第46話 嵐の中で輝きたい
どれだけ時間が過ぎても、雨が止む気配はない。それどころか酷くなってるんじゃないかと思うくらい。テレビではニュースキャスターが外出は控えてください的なことを言っているし、社会人の皆さんが駅に取り残された様子なんかも映されていた。頑張って働いたのに家に帰ることすら許されないとは可哀想に。無事に帰宅出来ることを心の片隅で暇があれば祈っておこう。
だがしかし、俺も人の心配をしている場合ではなかった。
「ど、どうぞ……」
「おう、いただきます……」
いつも通りお店の賄いが出てきたのは、しかしいつも通りの状況ではなく。場所は店の中じゃなくて葵家のリビング。そこの食卓で向かい合って座る俺と葵。
家の中に上げさせてもらったことは勿論何度もあったけれど、まさかこんな事になるだなんて誰が予想できただろうか。ゼロシステムですら予測不能だろう。
いや、俺がちゃんと天気予報を見ていればそれで良かった話ではあるのだけど。この大雨は昨日からある程度予報されていたらしいし、その情報を葵と共有出来ていれば雨が酷くなる前に帰ることが出来た。
なんて、既に過ぎたことを考えていても仕方ない。考えるべきは、これからどうするかなのだから。
「あの、大神くん……」
「ん、どうした?」
「この後のこと、なんですけど……」
「お、おう」
顔を赤くしてそう切り出した葵に、思わず生唾を呑んでしまう。その表情がいつもよりも艶のあるように見えるのは、今の状況ゆえの錯覚だろうか。
だが、この後のことはちゃんと話し合っておかなければならない。さっき家に連絡したところ、姉ちゃんには帰ってくるなと言われたし。両親に至っては職場に泊まるらしいし。
「さっきお母さんに連絡したんですけど、着替えはお父さんのを使ってもいいって言ってました。ただ……」
「ただ?」
「その、お父さんとお母さんの部屋には絶対入れないように言われてしまって……」
「そりゃまたなんで」
「分かりません……」
なにか他人には見せられないものがあるということだろうか。まあ、小夜子さん達もこんか事態は想定していなかっただろうから、それも仕方のないことだ。そもそも恋人の両親の部屋に入るつもりなんて元から無かったのだし。
しかしそうなると、困るのは寝る場所か。この家に客間のようなものはないみたいだし、リビングのソファでも借りるしかないか。
「それから、大神くんはお客様なんだから、間違えてもリビングのソファなんかに寝かせないように、とも言われました」
見事に先回りされてんじゃねぇか。つーことはなにか、あれだな? 小夜子さんが自分たちの部屋に入るなって言ったのは、つまりはそう言うことなんだな?
「で、ですから、大神くんが嫌じゃなければ、私の部屋で……」
「嫌なわけないだろ……」
葵は最後まで言葉を発することが出来なかったが、しかしそれでも俺の返事は決まっている。ここで断ったら男が廃るってもんだ。
即答してしまったせいか、向かいに座る葵が目を瞠った。けれど直ぐ恥ずかしそうに俯いてしまい、その表情は見えなくなる。
「とりあえず飯食おうぜ」
「は、はい……」
まともにこちらを見ることが出来ない葵。だが今ばかりはそんな反応もありがたかった。
だって、彼女に負けず劣らず真っ赤になってるこんな情けない顔、見られたくないから。
夕飯を終えれば、次は風呂に入ることになる。葵が何故か頑なに譲らなかったので仕方なく一番風呂はいただいたが、他人の家の風呂はやはり落ち着かなくて終始ソワソワしてしまった。
俺は健全な男子高校生であるからして、いつもこの風呂に葵が入ってるのか、とか考えちゃったりしてソワソワがソワカソワカに変わってしまうところだった。危ない危ない。
なんだかんだで時刻は既に22時を過ぎている。なにせ一つの行動に対して要する時間が長すぎるのだ。飯を作るのは賄いだったからまだ良かったものの、飯を食うのにも、その片付けをするのにも、それから風呂に入ることになるまでも。
慣れないこの状況のせいだとは分かっているものの、それが分かったところでどうにかなる筈もない。
今は葵が風呂から上がるのを待っているけれど、果たして彼女が戻ってきてからどうしたらいいのか全く分からない。寝るにはまだ早い時間だし、受験生らしく勉強をしようにもそんな心の余裕はないし、雑談をしようとすれば確実に話題選びに困ってしまう。
