を食べ終えて顔も洗って昨日着ていた服に着替えたあと、俺は一度家に帰ることにした。天気予報通り雨も完全に上がっているし、二日続けて同じ服のまま働くわけにもいかないから。

 なにより、このどこかギクシャクした雰囲気をリセットしたい、という腹積もりもある。


「んじゃ、またいつもの時間にこっち戻ってくるから」

「はい」


 店の入り口ではなく、その傍にある家の玄関にて。寝巻き姿のまま見送ってくれる葵に一時の別れを告げる。

 靴を履いて向き直れば、なにかを言いたそうにしている葵が目に入る。


「どうかしたか?」

「……えっ? あ、いえ、その……」


 顔を真っ赤にして俯いてしまうその姿に、若干の既視感を覚える。何度かこんな葵を見たことがあるけれど、その時は毎度毎度妙なアプローチとか恥ずかしいことを口にする時とかで。


「ひ、引かないでくださいね……?」

「それはないから安心しろ」

「えっと、も、もう一回、したい、です……」

「なにを?」

「……」


 黙って俯き、唇に手を当てたのがなにより明確な答えだった。

 もしかして葵さん、ハマっちゃいましたか。いや、まあ、男としてはそりゃ好きなやつとは何回でもしたいけれど。でもまさか、昨日の今日でまたおねだりされるとは思わないじゃん。

 湧き上がる羞恥心をなんとか捩じ伏せて彼女の肩に手を置くと、葵はなにも言わずに上げた顔を近づかせる。

 昨日とは違う状況で、けれど昨日と同じくたっぷり十秒以上かけて触れ合わせる唇。

 彼女の腕が背中に回されて、力強く抱き締められた。熱の込もった吐息と声が、触れた箇所を伝って直接脳内に響いて甘い痺れを与えられる。

 まるで麻薬だ。一度知ってしまえば最後、この快楽から抜け出す術などない。

 離れていく感触が名残惜しい。いっそ一つに溶け合えてしまえばいいのに。そう出来ないことが悲しくて、けれどどこまでも愛おしかった。

 体調が心配になるレベルで顔を紅潮させている葵。息苦しさもその理由の一つだろう。比較対象がないから分からないけれど、多分そこらの恋人が普通にするそれよりも俺たちのは長い。

 やがて赤い顔のまま優しい笑みを浮かべた彼女は、柔らかな、それでいてどこか照れたような声で言葉を紡いだ。


「いってらっしゃい、です。し、真矢くん」

「……っ。いって、きます」


 不意打ちにぶつけられたのは、馴染みのある響きのはずなのに初めて聞く呼ばれ方。驚いて言葉に詰まってしまったものの、なんとか掠れた声を出して葵の家を出た。

 いや、呼ばれ方もそうだけど。

 いってらっしゃいって。いってきますって。そんな、まるで一緒に暮らしてるみたいな言い方。しかもなんの前触れもなく、突然に。

 いや、また戻ってくることを考えたらなんの間違えでもないんだけど。間違ってないんだけどさぁ、でもさぁ……。


「戻ってきたら、俺も名前で呼ばないとダメだよな……」


 今すぐにでもこの場で悶え転げたい衝動を抑えて、心の中で何度も彼女の名前を反芻しながらも帰路につく。

 大丈夫か俺。ちゃんと呼べるのか。あんなことがあった後で。いや、葵の方も大丈夫なのか。今頃部屋に戻ってベッドで悶えてそうだけど、ちゃんと仕事になるんだろうか。ならないだろうなぁ。

 たしか小夜子さん達が帰ってくるのは夕方って話だったはずだし、それまではなんとか頑張りたいものだけど。

 なんて考えながら歩いていると、あっという間に我が家が見えてきた。そしてその向かいに建っている一軒家から、見慣れた幼馴染の姿が。対面から歩いてきた俺を視認したのか、学校指定のジャージを着た朝陽が軽く手を挙げ歩み寄ってくる。


