第五章 星火燎原

彼岸に往ける者よ

 ウィースガム号の復旧は不可能とわかった。


 ルードウィンは、飛行船に積んであった二台の蒸気式装甲車のひとつに瀕死のウルスラを乗せると全速力で最寄りの街へと向かった。


「ついて来たいものだけが来い。そうでないなら、もう一台の6型で王都へ戻れ」


 期待はしていなかったが、ルードウィンに同行したのは2人だけだった。ルードウィンの威光はすでに地に落ちた。数々の惨状を招いた黒々とした悲運を総督代理の背中に見たのだ。


  誰もが尻込みした。領地を出奔するときから従ってきた鍛冶屋の息子とウルスラの遠縁にあたる少年といってもいいほどのあどけない兵士だけが同じ車に乗った。


「間に合うか」


 焦燥に駆られてルードウィンは走った。


 蒸気式装甲車6型は、悪魔の中指とは違って履帯ではなく車輪で走行する、小型で取り回しのいい車種だった。考案されたのはすでに15年も前だったが、蒸気式装甲車の中では唯一大量生産に成功し、数年前に市場に売り出された。多くの貴族や豪商が、これを所有してステータス並びに自衛力としていた。


「ウルスラねえさん!」


 ゾナンという名の兵士がずっと呼びかけ続けているが、ウルスラの反応はだんだんと微弱になっていた。喉を抉った矢は、脊椎を外したものの、声帯と気管を激しく傷つけてたものと見える。治療が間に合うとは思えないが、何もしないわけにはいかなかった。


「ヴェローナめ、どこへ行ったんだ?!」


 癒しの力を発揮する彼女の帰りの待つのも限界があった。


 襲撃者を追ったヴェローナは返り討ちにあったか、それともその仲間に引き込まれたか、だ。ルードウィンにはどちらも考えにくかったが、ヴェローナの心身が限界を迎えていたのもわかっていた。悪魔を撃退したのも束の間、大勢の命を癒しの手で救ったのだ。さしもの死神にも不測の事態が生じないとは限らない。


 そして出し抜けの驟雨。


 台地を抜け、名の無い支流を遡って本流である大河アイシスへ、さらにそのほとりを海に向かって下っていく間に屋根のない6型装甲車の乗員たちは濡れネズミになった。呼吸の定まらない後部席のウルスラに毛布を掛け、ルードウィンは運転手を叱咤する。


「もっとだ、走れ! 部下を失うのはもううんざりだ」

「セヴノークスの街は川向うです。そろそろ橋が見える頃なんですけど」


 古代都市ロドニーの遺物のそれはひとつだ。千年以上の時と毎秒770ネゾルの水量とを跨ぐ、そのアーチの名は――


「見えた! あれは……」


 ――ダートフォード・クロッシング。


 海へと至るまでの最後の橋。ロドニーの科学力だけが構築しえた巨大な橋梁。かつてここには、多くの乗り物がひしめき合っていたのだろう、舗装された道路は老朽化していたものの、よく均されていた。ここを超えるとアイシスの川幅はどんどん広く大きくなっていき、やがて海水と淡水の混ざり合う汽水域に出る。


「ここを渡ればセヴノークスはすぐだ」


 しかし、ルードウィンらは橋のたもとで足止めを食った。


「ここは渡れないんだ。他へ周ってくれ」


 橋を通行止めにしていたのは、オリーブ色の作業着を着た数人の男たちだった。ルードウィンに対応した男は、薄荷の煙草を吸っていた。


「君たちはなんだ? 我々はシェストラ軍だ、総督代理の権限において命じる、ただちにここを通せ!」


 ルードウィンの厳めしい顔に男は煙草の煙を吐きかける。


「やだね。おれたちは〈寄合〉だ。橋やトンネル、屋根裏に暗渠。それに汽水域がおれたちの領土。シェストラ王国にもその属領にも服従はしない。中間地帯、境界領域に俺たちは住まっている。遠い昔、シェストラの権力機構は〈寄合〉を統治しないと盟約を交わした」

