第33話 好きと憧れは違うから

 あれから他愛ない雑談をいくつか交わし、空が茜色に染まってきたところで病院を出た。まひるさんとの会話は楽しいものではあるけれど、俺のメンタルがゴリゴリ削れていくからいけない。まあ、あの人が楽しいのならそれでいいのだが。なんて風に許容してしまっているから、あの人は余計につけあがるのだろうけど。

 さて。病院を出て地元に帰って来た頃には、空は薄い紫に覆われていた。昼食を摂らずにまひるさんと話していたから、今にも腹の虫が鳴きだしそうだ。こんな日は葵の店に限る。

 スマホで時間を確認する。母親にはさっき連絡して晩御飯は食べて来ると言っているから、さっさと向かおう。

 駅から歩いて向かってる最中、そう言えば葵の父親には会ったことがないと思った。

 お母さんの方なら、店に行った時たまに会う上に一度はタダで夕飯をご馳走してくれたことがあれど、しかしお父さんの方は見たことがない。一応夫婦二人で経営している、とは聞いているから、母子家庭なんてこともないだろうし。もし今日も会わなかったら、来週の誕生日会が初顔合わせとなるわけだが。

 果たして一体どんな人物なのだろうか。葵本人は穏やかで優しい性格の持ち主。一方葵のお母さんは割とサバサバした性格で、娘とは正反対だ。ではお父さんは?

 結構厳格な人とかだったらどうしよう。お前のような男に娘はやれん、とか言われたり。いや、今のところ貰うつもりはないんですけども。

 なんて考えているうちに、店の前まで到着してしまった。今日会えようが会えなかろうが、結局は来週の金曜、葵の誕生日会の時に会うのは確定しているのだから、どれだけ想像を巡らせても意味のないこと。

 思考を切り捨て、店の扉を開いた。


「いらっしゃいませー! って、あら。大神くんじゃない」

「どうも」


 珍しく繁盛している店内では、葵のお母さんが忙しなく動き回っていた。両手に皿を持って、それを近くの席へ運んでいく。

 つーか、今日の俺はいつもここに来る時みたいに野暮ったい前髪とメガネはないはずなのだが、なぜ葵のお母さんは気づいたのだろう。この格好で来たことはなかったはずだが。


「ごめんなさいね、今日はちょっと忙しくて。カウンター席なら空いてるから、好きなところに座って頂戴」

「はい」


 店内を見渡せばテーブル席は殆どが埋まっていて、恐らくだが客の殆どはこの辺の住宅街の住人だろう。主婦友達と思わしき女性二人組に、子供を連れた若い夫婦、同年代くらいの男女まで。特に女性の、主婦の方々が多く思える。少なくとも、仕事帰りのサラリーマンみたいな人は見当たらない。

 言われた通り空いてたカウンター席に腰を下ろす。ここから見える厨房の中では、一人の男性が調理に勤しんでいた。

 はて、こんな人今までいただろうか。見た感じ20代くらいだが、アルバイトで雇ってるとか?

 まあいい。今の俺は腹が減ってるのだ。一々店員さんに気を取られている暇はない。手に取ったメニューに視線を落とし、さて何を食べようかと思案する。せっかくなら食べたことのないメニューを頼んでみようか。ここの料理はなにを食べても美味しい上に、千円あれば腹一杯になれるリーズナブルさ。全国展開してしまえば瞬く間にサイゼを抜き去ってしまうだろう。

 しかしメニューを眺めているうちに気づいた。この店の料理、もう大体のものは食べちゃったのでは? まあ、なんだかんだで週一の頻度で来てるから当然っちゃ当然か。

 ならばここは、一番お気に入りのやつを頼むしかあるまいて。

 店員、つまりは葵のお母さんか厨房の男性に声をかけようかと思ったが、どちらも忙しそうにしている。うーん、呼びづらい。こういうとこ、日本人のダメなとこですよね。まあ俺は完全な日本人じゃないですけどね。

 ちょっとタイミング見計らうかなと思ったら、店の奥から見慣れた姿の少女が現れた。

 髪をポニーテールに纏めてエプロンを着用した葵だ。彼女は俺に気づくと、笑顔でこちらに近寄ってきた。


「大神くん、来てくれてたんですね」

「ちょっと用事で外出てたからな。その帰りに。それより、注文いいか?」

「はいっ、今日はなににしますか? お父さんが作るので、どれもいつもより美味しいはずですよ!」

「はい?」


 こいつ、今なんて言った? お父さん? あの男の人が? お兄さんとかじゃなくて?


「大神くん? どうかしましたか?」

「あー、なあ葵。一応聞いとくけど、お父さんって、今厨房に立ってるあの人?」

「はい」

「血の繋がった?」

「そうですよ?」

「お兄さんとかじゃなくて?」

「ふふっ、それよく言われます。凪ちゃん達にも言われちゃいました」


 どうやらマジらしい。笑顔を浮かべている葵に嘘を言っている様子はないし、こんな嘘をつく理由もないだろう。

 いや、でも、お父さんって。見た目めっちゃ若いですよ? 多分40代か30代後半くらいだと思うけど、全然そんな感じしませんよ?

