第45話 雨は夜更け過ぎに
その日は、朝から雨が降っていた。
とは言ってもかなりの小雨で、天気予報をろくに確認していなかった俺はどうせそのうち止むだろうと楽観的な気持ちで家を出たのだが、これを後悔するのはもう少し後のこと。
僅かとはいえ雨が降っていれば、客入りも少なくなってしまう。駅から近いわけでもないのだから当然か。
そんな今日は土曜日。事前に言われていた通り、小夜子さんと勇人さんがいなくて、俺と葵の二人だけで店を開けている。
そもそもが客もいないのだから、これと言った問題が起きているわけでもなく。せっかく練習した料理も、振る舞う機会はないだろう。小雨とは言え、雨の中やって来るのなんてよほどの物好きくらいだ。
しかしながら残念なことに、どうやらその物好きとやらが存在してしまっていたようで。
「いらっしゃいま……」
「やっほー真矢。ちゃんと働いてるー?」
「帰れ」
姉である。俺が生まれたその時から俺の姉として存在している大神加奈である。明るい茶色に染めていた髪はどうやら完全に色を落としたのか、母親と同じ栗色をしている。しかし目の色は俺たちと違い、完全な黒。遺伝子の不思議だ。
そういえば、土曜日に俺のバイト先に行くなんて話をしていたか。今日は母親が仕事だからてっきり来ないもんだと思っていたが、この雨の中やってくるなんて物好きというよりも暇人らしい。
「ちょっとー、私はお客さんなんだから、そんな物言いはないんじゃないのー?」
「うるせぇなにしに来やがった帰れ」
とか言いつつもちゃんと水を持って行ってあげる俺マジツンデレ。誰得だよ。実の姉にツンデレ発揮してどうすんだ。
「そう言えば夜露ちゃんは?」
「今奥にいる。呼んでこようか?」
「じゃあよろしく」
「その間に注文決めとけよ。因みにオススメはオムライス。葵がケチャップで好きな言葉描いてくれる」
「嘘ホントに?」
「嘘に決まってんだろ。ここはメイド喫茶じゃねぇよ」
本気で残念がっている声を背に受けながら、厨房の奥で食材のチェックをしている葵を呼びに行く。出来ればそれも手伝ってやりたかったのだけど、さすがに二人して奥に引っ込むのはまずい。
「葵ー、客来たぞー」
「あ、はい。今行きますー!」
返事に続いて、ドンガラガッシャンとなにかが崩れるような音が聞こえた。大丈夫かあいつ。なんか不安になって来たんだけど。いや、食材のチェックしてるだけなんだからそんな大したことは起きないと思うが……。
「すみません、お待たせしました」
「なんか、変な音聞こえたけど大丈夫か?」
「へ? あ、あー、大丈夫です大丈夫です。大丈夫ですから、今はお仕事に戻りましょう!」
なんか隠してる感じはするものの、まあ言いたくないのなら無理に聞き出す必要もないか。
二人で表に戻れば、座っている姉ちゃんを視認した葵がパッと顔を輝かせてテクテクと歩み寄った。
「加奈さん! お久しぶりです!」
「夜露ちゃん久しぶりー。元気してた? うちの愚弟が迷惑かけてないー?」
「迷惑なんてそんな! 大神くんにはいつも助けてもらってますから」
「そう? なら良かった」
「あ、ご注文はなににしますか?」
「オムライスがオススメって聞いたから、それにしようかな」
「かしこまりました!」
注文を受けて厨房に戻ってくる葵。いつの間にうちの姉とあんな仲良くなったのか。俺が知る限り、直接会うのはまだ三回目のはずなのに。
まあ姉と恋人が仲良くしてるのはいいことだ。そもそも葵の性格的に、姉ちゃんが嫌うなんてあり得ないだろうし。
「今日は二人だけ?」
「おう。葵の両親は今日明日と出張みたいなもんに行ってる」
「なんだ残念。お母さんの代わりに挨拶しとこうと思ったのにー」
「頼むからやめてくれよ……」
葵が調理してる姿を二人で見守りながら、家にいる時とそう大差ないテンションで会話を交わす。
うちの姉は基本的にテンションが高い。間延びした声とふわふわした雰囲気で若干緩和されてる感じは否めないものの、その実かなりの愉快犯であるし、悪く言えば落ち着きがないのだ。
俺たち幼馴染三人組がガキの頃、どれだけ被害に遭ってきたか。そんなんだから未だに恋人の一人も出来ないんだろう。
「ところで真矢。最近朝陽とは会った?」
「先週店に来てたけど、なんでまた」
「んー、この前朝陽のお母さんに会ったんだけどね。なんでも、最近頑張りすぎてて心配なんだってー」
「部活を?」
「それも含めて色々、って言ってた」
朝陽の所属するバスケ部は、来週から東京で開かれる全国大会に出場する。だから頑張ってるのはなにも不思議なことではないし、俺たち周りが止められるものでもないけれど。
