ドミニオンズ(後)
【ウェス・ターナー】
洋上の青。
甲板に出ていると、その蒼空の色に染まってしまわないのが不思議でならない。海鳥の声がやかましい。潮風に帆が膨らんで船は速度を上げた。
船首には、少女の像が飾られている。陸においては死神、海においては幸運の乙女。それが、幕引きの女王サルキアを護衛したという少女ヴェローナ・リジュイーの言い伝えだ。
船乗りたちは陸に上がっているうちはヴェローナの像をなるべく視野にいれないようにするという。それは死を招きよせるほどに不吉なのだ。しかし、海の上では――彼女は海を愛していた――すべての命の庇護者となる。
ほんの数年前のことだというのに、女王の王都帰還の軌跡はいまでは伝説となっている。落魄の公女がどんな旅を経て、王宮へ返り咲いたか、それは一篇の物語となって語り継がれることになる。が、失われた玉座のことを顧みるものは少ない。
「提督」
よく通る凛々しい声だった。胸まで垂れるほどの赤髪は海と空の色に抗して、鮮やかに際立つ。
「メリサ?」応じる男の体躯に海軍の制服はよく馴染んだ。
襟元の徽章は、九つの首を持つ怪物の意匠だった。それはシェストラ王国が誇る巡洋艦隊のメンバーである証だ。それだけではなくヴェローナ号は、九隻から成る船団の旗艦であり、その船長こそは、すなわち海兵二万人のトップであった。
「船倉にネズミが一匹忍び込みました。いかがいたしますか?」
「侵入者は浮き輪を持たせて海に放り込め。ここからなら陸に泳ぎ着けるだろう」
「ですが、キュラム提督」
メリサもまた海軍士官の制服に違和感がない。かつて少年だった年下の男を上官と仰ぐのにも抵抗がないようだった。
「――すでにそうしました。離岸流に乗って戻ってきたんです」
「まさか」若き提督は日に焼けた顔を歪めた。「そんな馬鹿げた芸当が――」
と、船倉で発見された当該人物が引っ立てられてくる。
「やりかねない人間です」
「スタン!」聞き慣れた声がする。久しぶりだというのに声に遠慮がない。
「スタンってば!」
「ウェス」呆れ顔と困り顔の間を、スタンの表情は行ったり来たりする。「おまえ、どうしてここへ?」
「この船はどうなってんだ? 提督の親友にこんな仕打ちするなんて! メリサだって知らん顔するしさ! おまえらには久闊を叙するとかって人情味がないのか! 皆無か!」
ぎゃんぎゃんとウェスが喚いた。ロープで固く縛られて身動きが出来ない状態ながら、飛び跳ねては必死の抗議を試みた。騒がしさも六年前とまったく変わっていない。
「縛めを解いてやれ、あれはウェス・ターナー。シェストラ王国の科学省のトップだ」
「そーだぞ、僕は偉いんだぞ」ウェスは器用にも縛られたままふんぞり返ってみせた。やがて自由になると「ご無沙汰じゃんスタン!」と駆け寄って抱きついてくる。
「ウェスタン鉄道の開業セレモニーで会えるはずだったと思うが?」
「ん? ……あれは駄目だ。朝が早すぎた」
ウェスは、悪びれることなく言い放った。
ウェスとスタンの名前を組み合わせたウェスタン鉄道とは、かねてからの計画だった王たちの遊歩道に線路を敷設する国家事業のことだった。古代機械のように完全にフリーエネルギーで駆動させるには至らなかったが、光走船や王都の装甲車などの多くの技術の粋を集めて王国を縦横断する交通網を作り上げたのだった。
「おまえの分のスピーチまでやらされた身になってみろ」
「だはは」
この計画には、傾きかけた国家の資金を莫大に投入したため、ただでさえ悪評高いサルキアの名はさらに失墜したかに見えた。が、いざ鉄道が稼働してみれば、移住、旅行、物流にと便利なことこの上ない。みるみるうちにシェストラの国力は盛り返した。人々が手のひらを返すのに時間はかからなかった。
「何をしに俺の船に忍び込んできたんだ? 王都の仕事は?」
「ラトナがやってくれる。あいつに任せとけば支障ない」
「また賢くなったのか、ったく可愛げのない猿だ。ジャックスはどうだ?」
「あいつは旅回りの大道芸人に拾われて、大陸中を旅してるよ。生首ジャックスが語る『疾走する玉座とふびんな王女』は人気の演目なんだってさ」
「見世物小屋か」
「かしこまった王宮だって見世物小屋さ。うんざりする!」
乱暴な物言いをするウェスにメリサも嘆息した。しかしウェスはふてぶてしく続けた。
「やっぱスタンが王様になるべきだったよ、しまり屋のサルキアめ、最近じゃお金をちっともくれやしない」
