第17話 夜の輝きを秘めた美しい瞳

「なぁ」

「……」

「葵?」

「……」

「あのー、いい加減離れてくれない?」

「……」


 どれだけ呼びかけても、俺の胸に押し付けた顔を横に振るだけ。ダメだこりゃ。ため息を吐きつつも、自分の部屋よりも少し明るく思える色の天井を見上げながら、葵の背中に流れる髪を撫でてやる。

 状況を確認しよう。葵に抱きつかれている。わりと思いっきり強く。

 正直ちょっとどころじゃなくやばい。なにせ俺だって男の子なわけで。女の子特有の柔らかい二つの膨らみが、ただでさえ薄着な上に決して小さいわけではないのに容赦なく押し付けられてたりとか。ホットパンツから伸びる健康そうな肉つきの太ももに目が行ってしまったりとか。

 まあ、かれこれ20分この状態でいれば、ちょっと慣れて来ちゃったりするのだけど。

 ごめん嘘、俺今めっちゃ嘘ついた。慣れるわけないんだよなぁこんな状況。だって葵が抱きついて来てんだよ? 超美少女が。しかも直前にあんな大号泣かまして、甘えるみたいにギュってされて。

 なんというか、その、こう、気持ちいいっちゃ気持ちいいですよね、ええ。いや、別に変な意味じゃないんですよ? 本当ですよ? これは嘘じゃない。マジで。

 変な意味じゃなくて、なんか、葵の身体が柔らかいから気持ちいいなーってだけで。

 いやこれ十分変な意味だな。やっぱり嘘じゃん。かー、卑しか男ばい。

 しかし、そろそろ本当に離れてもらわなければ困るのも事実。葵のお母さんには晩御飯をご馳走してあげると言われてしまってるし、好きな時に二人で降りてこいとも言われているが、万に一つでもこの前の勉強会と同じ展開になってしまえば、非常に面倒な勘違いを与えてしまうことになる。


「葵、マジでそろそろ離れてくれないか?」

「……」

「葵さーん?」

「……」


 へんじがない、ただのしかばねのようだ。

 おお葵、しんでしまうとはなさけない。

 言ってる場合じゃねぇよ。これはあれだな、葵のやつ、恥ずかしすぎてなにも喋れなくなった上に下手に俺の顔見る事も出来なくなって離れるのすら無理になっちゃったやつだな。俺は詳しいんだ。なんで詳しいんだ。

 あと出来れば、モゾモゾ動くのもやめてもらいたい。大神真矢は刺激に弱い敏感な生き物なのです。

 だが、このままジーっとしててもドーにもならないので、なにかしら手を講じなければなるまい。無理矢理引き剥がすのはさすがになしとして、さてどうやって離れてもらうか。

 つか、さっきからずっと髪撫でてるのも、葵が離れてくれない原因の一つになってるんだろうか。だってしょうがないよね。葵の髪、触ってるこっちが気持ちよくなっちゃうし。撫で心地いいってのはこういうことをいうのかと、また人生の教訓が一つ増えた。こんな教訓どこで活かされるってんだ。

 さて。いつまでもうだうだ言ってないで、さっさとこのひっつき虫さんをどうにかしなければ。一応、考えがないわけではないのだけど、果たしてそれで離れてくれるか。というか、余計に状況が悪化する可能性すらあるのだが。それでもやろうと思っているあたり、俺もこの状況に浮かされているんだろう。


「んんっ……!」


 撫でる手を止めて咳払いをすれば、葵の体がビクッと反応する。俺の声が聞こえてないとか、そういうわけではなさそうでまずは一安心。喉の調子も確認したところで、決めるぜ覚悟。


「……夜露」

「はひっ……?」


 あれだけ呼びかけても全く反応しなかった葵が、下の名前を一度呼んだだけで、素っ頓狂な声を出して顔を上げた。

 白い頬は見る影もなく赤く染まって、視線は俺に合わせてるはずなのに、焦点が定まっていないように見える。

 顔を上げて密着度が低くなったせいで、鎖骨やら谷間やらが見えてしまっているが、そこに目を向けないよう必死に自制する。

 タンクトップゆえに肌が露出している肩へとそっと手を乗せた。俺から肌に直接触れてしまうのは、少し逡巡してしまったが。それでも、その肩を少し押してみれば、さほど力を入れずとも葵は半ば自分から体を離してくれる。