ていうか、葵の部屋に来客用の布団とかちゃんと置いてあるんだろうか。広瀬なり柏木なりの友人達が泊まりに来た時用に、とかで置いてあればいいのだけれど、もしそれがなかったらちょっとヤバいことになる。なにがヤバいってマジでヤバい。寧ろパナい。健全な男子高校生を舐めるなよ。今日一日まともに寝れる気がしないからな。
なんて思考で現実逃避が出来るわけもなく。無情にも時間は過ぎ去り、リビングの扉が開く音が聞こえた。
そちらに振り返ってみればそこにいたのは勿論葵で。
「お、おまたせしました……」
初めて見る寝巻き姿の恋人は、想像を絶する可愛さを誇っていた。
少し湿っている長い黒髪は無造作に広げられ、いつも見ているそれよりも纏まりがない。その名の通り夜の露を思わせる。寝巻きは夏用なのか、かなりの薄着だ。そこから伸びる長い手足や、いつも見ている服よりも薄いが故に分かってしまうボディラインは驚くほどに細い。普段よりも幼く見える顔は、化粧を落としたからだろうか。その頬が赤くなっているのは、風呂上がりで火照っているだけが理由ではないのだろう。
日常故の非日常。そんな姿に見入ってしまった。魅入ってしまった。
葵夜露という女の子が持つ魅力に、どこまでも落ちてしまう。
「あの、あまり見られると、恥ずかしいです……」
「わ、悪い……」
震えた声で言われて、咄嗟に目を逸らす。しかし向こうからはチラチラと視線を感じるのだから、恐らくは葵も似たような心境なのだろう。
俺だって彼女と同じで一応は風呂上がり。そんな姿、これまで見せる機会なんて一度もなかったから。
しかし、こんな美少女と一つ屋根の下で夜を過ごすのか。大丈夫なのか俺。理性蒸発したりしないだろうな。
煩く鳴り続ける心臓を抑えるためにも小さく深呼吸してから、再び葵に視線を向ける。
視線が合うと、葵は小さくはにかんだ。うーん可愛い。五千兆点。
「部屋に行きませんか? ここにいても特にやることはないですし」
「ん、そうだな」
葵も少し落ち着いたのか、その声にさっきまでのような震えはない。促されるがままにリビングの電気を消して部屋へ向かう葵に続いて廊下を歩く。
廊下も電気がついているとはいえ、外から聞こえてくる雨風の音と俺たち以外に人気のないせいで少し不気味さを覚えてしまう。
それは前を行く彼女も同じだったのだろうか。突然隣に並んだかと思えば、拝借して着させてもらってる勇人さんの服の裾を小さな手が控えめに摘む。
俯いてしまっているその姿があまりにいじらしくて、愛おしくて。微苦笑を漏らしながらもその手を取った。
掻き消えてしまいそうなか細い声が僅かに聞こえた後、掴んだ手が俺の手を握り返してくれる。
そのまま歩いて辿り着いた葵の部屋。流石に中に入ると手は離した。改めて部屋を眺めてみれば、来客用の布団をしまっていそうな場所は見当たらない。半ば予想通りではあるものの、それが嬉しいような残念なような。
「少し早いですけど、もうベッドに入っちゃいますか?」
「あー、一応聞いとくけど、ベッドとは別に布団とかは……」
「……」
真っ赤な顔で沈黙したのが、なによりの答えだった。漏れそうになるため息をなんとか呑み込んで、なにも言わずに消灯した後ベッドに入った葵に続く。
出来るだけ距離は開けて、ギリギリ際に寄るように。それでもすぐそこから彼女の息遣いが聞こえ、触れてもいないのにその体温を感じているかのように錯覚してしまう。当然だ。どれだけ距離を取ろうとしても、所詮はシングルベッド。二人で寝るようには出来ていないのだから。
自然と背を向けて横になってしまったが、これくらいは勘弁願いたい。さもないと何かの拍子に間違いが起きてしまうかもしれないのだから。いや、俺たちが恋仲である以上、それは間違いでもなんでもないのだけれど。
不意に、もぞもぞと身動ぎする気配が背中越しに感じられた。それから、柔らかいなにかが押し付けられる感触。僅かに空いていた距離がゼロになったのだとすぐに気づいた。
そういえば女子は寝るときブラジャーしないとか聞いたことあるけどそれって本当なんですかどうなんですか私気になります!