 ま、まあいい……想像してたみたいな、厳格な感じじゃなくて一安心だ……。調理に没頭している今も仏頂面ってわけじゃないし、結構優しい人だったりするんだろう。

 あれか、今日はやたら繁盛してるのも、客がこの辺りに住んでるマダム達が多いのも、葵のお父さんがいるからか。看板娘よりも看板の役目果たしちゃってるじゃんか。

 っと、そんなことよりも注文だ。忙しいのに待たせるわけにはいかない。


「とりあえず、ハンバーグのサラダセットで」

「はい、かしこまりました」


 ニコッと笑顔を浮かべ、注文を手元の伝票に書き記す葵。可愛い。惚れたらどうしてくれるつもりだ。いや、葵的にはそっちのがいいのか……。


「お父さんの料理は本当に美味しいので、楽しみにしててくださいね!」

「んー、俺的には葵が作ったのが食いたいんだけどな」


 そもそも、定期的にここに通ってるのはそれが理由だ。たしかに葵のお母さんは葵よりも料理が上手いのかもしれないし、実際にこの前食べさせてもらったハヤシライス(超大盛り)も美味かった。そして葵本人が言うのだから、お父さんもかなりの料理人なのだろう。

 だけど俺は、それよりも。葵夜露が作ってくれた料理の方が好きだ。

 まだ葵のお父さんが作った料理を食べていないけれど、それでも断言できる。

 なんて思っても、結局これは俺のわがままで。店側の事情もあるだろうから、なんとなく呟いてみただけだったのだが。


「あの……大神くんが望むなら……私が作りましょうか……?」


 真っ赤な顔を手に握った伝票で隠そうとして控えめにこちらを見つめてくる葵は、どうしようもなく可愛くていじらしい。

 なぜか俺の顔まで熱を帯び出して、つい視線を逸らしてしまった。


「あー、頼めるか……?」

「はいっ、もちろんですっ!」


 パッと華やいだ表情。心なしかルンルンしてるようにも見える足取りで、葵は厨房の中へと戻る。今にもスキップとかし出しそうだ。

 葵の背中を見送って一息つき水を飲むと、ふと視線を感じた。ちょっと耳を澄ましてみれば、どうやら俺と葵のやり取りを見ていたらしい他の客から、あらあらだとか若いっていいわねだとか夜露ちゃんも隅に置けないわねだとか聞こえてくる。特にマダムの方々から。

 完全に忘れていたが、今日は俺以外にも客がいるのだ。それもかなりの数。

 あークソ、なんで俺はあんな恥ずかしいことを……。


「夜露と随分仲良くしてもらってるようだね」

「ひゃいっ⁉︎」


 突然カウンター越しに声をかけられた。恐る恐るそちらに視線をやれば、もちろんそこには葵のお父さんが。

 ニコニコと浮かべている笑顔は、少しだけ娘に似てる気がする。可愛いと形容しても差し支えないとは思うけれど、今の俺にとっては恐怖でしかない。


「そう怖がらないでくれ。別に取って食おうと言うわけでもないんだから」

「は、はぁ……」


 ククッ、と喉を鳴らす葵のお父さんは、すでに調理器具を持っていない。俺の注文を娘に任せたことで手が空いたのだろう。


「初めまして。夜露の父の勇人ゆうとです。君のことは小夜子さよこさんと夜露から色々と聞いてるよ」

「は、初めまして、大神真矢です……」


 待って、色々ってなに? 色々ってなに⁉︎ 怖いんだけど!

 おおお落ち着け、落ち着くんだ大神真矢。どうやら葵のお父さん、勇人さんは優しいひとみたいだけど、勇人さんから見た俺は娘にちょっかいかけてる何処の馬の骨とも知らないクソ野郎。ここで対応を誤ればハンバーグの挽肉にされてもおかしくはない……。エルトン・ジョンの曲流さなきゃ……。ついでに最近は地雷まみれだからカントリーロードも歌わなきゃ……。

 ていうか、葵のお母さんってそんな名前だったのね。初めて知った。


「いやぁしかし、君も大変だね。夜露の相手は苦労するだろう?」

「いえ、そんなことは……」

「遠慮しなくていいんだよ。あの子は色んなことが出来るけど、肝心なところでいつもミスをする。それも、割とヤバいタイプのミスを」

「そうっすね……」


 思い返されるのは四月のあの出来事。ヤバいでは済まないレベルのミスだったと思うが、それをわざわざ教える必要もない。それ以前に、今の俺のハッキリしない態度を知られたらどんな仕打ちが待ってるか分かったもんじゃない。