「お前のお母さんが飯作ってくれてるらしいから、下降りよう」

「ひゃい……」


 立ち上がって部屋の扉を開ければ、葵もてくてくとついてきてくれる。が、ちょい待て。

 開けた扉から部屋の外には出ずに回れ右。後ろをついてきていた葵の足も止まって、未だ熱に浮かされたような表情ながらも、不思議そうに俺を見上げる。

 うーん、この無警戒さ。信頼されてると見るべきなのだろうけど、さすがに心配になってしまう。


「葵、上になんか羽織れ」

「……」

「葵?」


 何故か、葵の顔に浮かんでいた熱がサッと引いた。それどころか、あまり見たことのない無表情で、ジッと俺の目を見つめてくる。

 その意図がよく分からずに思わずたじろいでしまえば、あからさまな落胆の表情を見せてカーディガンを取りに行った葵。

 え、今のなんだったの? 俺、なんか地雷踏んだ?


「行きましょうか……」

「お、おう……」


 久しぶりに葵の口から発せられたまともな言葉は、やはりどこか落ち込んだもの。首を傾げながらも、位置が入れ替わって先導する葵についていく。

 いやまあ、とりあえずはカーディガン着てくれたから、露出が減って男の子的には大変助かったのだけども。

 廊下へ出れば家中にいい匂いが漂っていて、いやでも空腹が刺激される。先ほどまでの精神的疲労ゆえか、自分で思っていたよりも腹が減ってるらしい。

 匂いの発生源である一階、店の中へと出てみると、葵のお母さんが厨房で料理をしていた。これはハヤシライスの匂いだろうか。


「お母さん」

「おっ、ようやく降りてきたわね。ほら、もう出来てるから、二人ともそこに座んなさい」


 葵のお母さんは、娘と違ってかなりサバサバした性格だ。初めて来た時に朝陽ともそんな話を軽くしたが、さっき部屋に上がらせてもらった時にも実感した。全然似てない。しかし、やはり親子なのか、顔立ちは結構似てる。飲食業だからか髪もかなり短くボブカットに切り揃えられていて、葵とよく似た美人さん。出来る女店主って感じ。店主なのかは知らんけど。

 そんな葵のお母さんに言われるがまま、カウンター席に並んで座る。前来た時は、このカウンター越しに葵がいたから、なんだか変な感じだ。


「はい、ハヤシライス。大神くんのは大盛りにしといたから。あと、お代もいらないからね」

「いえ、さすがにそれは……」

「いいのいいの。店の客として来たわけじゃないんだから、気にせず食べなさい」

「……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」


 少し気がひけるが、せっかくの厚意を無碍にするほうが失礼だろう。お金が浮くのに越したことはないし。

 改めて、目の前に置かれたハヤシライスを見る。大盛りだ。超大盛り。明らかに店で出してる量じゃないだろってくらい、超絶大盛り。まあ、食べれないことはないが。成長期の男子ならこれくらい朝飯前だ。今は夕飯だけど。

 いただきます、と手を合わせて挨拶。スプーンでご飯にルーを絡ませ、口に運んだ。


「うまっ……」

「ですよねっ!」


 おぉうびっくりしたぁ……。


「お母さんの作る料理はどれもとても美味しいんですよ! なにせ私の師匠ですから! でも一番美味しいのはハヤシライスじゃなくて、たまに作ってくれる唐揚げなんです! お店には出してないですけど、本当に美味しいんですよ!」