「大神くんは、ズルいです……」
爆発しそうな心臓をなんとか鎮めようとしていれば、予想外の言葉が耳に飛び込んで来る。
そう言われるようなことはなにもしていない筈なのだけど、果たして葵は俺のなにを見てズルいと評したのだろう。
「なんだか、私ばかり今の状況を意識してるみたいで……大神くんはなんとも思っていないみたいに冷静で……ズルいです……」
少しばかり拗ねたような口調は子供のようだ。それが可愛く思うけど、しかし。さすがに俺も反論したかった。
「あのな……なんとも思ってないわけないだろ」
なんとか寝返りを打って、葵と向き合う。突然の行動に葵は驚いて目を瞠っていたが、それに構わず彼女の手を取り、自分の胸に押し当てた。
そうしたら、分かってくれる筈だ。俺がどれだけこの状況を意識しているのか。緊張しているのか。
「あっ……」
「こんだけドキドキしてるんだよ。好きな相手と同じベッドで寝てて、なんとも思わないわけないだろ。全くこれっぽっちも余裕がない。正直、気を抜いたらお前のこと襲うかもしれないぞ」
「あ、あう……」
暗闇の中でも分かるくらいに顔を赤くして、あうあうしか言わなくなってしまった葵。どうやらあまりにも正直に言いすぎて許容量を超えてしまったらしい。完全にオーバーヒートしている。
俺自身も、口に出してからとんでもないことを言ってしまったと自覚した。襲うかもしれないとか、恋人同士とはいえさすがにセクハラ扱いされても文句は言えない。なにより羞恥心が遅れてやって来て、今すぐにまた背中を向けたくなる。
けれど、それはしたくなかった。から、代わりに葵の華奢な身体を抱き寄せた。それからちょっと無理矢理体を動かし、ちゃんとベッドの中心に移動する。
「大神くん……」
外から聞こえる雨風の音に負けてしまいそうな程のか弱い声は、けれど甘く艶やかな色を帯びて俺の中へと溶けていく。
腕の中から見上げて来る濡れた瞳は、暗闇の中でも輝いて見えた。星々が浮かぶ夜の煌めきを写したような瞳が、俺を捉えて離さない。
「私、大神くんになら、いいですよ……」
熱に浮かされたようなどこか地に足のつかない声は、俺から理性を削り取る。
外の雨音はいつの間にか聞こえなくなり、ただ目の前の恋人が漏らす息遣いだけが耳に届く。半ば無意識のうちに伸ばしていた右手を、朱に染まった柔らかい頬に添えた。
湿り気を帯びた吐息が首筋にかかる。理性の糸が焼き切れる音が、自分の内側から聞こえる。右手で長い髪を掻き分けると、葵は擽ったそうに目を細める。
なによりも、誰よりも愛おしい。
そんな風に思える相手は、この短い人生で初めてだった。
だから、大切にしたい。
他のなにを差し置いても、この子のことを。
そんな想いを込めて、白く綺麗な額に小さく口づけを落とした。
「……今はこれで我慢してくれ」
なんとか絞り出した声は掠れてしまって、自分でも聞き取りにくいほどだった。
これ以上は、さすがにダメだ。理性が持たない。本当に襲ってしまいかねない。
けれど腕の中で発せられたのは、そんな俺のなけなしの勇気をフイにするもので。
「嫌です」
その言葉の意味を尋ねるよりも前に、葵の顔が近づいて来て。抵抗することすら許されず、あっさりと。
唇を奪われてしまった。
「……っ」
「んっ、ふ……」
触れ合っていたのは十秒くらいか、もしくはもっと長かったか。
あまりにも予想外の出来事で茫然自失になる中、今にも泣き出してしまいそうな。けれど、とても幸せそうな笑顔が視界に映る。
「ちゃんと、
我を取り戻してすぐ、溢れんばかりの愛おしさが胸に込み上げてきた。
言葉にするだけでは足りない。そんなものじゃ、俺の抱く熱を伝えられない。それでも、それ以外に伝える術を持たないから。
どうしようもないもどかしさを抱えながら、口にするのだ。
「お前のこと、めちゃくちゃ好きだ」
「私も、です」
やっぱり、此の期に及んでもまだ。葵の口から同じ言葉を引き出すことは出来ないか。
でも、今はそれでいい。それがいい。
言葉にせずとも伝わってくるから。彼女の熱と、想いが。
なにより、このタイミングで聞いてしまったら、今度こそ本当に我慢出来なくなってしまう。
この世で最も愛おしい存在を腕に抱きながら、俺は知らぬ間に眠りへと落ちていた。
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