「よう真矢。なんか久しぶりな感じするな」

「つっても一週間ぶりくらいだろ。練習か?」

「まあな。お前は?」

「あー、俺は……」


 返答に困った。学校もないのにこんな朝早くから外で出くわすなんてことは、こいつとの長い付き合いの中でも一度もなかったのではないだろうか。

 正直に言ってしまってもいいとは思うのだが、どことなくそれは憚れる。

 しかし我が幼馴染にしてクラスの王様たるリア充は、そんな俺の反応で察してしまったらしい。


「もしかして葵の家に泊まってたのか?」

「……まあ」

「へー」


 ニヤニヤとした含みのある笑みが全身に突き刺さる。こういう反応をされるから言いたくなかったのも理由の一つだ。


「つーことは、あれか。ヤることヤッたのか」

「んなわけあるか馬鹿!」

「なんだよ、んじゃなんも進展なし?」

「……」

「お? その反応はなんかあるな? キスくらいはしたか?」

「……まだ一回も好きって言われてないけどな」


 さすがにそれは予想外だったのか、朝陽の笑顔が若干苦しいものに変わる。広瀬がこの場にいれば、容赦なく盛大なため息を零していたことだろう。

 まあ、その反応が妥当だ。


「なんか、お前ら色々と段階飛ばしすぎじゃね?」

「うるせぇ」

「まあ仲睦まじくしてるのはいいことなんだろうが」

「俺のことより、お前は最近どうなんだよ」

「俺?」


 昨日店で姉ちゃんから聞いたことを思い出した。朝陽が無理してるとかなんとか言っていたが、俺にはそう見えない。いつも通り、馬鹿な会話を馬鹿なノリで馬鹿馬鹿しく交わすだけ。

 けれど、そう見えるのはあくまでも俺の主観によるものだ。姉ちゃん自身も朝陽を直接見たわけではなく、朝陽の母親から話を聞いただけだと言っていた。

 なにより、この男はクラス内カーストトップに立つ男。普段は滅多にしないが、隠し事やポーカーフェイスなんてお手の物だろう。


「もうちょいしたら大会だろ、お前。頑張りすぎてんじゃねぇのかって、お前の母さんが心配してたらしいぞ」

「あー、マジか」

「俺も姉ちゃんから聞いた話だけどな」

「心配かけちまってたかー」


 自分の失態を悟ったように苦笑を浮かべる朝陽には、変な気負いや疲れなんてもんは微塵も見当たらない。

 いくら付き合いの長い幼馴染といえど、それよりもさらに長い時間を共に過ごしている親には敵わないのだ。だから、見たままのこいつの姿は信用できない。

 本当に無理してるのだと言うなら。それでどこかに不調をきたしていると言うのなら。俺はそれを無理矢理にでも止めさせたい。


「で、そういう風に言うってことは、やっぱなんか無理してんのか」

「そう言うんじゃねぇんだけどな」

「じゃあどう言うのだよ」

「なんつーか、最近考えることが多くてな。身体動かしてた方が楽なんだよ」


 考えること、ね。軽い口調で言ってはいるが、果たしてなにを考えているのやら。そこを口に出して追及する気はないが、おそらくは俺の予想通りのことなんだろう。


「色々頑張りすぎてる、って聞いたけど、部活だけじゃないのか?」

「まあな。一応勉強とかもしてる。部活引退したらすぐ受験モード、ってわけにもいかねぇし、今のうちからちょっとな」


 ここで一つ、違和感。

 伊能朝陽は誰もが認めるリア充の王であり、葵夜露に劣るとはいえかなりの高スペック持ちだ。その容赦も、運動神経も、頭脳も。

 それは朝陽自身も自覚していることであり、だからこそこいつは弱音を吐かない。冗談半分で口にすることはあるだろうが、それはあくまでも冗談の範疇だ。

 そんな朝陽が。まだ大会が始まってすらいないのに引退の二文字を口にする。

 頑張りすぎてるとか無理をしているとかは実際どうなのか知らないが、それは明らかな異常で、非常だ。


「……まあ、無理して体壊すようなことだけはすんなよ」

「それだけはないから安心しろよ」


 いつも通りの爽やかな笑顔でそう言って、朝陽は練習に向かった。

 確信はなにもない。ただ、違和感を覚えただけ。それもほんの些細な。俺か広瀬、もしくは朝陽の両親くらい近しい仲でないと見逃してしまいそうな。いや、俺たちですら勘違いかもしれないと疑うような。

 けれどそれでも、この時からたしかに変わりつつあったのだ。朝陽だけではなく、俺を取り巻く日常の全てが。

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