第34話 差し伸べたこの手を

 捻挫による足首の痛みも引いてきて、体育の授業も普通に受けられるくらいには回復した月曜日。俺は久しぶりに、昼休みの屋上へと足を運んでいた。

 天気は快晴。イラつく程に存在を主張する太陽。真っ青な空には一筋の飛行機雲。熱中症とか日射病の対策も考えた方がいいだろうか。まあ、暑さがピークの時には夏休みなのだし、ここに来ることもない。


「いい天気だなー……」

「ふふっ、そうですね」


 夏服に身を包んだ葵が、フェンスに背中を預けた俺の言葉に微笑みを漏らす。

 とても穏やかで、ゆっくりと流れる時間。

 下に広がっているグラウンドからは生徒達のはしゃぎ声が聞こえる。昼休みも惜しまず練習しているのか、どこからか吹奏楽部の楽器の音も聞こえてきた。どちらもこの暑い中、よくもまあそんな元気があるものだ。


「平和だなー……」

「先週は、色々大変でしたからね」


 坂上達との一件を思い出したのか、葵の笑みが苦いものに変わる。俺の場合はそれ以外にも、色々と考えることがあったのだけど。それを葵に言う必要はないだろう。

 実際今は、その色々とやらを全部投げ出してしまっているくらいに平和な時間を過ごしている。土曜日に一つの解を得た俺ではあるが、それで全てを解決できるわけでもなく。だからこのように、たまには息抜きの時間も必要だ。俺だって好き好んで泥沼の中に浸っていたいわけではないのだから。


「そういや葵、それ暑くないのか?」

「はい?」

「いや、夏服の上からセーター着てんじゃん」

「ああ、これですか……」


 週が明けて登校すれば、ほとんどの生徒が夏服へと移行していた。こんなに暑いのだから当然だとは思うけれど、女子の中には何人かセーターを着ている者も見かける。どうやら、冬服のセーターとは別の薄いやつ、いわゆるサマーセーター的な感じらしいが。それでも暑くないのだろうか。


「ほら、この時期だとやっぱり、汗とか掻いちゃうじゃないですか? それでブラウスが透けちゃったらダメなので……」

「あー、なるほどね……」


 葵は恥ずかしげに頬を薄く染め、苦笑のままで教えてくれた。

 聞いちゃダメな類のやつだったのね……己の無知が恥ずかしい……一歩間違えたらセクハラだぞ……。


「あとは、体のラインとか分かりにくくするために着てる人もいるんじゃないでしょうか。凪ちゃんはそんなこと言ってた気がします」

「うん、それも納得だわ」


 何がとは言わないが、広瀬は大きい。何がとは言わないが。冬服だとブレザーも着ているから分かりにくいが、夏服のブラウス一枚だと顕著になるだろう。そして集まる男子の視線。

 男子高校生なんて大抵が卑猥なことしか考えていないのだから、女子からしたらそう言った自衛も必要ということか。


「私はあんまり隠す必要ないんですけどね……」

「お、おう……」


 口角は上がっているものの、目は笑っていなかった。思わず頬が引きつってしまいながらも、視線がそこへ吸い寄せられるのはもはや自然の摂理のようなもので。

 小さい、わけではないと思う。普通に平均的な大きさだろう。四月のとあるハプニングで、というか葵の奇行でそれは確認済みだ。

 そもそも比べる相手が間違っている。広瀬じゃなくても、もうちょい他にいるだろ。ほら、柏木とか。

 教室で見た柏木の姿を思い返してみると、あいつもセーターは着ていなかった。あと、葵ほどの山もなかった。多分谷もない。悲しいねバナージ……。


「そっ、それよりですね!」

「ん?」


 あまり続けたい話題でもなかったのだろう。気を取り直すように元気な声を上げる葵。まあ、俺としてもこの話を続けられるのは困るのだが。なんて声かけたらいいか分からんし。これ以上は誰も幸せになれず悲しみを背負うだけ。ついでに柏木にもとばっちりが。