「あの子がこの店を継ぎたいと言い出した時は、本当に驚いた。僕たちは夜露に、将来のことは好きなように選んだらいいと言ったんだけどね。聞けば、君の影響だそうじゃないか」


 すぐそこで調理をしている娘の後ろ姿を、勇人さんが優しい眼差しで見守る。こちらの話し声が聞こえているのか、辛うじて見える葵の耳は赤くなっていた。

 まあ、自分の親が知り合いに自分の話してると恥ずかしいもんな。授業参観とかでそういうのは俺も経験済みだ。


「大神くんのために、もっと料理の勉強をするとまで言い出してね。可愛い娘のためならばと、最近は色々と教えてやってるんだよ」

「お、お父さんっ! 余計なこと言わないで……!」


 ついに我慢の限界が来たのか、真っ赤な顔で今にも泣き出してしまいそうなほどに瞳を潤ませた葵が、勇人さんへと苦情を入れる。しかし、それを受けた父親は笑うのみ。ごめんごめん、と謝るものの、全く申し訳なさそうにしていない。

 プルプルと震えている葵はこちらに一瞬だけ視線をよこし、しかし目が合えばすぐに逸らされてしまう。

 なんだそれ可愛いなおい。可愛いが過ぎる。でもちゃんと調理には集中してね。包丁で指切るとか古典的なドジはふつうに危ないからね。


「怒られてしまったから、僕も仕事に戻るよ。もしよければ、次は僕の料理も食べてほしいな」

「はい、次の機会があれば是非」


 葵のお母さん、小夜子さんが取って来た注文を聞き、勇人さんは調理に戻った。

 料理が来るまで手持ち無沙汰な俺は、葵の後ろ姿を眺める。

 なんというか、不思議な感じだ。今日は店内に客も多くいて、いつもの静かな店とは大違いだし、不意に勇人さんと会うことになってしまったというのに、なぜか安心感を覚えている。

 まあ、理由は明白なのだが。

 さっきまでまひるさんと会っていたからだ。

 葵よりも長い付き合いの相手ではあるけれど、あの人との会話はある種心地よさもあるけれど。それでも、あの人の醸し出す雰囲気には一向になれない。恐らくは、月宮まひるがこの世の常識の埒外にあるような美しさを持っているから。

 だからまひるさんと会う時はいつも、どこか夢心地のような気がするのだ。手の届かない、触れることすら出来ない絵画の中の存在。そう言えば適当だろうか。

 多分それこそが、まひるさんに言われた「好きと憧れの違い」なのだ。勝手な尺度で相手を手の届かないところまで遠ざけてしまう。他の誰でもない、自分の手で。それが憧れるということ。

 結局、俺はあの人のことが恋愛的な意味で好きだったわけじゃないんだろう。葵とこうして関わっている中で、ようやくその事に気づけた。

 だって、葵はすぐそこにいるのだ。手を伸ばせば触れられる距離に。いつも、俺の隣に。


「あ、あの……大神くん……」

「ん?」


 ジッと見ていたポニーテールが弱々しく揺れたと思えば、葵がこちらに振り返る。その顔はやはり赤くて、視線も合わせようとはしない。


「あんまり見られると……」

「あぁ、悪い。そうだよな」

「いえ、その……なにかありましたか……?」

「んー、特に大したことでもないよ。ただ」

「ただ?」

「葵ってやっぱり可愛いよなって」

「ぴっ」


 カランカラン! と音を立てて、葵の持っていた調理器具が床に落ちた。あれなんてったっけ。ターナー? フライ返し? まあ、それはどうでも良くて。

 なんだったんださっきの悲鳴。悲鳴? 悲鳴にすらなってなかったぞ。

 完全に固まってしまったっぽい葵。今回はさすがに認めよう。俺の失言だったと。

 さっきから背中に、あらあらまあまあと言わんばかりの視線が突き刺さる。視界の隅では勇人さんが笑いを堪えているし、俺の顔もだんだん熱くなってきた。

 んー、今日の俺、失言多すぎでは?


「夜露ー、イチャイチャしてないで仕事しなさーい」

「い、イチャイチャなんてしてないもん!」


 小夜子さんの声で我に帰った葵は、落とした調理器具を拾って流しへ。新しいのを取り出し、心なしか縮こまりながら調理を再開した。


「いやぁ、若いっていいねぇ」


 勇人さんも十分若いと思いますよ。とは思っても言えなかった。

 さきほどの思考を反芻する中に、どうしても目を背けられない事実があったから。出来れば見て見ぬ振りをしたかったけれど、残念なことにそれが出来る段階は、とうの昔に過ぎている。


「はぁ……」


 顔の熱を逃すようにため息を吐いても、その感情は胸の中に燻ったまま。

 多分まひるさんは気づいていたんだろう。気づいていて、俺にさっさと動けと急かしたのだろう。

 やっぱり、あの人には頭が上がらない。

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