「おまえがあちこちに妙な施設を建てまくるからだろう。研究所だの工房だのと。女王が頭を痛めるのも無理はない」
まるで昔のようにスタンはウェスをたしなめる。それがうれしいのかウェスはさらに調子付いて軽口を叩いた。
「必要なの、女王様には理解して頂けないけどね。北部に建てた精製炉だってまだまだ足りてない。ガラッドのおっさんの自治領にはさ、地下資源がたんまりある。けど採掘する術がない。固い地盤を掘削する機械が必要だ。鉄道だけじゃない。もっともっと交通を発達させなきゃ! なにより僕と同じ性能の脳味噌がもっと要る。育てるか造るか。むむむ……うーん、もうひとつなんだ、何かが閃きそうなんだけど」
相変わらず、ウェスはところかまわず自分の考えに没頭してしまう癖があった。
「便利な乗り物はどうだ? ロドニーにあったような」
「ガラッドのおっさんはさすがにエンジニアでもある。サルキアより理解してくれるよ。大量生産が可能な乗り物を製造するなら南部領のが都合がいい。あっちに乗り換えてもいいかなって」
「好きにしろ」
「ただね、化石燃料の使用はスキップしたい。あれは空気を汚す。とはいえ、石炭だって似たようなものだ。もっとクリーンに効率よく蒸気を……」
効率化された蒸気機関、それは後にウェスの光熱式タービンと呼ばれた。ウェスはロドニーが歩んだのとは別のルートで文明を押し上げようとしていた。光走船のシステムと新たな蒸気機関を融合させたその果てに――。
「ほんの薄紙一枚向こう側なんだ。もうちょっとで手が届く、物凄い閃きの鉱脈がある。きっとね。そいつに触れられれば‥‥」
そう、光と蒸気のモータリゼーションが幕を開けるのだったが、それはもう少し未来の話だ。ただ、それは確実にやってくる。
人が、モノが、貨幣が――そして、やがて情報さえが
狂奔する世界、まさに竜の予言通りの時代が訪れようとしていた。
自動車開発においてガラッドの自治領に遅れを取った王国は、インフラの整備で巻き返しをはかろうとする。王国と自治領は親和的な関係を維持しつつも競い合うように科学と文明を推し進めていき、互いの頂きを高めていった。
一方が重工業に力を入れれば、他方は食品加工の分野に乗り出すといった具合に。両者は牽制しつつも盛んに技術交流を重ねた結果、古い封建国家である周辺諸国の数倍の速度で発展していくのだった。
「ガラッドとサルキア、どっちからも引っ張りだこなんだろ。こんなところで暇を潰してていいのか?」
「うーん、あいつらってさ、科学を何かに役立てようって必死なんだもん。萎える」
「それの何がいけない?」ウェスの性格を知り尽くしているスタンは、言いたいことがわかる気がした。
「科学を善用しようだなんて邪な考えさ。真実を究明する。閃きを形にする。それが楽しいんじゃないか、誰かの幸せのためなんて不純だよ」
「でもさ、おまえの頭の中身が世界を変えていく、それだって喜びだろ?」
「まあね、でも、当たり前だろ、そんなこと。僕が世界なんだ」
わかった、わかった、とスタンは頷いた。こいつはこういうやつだ。
数年後、女王と共に奴隷制を糾弾したのだって人権的見地からではない。ただ、その非効率性に耐えきれなかっただけだ。
――望まぬ労働に従事させるなんて人的資源の無駄だ。即刻やめろ。バカバカしい。
こうして自治領のみならず、王国内にも、奴隷の所有に冷たい目が向けられる起因が作られたのだった。女王自身も改革を断行したのだが、旧勢力の根強い反対に合い、ガラッドの自治領より遅れて数年後に改革は成った。
ウェスは見かけも中身も変わらない。それでいて周囲を根こそぎ変えていく力がある。
「あなたたちが同じ船に乗ってるなんて、思い出すわ」
ウェスとスタンを前にすれば、メリサも過去に心が引き戻される。
ヴェローナ号は、大陸を駆け巡った光走船より遥かに高性能ではあったが、確実にその設計思想を受け継いでいる。船体に塗られた藤色の塗料は、錆止めと防水の効果があり、これもウェスが開発した。色名を”ウェステリア”と呼ぶ。
「いまは海を走る船だ。光と風と蒸気で走ってる」スタンはひとりごちた。
サルキアに乗せられて王国に仕えることになったウェスについてスタンも王都に住まう流れになったのだが、そこで騒動と陰謀に巻き込まれ、成り行きで弱体化していた海軍の再編を手伝う羽目になった。