頑張りすぎてる、というのはどういうことだろう。それもバスケだけじゃなく、他にも色々と。その色々というのが気になるが、今それを知る術はない。
だがよく考えてみると、あの幼馴染と一週間も会っていないというのはおかしな話だ。俺がバイトを始めたことを抜きにしても、朝陽はしょっちゅううちに来ていた。去年の夏休みだってあいつは練習終わりに遊びに来て、一緒にゲームしてリアル大乱闘に発展しそうになったことも何度かある。なにより、先日店に来た広瀬は朝陽のことについてなにも言っていなかった。
幼馴染ではなく親戚であるあいつなら、もしくはなにか知っているのかも知れないけれど。それよりも。
去年までと今年の違いといえば、あいつにとって最後の大会があることと、もう一つ。
葵夜露の存在だ。
「今度会ったら俺からも言っとく。まあ、その頃にはいつも通りに戻ってるかもだけど」
それが大会が近いせいだと言うのなら、心配も全て杞憂に終わってくれるのだ。そうでなかったなら、その時にまた考えればいい。
それで会話を締めると、厨房の方にいる葵に呼ばれた。どうやら料理が出来たらしい。それを姉ちゃんのとこまで運ぶ。
「ほれ、お待たせ」
「あら美味しそう」
「実際美味いぞ」
いただきます、と手を合わせた後、スプーンを卵に差し入れる。途端、中から半熟の卵が湯気を立てながらドロっと漏れ出た。
実際に自分でもこの店のメニューを作るようになってからわかったが、こう言った技術は素直に感嘆する他ない。ハンバーグやパスタ程度なら俺でも難なく作れるが、このオムライスのような一定の技術が必要とされるものはてんでダメだ。
スプーンですくった卵とチキンライスを口に運ぶ姉ちゃんは、我が姉ながら実に可愛らしくも美味しそうにオムライスを頬張る。
「んー、美味しー!」
「ありがとうございます」
厨房から出てきた葵が微笑を浮かべながら感想に答える。姉の表情もいいものだが、葵の方も本当に嬉しそうにしている。やはり、自分の作った料理が褒められるのは誰でも嬉しいらしい。
葵の将来の夢を考えれば、その喜びは俺が思っている以上のものかもしれない。
「さっきのお話、ちょっと聞こえてきたんですけど、伊能くんがどうかしたんですか?」
オムライスを小動物のように頬張る姉を見ながら、葵が問いかけてきた。どうやら友人のことが心配らしい。付き合いの長さだけで言えば四月にちゃんと知り合った俺よりも長いので、当然っちゃ当然か。
「朝陽が最近色々と頑張りすぎてるって話」
「頑張りすぎてる? 大会が近いからですか?」
「だと思うんだけどなぁ……」
やはり葵も同じ結論に達するか。ていうか、普通はそれ以外に考えられない。これは本人にそれとなく探りを入れるか、広瀬にも聞いてみるかしないとダメだな。
それで簡単にボロが出ればいいのだけど、あの幼馴染に限ってそれはないだろう。
「先週お店に来てくれた時は、なんともなさそうに見えましたけど……」
「俺もそれ以降会ってないから、今はなんとも言えん」
「……もしかして、恋の悩みとか?」
「は?」
まさか葵の口からそんなセリフが出てくるとは思わず、つい驚いて目を瞠った。
何故そんな考えに至ったのかと軽く思考して、そういえば以前、朝陽が自分の口からそんなことを言っていたのを思い出す。
朝陽が告白されているところに遭遇してしまった俺と葵に、あいつが確かに言っていた。そして葵は、それを真実とは違う受け取り方をしてしまったのだ。
「やっぱりそうですよ! きっと凪ちゃんと何かあったんです!」
「いや、それはどうだろう……」
「なになに、コイバナ?」
そして面倒なことに、面倒なやつがここに一人。
姉ちゃんは当然、俺たち四人の関係なんて知らない。ただの幼馴染、友人、親戚、恋人として認識している。そこに込められた複雑すぎる矢印なんて、姉ちゃんが知るはずもないのだ。
「違う、なんでもない。姉ちゃんはさっさと食ってさっさと帰れ頼むから」
「朝陽に恋の悩みがあるなんて聞かされて、素直に帰れるわけないじゃんかー」
「違うから。恋の悩みとかじゃないから」
「でも、部活関係が違うんだったら、それしかないと思いますよ?」
「間違いなく大会が近いせい。それ以外にありえない」
変に強引すぎたからか、葵も姉ちゃんも首を傾げながらも引き下がってくれた。これ以上この話を掘り下げるのはよくない。主に俺の胃に対して。
せっかく色々と安定して来たのだから、わざわざそれを崩す必要もないだろう。