「そ、そうか……」


 さっきまでの落ち込み具合から一転。葵は目を輝かせて、自分の母親の料理がいかに美味しいのかを滔々と語る。好きな作品を布教するオタク並みに。

 調味料がどうやら火加減がどうやらと言われても、料理なんてさっぱりな俺には分からないが。それでも、葵が自分の母親を本当に尊敬していることだけは伝わって来た。


「夜露、それくらいにしときなさい。大神くん困ってるでしょ。てか私が恥ずかしいから」

「えー、恥ずかしがることないよお母さん。せっかく褒めてるんだから」

「あんたは勢いよく捲し立てすぎなの」


 俺や友人たちに対するものとは違う言葉遣い。敬語じゃない葵に違和感を覚えるものの、ちょっと甘えた感じの話し方は愛嬌がある。つまり可愛い。


「ごめんなさいね大神くん。こんな娘だけど、これからも仲良くしてあげてね?」

「まあ、はい……」

「ちょっと、お母さん……変なこと言わないでよ……」

「じゃあ、私は中にいるから。お店も今は閉めてるし、食器は適当に流しに置いといてちょうだい」


 娘を微笑ましく見ながら、葵のお母さんは奥へと引っ込んでいった。

 残されたのは、俺たち二人だけ。店も閉めてるとのことだから、誰かが乱入してくることもない。それなら、気を遣わずに会話も出来る。


「ご、ごめんなさい……お母さん、ちょっとテンション上がってるみたいで……」

「いや、俺の母親よりかはだいぶマシだろ。しかもうちの場合、姉も便乗してくるからな」

「そうでしたね」


 先日の勉強会のことを思い出し、二人して苦笑いを浮かべる。本当にもう、あの母親は歳を考えてもらいたいものだ。

 けれどやっぱり、俺を産んでくれて、育ててくれて、見守ってくれて。そんな母親を尊敬してないわけがない。

 だから葵のさっきの言葉も、全部ちゃんと本心なのだろう。もとより、こいつが嘘をつけるとは思いもしないが。


「あの、大神くん」

「ん?」

「今日は、本当に迷惑をかけて、すみませんでした。それと、ありがとうございます」


 スプーンを置いて改まったかと思えば、発したのは謝罪とお礼。

 まるで、月と星が輝く夜空のような、美しい瞳が、俺を見つめる。


「『ヒーローの定義とは、誰かの幸せを思いやれること、たとえ見返りがなくとも彼らを助けるために自分の道を行けることだ。そうすべきだから、それが正しいことだから、という理由だけで誰かを助けられる人こそが、まぎれもなく真のスーパーヒーローだ』」


 唄うように紡いだそれは、彼女自身の言葉ではないのだろう。けれど、たしかな想いがそこには乗せられている。


「この前見に行った映画、あるじゃないですか。今のは、その作品の原作者の言葉なんです」

「アメコミだっけ?」

「はい。私はこの言葉に従って、出来る限りの人助けがしたいって思ってました。フィクションの中みたいに、超能力はなにもないけど。それでも、私の手が届く範囲なら、って。でも、それだけじゃダメだったみたいですね」


 真剣な言葉と雰囲気に、俺もスプーンを置いた。口の中を水で潤し、葵は言葉を続ける。


「『大いなる力には、大いなる責任が伴う』 これも、同じ方の言葉です。私には、そんな大げさな力なんてなにもないですけど。それでも、小さな力でも、使い方を誤るわけにはいかない。私には出来ないこともあるから。私に出来ることで、誰かを助ける」

「それも、その言葉から学んだってわけか」

「いいえ、違いますよ」


 笑顔で首を横に振った。今まで抱いていた自分の考えは間違っていたのだと、彼女は認めたのだ。その言葉自体を否定しているわけではなく、その言葉から彼女が感じ取っていたものを。


「これは、さっき大神くんが教えてくれたんです。私には、なんの力もないと思ってました。だから、責任なんて、どこにもないんだと、思ってました。でも今日、凪ちゃんを助けられなくて、勝手に責任を感じちゃって。だから、その責任を果たすために、自分の持っている小さな力の使い方を、ちゃんと考えようって。あなたが、教えてくれたんです」

「そんな大層なこと言ったわけじゃないんだけどな」

「でも、私はそう思ったんです」


 優しい笑顔と柔らかな口調に、思わず顔をそらしてしまう。頬が熱くなってるのは、気のせいじゃないのだろう。

 言葉というのは酷く不便で、不完全なものだ。それだけで相手に全て伝わるわけではないし、意図せぬものが伝わることだってある。すれ違い、勘違いの元となってしまうことだって。

 でも。葵が俺の言葉で、そこに込めたもの以上のなにかを感じ取ったとしても。今日俺がここに来た目的は、葵を励ましてやることだから。


「だから私、大神くんが困ってたら、絶対に助けます。絶対、絶対にです」

「そこまで身構えなくてもいいだろ」

「いえ、その時は絶対、失敗したくないですから」


 だから、今日の目的は達成したってことでいいだろう。

 葵にいつもの笑顔が戻ってくれたから。

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