「土曜日の時の話なんですけど……」

「もしかして、お前のお父さんがなんか言ってたか?」

「いえ、そうじゃなくて……」


 勇人さんから何か言われたわけではなさそうだ。土曜日のあの様子だと、嫌われたわけでもなさそうだったし。気に入られたのかは分からないところだが。

 では小夜子さんから何か言われたか? いや、あの人は割と俺たちのやり取り見てるし今更か。

 もしくは、土曜日の料理の感想を聞きたいとか。一応美味しいって伝えてるけど、それだけだと不満だったりするのだろうか。

 が、しかし。葵が言いたいのはそのどれでもないらしく。


「その、みんながいる時にああいうことを言われるのは、少し困ります……」


 頬を赤らめた葵の言葉は、下から聞こえてくる喧騒にすら掻き消されてしまいそうで。しかし俺の耳にはしっかり届いてしまったし、土曜日のナンパ野郎みたいな小っ恥ずかしい発言も思い出してしまった。


「その、なんだ、悪かったな……」

「い、いえっ、その、嫌というわけではないんですよ! むしろ嬉しかったと言いますか……できれば、その、あまり人がいない時に、二人きりの時とかに、言ってくれたら……」

「そうか……」

「はい……」


 それきり俺も葵も口を開かず、二人の間に沈黙が降りる。聞こえるのはグラウンドで騒いでる生徒達の声のみ。吹奏楽部の演奏は、いつの間にか止んでいた。

 そもそも、土曜日の俺はなんだってあんな失言をかましてしまったのか。あんな事をシラフで言うやつは余程のクール気取りでキザなナンパ野郎くらいのものだろうに。

 まひるさんと会った後だからって、彼女の両親の前で言うようなセリフではなかった。

 この沈黙を破るためにもなにか言おうとして、しかし言葉は中々見つからない。開いた口は意味もなく吐息を漏らすのみだ。

 二人きりの時に、ってことは。

 今、似たようなセリフを口にすれば、お前は喜んでくれるんだろうか。

 あの言葉を伝えれば、どんな反応をしてくれるんだろうか。

 なんて、そんなこと出来るわけもないのだが。素直になれないのは葵だけじゃなくて、俺も同じだ。

 やがて静寂を打ち破ったのは昼休みに終了の予鈴。時間切れによりこの場は強制的にお開き。


「教室、戻るか」


 先に立ち上がり、座り込んだままの葵に手を差し伸べた。葵はボーッと俺の手を見つめるだけで、動き出す気配がない。

 こうして手を伸ばすことを、あの人が卒業する時には出来なかった。そうした時には既に遅くて、掴んでくれることも叶わなかった。


「はい。戻りましょうか」

「ん」


 けれど今は、差し伸ばしたこの手を掴んでくれるやつがいる。

 俺の手に自分の手をそっと添えた葵は、未だ頬の赤みが抜けきっていないが、それでも嬉しそうな微笑を携えていて。

 立ち上がった葵から手を離し、敷いていたレジャーシートを片付ける。なるべく彼女の方に顔を向けないように。


「えへへ……」


 小さく聞こえてきただらしない笑みは、聞かなかったことにしておこう。








 一週間のうちで最も怠い月曜日の授業も終えて、いつものように葵と帰宅した夜。俺は姉にパシらされ、近くのコンビニに出向いていた。

 急にアイスが食べたいとか抜かしやがった馬鹿な姉とじゃんけんと言う名の死闘を繰り広げた結果、見事に一発KOを貰ってしまったのだ。俺の分も買っていいと言われて金は多目に貰ったからいいものの、既に21時を過ぎてるのに高校生を外出させるのは大人としてどうなのか。

 最寄りのコンビニは家から5分ほど歩いたところにある。そこで姉がご所望のアイスと、俺用のダッツを買ってコンビニを出た。どうせこの金は俺の懐に入らないのだから、出来る限り高い買い物をしてやった。帰った後が怖いぜ。