女王の口添えもあったのだろう、スタン・キュラムは異例の出世を遂げた。
「海の王様だね、スタン!」
「バカ、麗しき女王殿下にこき使われるスタン・下っ端・キュラム提督とは俺のことだ」
「ひゅーひゅー」
メリサ並びに船員たちは、幼馴染二人の子供じみたやり取りを微笑ましく眺めた。スタンはもともと腰に佩いた〈
そうした勘違いを訂正するのはメリサの役割だったが、最近では海でのスタンの度外れた実力と振舞いにやっかみ混じりの嫌がらせもなくなった。老成した佇まいと無造作に発せられる叡知の言葉にも畏敬の念をおぼえずにはいられない。
「で、話を戻すぞ、ウェス、どうしてここにいる?」
「僕って天才だろ」
「……」
「だろ?」
「続けろよ」
「だからスランプなんてない。いつでもボンボンと発想が湧く。でもね、気付いたんだ、旅ってのはボカーンなんだ!」
「意味がわからん」付き合いの長いスタンでも省略された意図を汲み取ることはできず、メリサを見やった。メリサももちろん首を傾げている。ウェスはブーブーと口を尖らせた。
「だからさ、旅をしてるともっともっと爆発的な僕になるんだ。天才の爆発だね」
つまりはこうだ。
旅は発想を刺激する。普段の環境を変えてみると違った見方ができる。だから昔みたいにスタンと旅に出るべきだ、とそう言いたいのだろう。その申し出を同意するにスタンもやぶさかではなかった。
――だが。
「ウェス、今度の航海はいつもの哨戒とはわけが違うの」
とりなすようにメリサが言った。
「こいつは悠長な旅じゃない。戦争なのさ、ウェス」
「ふーん」戦争というものものしい響きは、しかしウェスには響かなかった。
「親友とはいえ、非戦闘員のおまえの巻き込むわけにはいかない。いや、親友だからこそ絶対に連れていくわけにはいかない」
むむ、とウェスはしばし俯いたかと見えたが、スタンたちをねめつけて、ぐっと指を突き出す。
「――このウェス様をナメんなよ。ネタは上がってんだ。行く先は
「知ってるならなおさらだ、やつらは危険だ」
サルキアが南部を自治領として認めたのを受けて、東の海のならず者たちが自分たちの支配海域を自治領として認めろと言ってよこしたのだった。女王の求める緩やかな連帯と平和の基本原則すら受け入れる気はないと強気な攻勢の構えだ。
やがてシェストラを自治領の連合体にしようと目論んでいるサルキアであってさえ、この挑戦的なならず者には我慢がならなかったらしい。怒号とともに海軍の出動を命じたのは知られている。
「しょせん烏合の衆でしょ。スタンの腕っぷしと僕の超絶知能、それにメリサの美貌を隠し味にすりゃ余裕さ。なにより九隻の艦隊がある。負ける要素はない」
「いや」とスタンは慎重に言葉を選んだ。「やつらはどうやらただのゴロツキじゃない。急速に戦闘と操船の技術を習得しつつある。それに――信じがたいことだが非典型生物を使役する」
「なんだって!」ウェスは驚きの声を上げた。「あのハイドラみたいなやつが?」
「クラーケン」とメリサ。
船を沈める遠海の怪物。それもまた古代文明が各地に置いた人工生物なのだろう。しかしそれを操るなんて本当に可能なのか。少なくとも海賊風情にできる芸当ではない。
「ああ、いるのさ、やつらをまとめ上げ、首領となり、統制を敷いたやつがな」
「ふうん、誰なんだい?」驚きを好奇心が凌駕しつつある。ウェスはそんな表情だった。
ややためらったのちスタンは口を開いた。
「そいつの名は――ベイリー・ラドフォード」
「まさか! ベイリーが生きてたのか?」
「いや、ベイリーは死んだ。それは間違いない。だが、奴らの首領がそう名乗っているのは事実だ」
スタンの竜紋はそこを違うはずがない。あの時に感じた衝撃と欠落は抜き差しならぬものだった。では、救国の英雄の名を騙る偽物がいるということになる。
「心当たりがないか。ベイリーの名を騙り、その威風を纏おうとする人間に?」
「私は思いつくわ。たったひとりね」
かつてベイリーの右腕だった男。
ベイリーの死とサルキアの戴冠とともに歴史から抹消された男。
ウェスはにやりと笑った。
「そいつが待ち受けてるんだとしたら、サルキアの王国に復讐しようとしているんだったら、やっぱり僕が行かなきゃ!」
「駄目だ、おまえは国家の貴重な財産でもある。もし何かあれば女王にどやしつけられる」