世の中、知らない方がいいことだってあるのだから。
姉ちゃんはオムライスを食べ終わると、案外素直にさっさと帰ってくれた。姉ちゃん以外に客も来なかったし、俺の働きっぷりを見れないと悟ってくれたのだろう。
それからしばらく、やはり客が来ることもなく、外で降りしきる雨の音を聞きながら時間だけが過ぎていく。
そんな中、葵がポツリと呟いた。
「やっぱり、恋の悩みだと思います」
「ん?」
「伊能くんのことです」
話が二時間くらい前に戻ったらしい。だと思う、なんて言い方をしているものの、その目には確信に近い何かがあるようだった。
実際、俺だって大会云々よりもそっちの方が可能性としては高いように思える。
が、しかし。それは葵が思っているようなものではなく、もっとドロドロとした醜い感情を基としたものだ。
「ほら、凪ちゃんって伊能くんのこと好きじゃないですか」
「まあ、そうだな」
葵とその話はしたことなかったと思うんだけど、俺が知ってるのは前提で話を進めるのね。これで俺は知らなかったらどうしてたのか。この辺りの無鉄砲さと言うか、考えの足りなさは葵の欠点と言える。
「それで、伊能くんにも好きな人がいて、今のところ可能性が一番高い相手は凪ちゃんだと思うんですよ」
おっと雲行きが怪しくなって来たぞ?
「いや、でもあの二人はあれで一応親戚だぞ?」
「恋の前にはそんなもの関係ないんです!」
「お、おう……」
「だから私、凪ちゃんのことを応援というか、サポートしようと思うんですよ!」
「おう…………いやちょっと待て」
あまりにも強い声で言うので、思わず納得しかけてしまった。だが流石にそれはまずい。何がまずいって、向いてる矢印の方向故に広瀬があまりにも可哀想だし、それを見守る俺の胃がマッハ。
「ちょっと待とうな。こういうのって、変に周りがちょっかいかけるよりも当人達に任せてた方がいいと思うんだよ」
「でも、凪ちゃんは私のこと色々と助けてくれましたよ?」
「まあ、ほら、葵の場合は、な?」
「うっ……まあ、その通りですけど……」
自覚があるようで大変結構。
本来人の恋路なんて無闇矢鱈に首を突っ込むもんじゃない。その先に待ってるのは碌でもない未来なのだから。
葵夜露の場合は例外だ。周りが首を突っ込まなければならないほど、彼女はヘタレだった。その首を突っ込む人選を間違ってしまった結果、今の状況があるのだけど。
「で、でもっ! だからこそですね! 凪ちゃんに恩返ししたいと言います、か……」
言葉尻に向かうに従って、だんだんと語気が弱くなる。俺の言い分にも一定の理解を示してくれたのかと思いきや、どうやらそういうわけでもないらしく。
ピクンと耳を震わせた葵は、その視線を店の扉、その外へと向けている。はてどうしたのかと俺もそちらに目をやり耳を澄ませば。
「雨、強くなってませんか……?」
「だな……」
恐る恐る口を開いた葵に同意せざるを得ない。先ほどまで弱々しく聞こえていた雨音は、今となっては店の扉を強く叩く音までも聞こえて来ている。
扉に近づき、試しにそこを開けてみれば。
「うおっ!」
「きゃっ!」
とんでもない雨風が店内に侵入してきた。その一瞬だけで入り口付近はびしょ濡れに。ついでに俺と葵の体も若干濡れた。
これはマズイ。いつまでこの強い雨が続くのかは分からないけれど、もしかしたら家に帰れないレベルかもしれない。
「葵、テレビ確認」
「は、はいっ」
家の方に戻ってリビングのテレビをつけると、どのチャンネルにも気象庁から大雨・洪水警報の情報が流れている。当然、俺たちの住んでるこの街の名前もそこにあった。
「えっと、どうしましょう……?」
「とりあえず、店は閉めるしかないな。そんで、雨が収まったのを見計らって」
「この雨、夜中まで続くみたいですね……」
「……」
詰んだ。
いや、ここから家までかなり近いのだから、無理すれば帰れないことはないのだけれど。冗談でもなんでもなく命の危機が訪れる。そんなところに嬉々として飛び込むほど馬鹿ではない。
小夜子さんと勇人さんには事情を説明して店を早めに閉めた旨は伝えるとして、さてでは俺はどうしようかと思考を巡らせていた、その時。
「……あの、大神くんさえよければ、ですけど……今日は泊まっていきますか……?」
天気予報を見ていなかった後悔と、思わぬ棚ぼたの板挟みにあった俺は、どれくらい複雑な表情をしていただろうか。
鏡で確認してみたかった。
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