 さて帰ろうかと街灯が照らす暗い夜道に一歩足を踏み出したその時。


「あれ、真矢じゃん」

「おう朝陽。ランニングか?」

「まあな」


 背後からジャージ姿の幼馴染が現れた。汗だくの朝陽は腕で軽く頭を拭って、ちょっと待っててくれと言い残しコンビニの中へ。

 暫くしてから戻ってきた彼の手には、ペットボトルのスポーツドリンクが握られていた。


「こんな暑いのによく頑張るな」

「ま、最後の大会も見えてきてるしな。やれるだけのことはやっときたいんだよ」


 自然と隣り合って、家までの道を歩く。こいつの家と俺の家はお向かいさんだから、帰り道も同じだ。

 歩きながらペットボトルの蓋を開いた朝陽は、豪快にスポドリを一気飲み。一度に半分以上飲むのはさすがにどうなんだよ。


「真矢は?」

「姉ちゃんのパシリ」

「ああ、加奈さんの」

「いきなりアイス食いたいとか言い出したから、優しい弟がパシられてやったんだよ」


 袋の中を朝陽に見せると、ダッツ買ってんじゃねぇか、と笑われた。誰の金で買った誰のアイスか、こいつも分かってるんだろう。伊達に付き合いが長くない。


「帰ったら加奈さんに怒られるぞ、お前」

「買ってから後悔したな。なんならダッツも取られるかも」


 ククッ、と喉を鳴らす爽やかイケメン幼馴染。こいつが女子に向かって可愛いだとかなんだとか言っても、ただただ様になるだけなんだろうなぁ、とか益体のないことを考える。

 まあ、こいつはそんな言葉を安売りするやつじゃないが。


「そういえば、土曜にまひるさんとこ行ってきた」

「お、あの人元気してたか?」

「相変わらず元気に減らず口叩いてたよ」

「そりゃ良かった」

「良くねぇよ。入院生活でちょっとはあの口の悪さもマシになると思ったら、余計酷くなってんだからな」

「ストレス溜まってるんだろ。真矢は差し詰め、ストレス発散のためのサンドバッグってか」

「仮にも告白した相手にサンドバッグ扱いは俺でも傷つくぞ」

「だろうな」


 朝陽は愉快そうに笑っているが、こちらとしては堪ったもんじゃない。あの人がそれでストレス発散になるというのならギリギリ許せるが、実際には単純に面白がっているだけだろう。

 なんて思いつつも、やっぱりそれをやめさせようとは思わないのだが。


「で? どうせまひるさんに葵のこと話してきたんだろ?」

「……まあな」

「なんて言われた?」

「いつまでもウジウジ悩んでんじゃねぇよヘタレ野郎。だってよ」

「それまた手厳しいな。地味に俺にも刺さるわ、それ」


 いや、朝陽だけじゃなく、広瀬や葵にもクリティカルヒットすると思うんだが。それは言わぬが花か。

 しかし四人全員その一言で片付けられるんだから、現状の俺たちは揃いも揃ってなんと情けないのだろうか。まひるさんが実際にその目で見たら、とんでもない酷評が飛び出しそうだ。


「あと、そのうち葵も連れてこいって言われたよ。俺的にはあんまし会わせたくないんだけどな」

「あー、まあ、相性が良さそうとは言えないよなぁ……」

「でもまひるさんの言うことには逆らえんからなぁ……」


 はぁ、と二人揃ってため息。そうこうしているうちに、さほど距離が離れていない自宅にたどり着いた。


「まあ、そん時はお前らも来てくれよ。多分夏休みの話になると思うけどな」

「おう。俺と凪も最近会いに行ってなかったからな。また声かけてくれ」

「んじゃ、また明日な」

「……ああ、ちょっと待ってくれ」


 家の門扉を開けたところで、朝陽に声をかけられる。改めて振り返った先の幼馴染は、いつもの通り爽やかな笑顔を浮かべていて。

 たしかに、ハッキリと。こう告げた。


「俺、葵の誕生日に告白する」

「ダメだ」

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