「うんにゃ、連れてってくれないといけないよ。スタンたちは誘いこまれてる。見え透いた罠じゃないか。喧嘩を売られたサルキアが海軍に討伐命令を出すこともみんな予想してる。このままじゃみんな死ぬぞ」
「そんな周到な知恵がやつらに? それにおまえが来たからといってどうなるってんだ」
「あれから非典型生物の研究をしていないとでも? その弱点や習性にまったく無知だとでも? 僕はウェス・ターナーだよ、あんな面白生物を見逃すわけがない! それに新しい武器だってあるんだ。いままでの
けたたましくウェスは弁舌を振った。武器を語る時のウェスはまるで機銃掃射のように言葉をまき散らす。
スタンとメリサは顔を見合わせた。
「でもどこにそんな武器が? おまえは身ひとつでこの船に忍び込んだのだろう?」
「少し進路を変えてくれ、行きつけの無人島がある。そこにサルキアにも内緒のヤバイ武器がどっさり隠してある。任せといて」
でもさ、とウェスは柄になく真剣そのものといった顔つきになる。
「クラーケンとはラトナみたいに仲良くなれるかな?」
メリサは眼を白黒させた。スタンは両手を掲げて降伏の仕草をした。
× × ×
【ベイリー・ラドフォード】
救国の英雄、シェストラ臨時政府の総督であったベイリー・ラドフォードは王都の西、イゼーロフ地区に葬られた。
ベイリーの遺体はついに発見されることがなかったため、河底より引き上げられた蒸気式装甲車の機関部をその遺骨の代わりとし、女王サルキアの命によって建てられた霊廟に収められることになった。
女王は彼女自身と敵対したベイリーに反逆者の汚名を着せることはなく、己のかつての未熟を恥じるよすがとして王宮の居室から見渡せる西の方角にその廟を築いたのだった。
とはいえ、街角にひっそりと佇む石造りの霊廟を訪れるものは少ない。
路上には、ぶらぶらとうろつく下町の子供たち、売れるあてのない土産物を売りつける商人、それに道端でカード賭博に興じる男たちの姿も見えた。そんな中に痩せた人影が人並みを縫って霊廟の門柱に辿り着く。
人気のない廟内は、青いタイルで装飾されており、気温以上にひんやりした体感を伝えてくれる。碑文にはベイリーの短い生涯とともに幾多の戦勝記録が併記されていた。
「あんたは、たまにおいでになるのぉ、ここに眠る方の縁者かね?」
三本足の丸椅子に石像然と腰かけた老人がもそもそと口を開いた。
訪問者はまごついたかと見えたが、やがてこう言った。
「いえ、外は暑いんです。ちょっと涼みに来た、それだけ」
「今日は日差しが厳しいからの」老人は必要以上に詮索はしない。配慮というより、興味が持続しないと言ったほうがいいか。
老人の足元には王棋という遊戯の盤と駒が散らばっている。あれこれを最善手を探ったあげく、どうにも煮詰まって、すべてをぶち壊しにしたといった風だ。あるいは盤から駒が飛び出したそれが、正しい布陣なのかもしれない。
「じいさん、あなたは墓守なの?」
「うんにゃ、ずっと涼んどる。ここにゃ骨もない。なーんもない。幽霊だって出ないだろうし気楽に座ってられる」
「そうか、で、じいさんは、いつまで座ってるんだい?」
訪問者の問いに老人の応えはなかった。背を丸めた老人は静かに船を漕ぐ。
「なんだ寝ちまったのか」
――チャリンとコインを祭壇に投げ込むと訪問者はその場を去った。
その姿を見つめるのは天井に彫りこまれた天使たちの眼差しだった。古い一神教から受け継がれた
訪問者の足音が遠ざかると、老人はゆっくりと身を起こした。どうやら本当に眠ってはいなかったようだ。
「――いつまで座ってるんだ、ね」
背筋を伸ばすと不思議なほど印象が変化した。毛糸の帽子を脱げば、思ったより若々しい金髪が溢れた。白髭をむしり取れば、つるりとした優男の顔が出てきそうだ。
「そろそろ、僕も行くよ。ベイリー」
もはや老人とは見えないしっかりした足取りで、その男は霊廟の広さを歩測するようにウロウロした。やがて名残り惜しさも尽きたと見えて、祭壇を振り向くと、さきほどの訪問者がしたように懐からコインを取り出そうとした。
「いや、生涯を戦いに捧げた君には、こっちが相応しいか」
金髪の男があらためて手にしたのは弯曲したナイフだった。それを奉献台にうやうやしく乗せると老人を演じた男は、ついに霊廟を後にした。
残されたのは、空っぽになった椅子、そして天使の眼差しだけだった。
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