「聞いたことがあるぞ、初代王ハゼムを影から助けた結社があったと。噂や伝説の類だと思っていたが……」

「ああ、ご覧の通り、それは存在してる。そして自分から名乗るほどには自己顕示欲もあるってわけだ。〈寄合〉は、言うほど秘密じゃない」

「それはありがたいね」

「普段なら通してやらんこともないがね、いまは非常事態だからなぁ。竜紋サーペインを持たないあんたに親切にしてやるわけにゃいかないのさ」

「君たちが何様か知らないが、とにかく通すんだ。従わないのなら――」

「――なら?」

「実力行使に出る」

「怖いなぁ、その装甲車の火砲はお飾りでもなさそうだ」


 煙草の男は相変わらずのんびりしている。他の連中も軍のものものしい装甲車を見ても動揺した様子はない。その態度にはどこか余裕と確信がある。


「あんたは竜紋を持つ人間を害そうとしてる。〈寄合〉は、玉座に見合う者たちを補助するのが役目だ。俺たちの情報網は大掴みには、わかってんだよ。あんたがベイリー・ラドフォードを亡き者にしようとしたことも」


 ルードウィンが青ざめ絶句する一方、同乗の部下たちは意味がわからず、顔を見合わせる。


「おっと、内緒だったのかな?」

 おどけて見せた後、男は煙草を携帯用灰皿で消した。この橋を汚す気はないらしい。


「だからどうした。ウルスラはどうなる?! 最後の勧告だ。ここを通せ」


 もはや構わずにルードウィンは重ねて要求する。


「なぁ」と男は感じの悪い笑みを同胞に向ける。「出る幕じゃなかったのさ、そうだろ? 資格もないのにしゃしゃり出てきたのが運のツキ」


「資格だと」


(それが竜紋とやらのことか)


 思考がまとまらない。ルードウィンの頭の中に気鬱の霞がかっており、持ち前の明晰さは望むべくもない。いや、随分前からこの不定形の靄はルードウィンを取り巻いていた。


(僕は何を追いかけてきたんだろう?)


「そうだ。あんたはこのレースにエントリーされていないのさ。呼ばれてないのに出張ってきた」


 別の男がはじめの男の言葉を引き取って言った。


「我々はこの古いゲームを管理する昔ながらの監視官なのだから、余計な乱入者はつまみ出さなきゃいけない。この仕事ときたら、労多くして益少なしだよ」


 こうしている間にもウルスラの容態は悪化していくだろう。

 ルードウィンは砲口を彼らに向けさせた。


「押し問答をしている暇はない」

「それをぶっ放せば、橋が落ちるぞ」

「そうかもな」我関せずといったふうにルードウィンは言い放った。


 老朽化が進んでいるとはいえ、橋はいまだ堅固に見えた。構造を支える何本ものワイヤーロープが四足動物の肋骨のごとく垂れ下がっている。


「総督代理!」


 部下のひとりが叫ぶ。見れば、意識の混濁したウルスラが何かを伝えようと空中に手を差し出している。もはや眼も見えていないのかもしれない。ルードウィンはその手を握り締めて「なんだ? わたしはここにいる」と告げた。


 ――やめて。


 必死にルードウィンはウルスラの口の動きを読んだ。

 声帯を損傷したウルスラはもう声を出すことができないのだ。もし命を取り留めたとしても、生涯を筆談か手話の暮らしで過ごすことになるかもしれない。


 ――もう、結構です。わたしに構わないで……くだ……さい。


「余計なことを言うな。黙っていろ」


 かぼそくなった命の火を守るようにルードウィンは背中で風を防いだ。


「――? なんだ、怪我人がいるのか? どうしてそれを早く言わない?!」


 煙草の男が身を乗り出してきた。そしてすぐに皆に合図を送る。


「ここは通してやれないが、怪我人なら看てやる。セヴノークスの医者なんかより腕は確かだ。おい、おまえら、下へ運べ!」


 慌ただしく〈寄合〉の面々が動き出した。


 聞いたことがある、〈寄合〉には門外不出の高度な技術体系があるのだと。医術も例に漏れないのなら、もしかしたらウルスラを救えるのかもしれない。


〈寄合〉に行く手を阻まれたことは、この悲運に見舞われ通しの旅でようやく巡り合った僥倖であった。河の水音にルードウィンは耳を澄ます。河はいつだって境界線だ。


「ウルスラ、おまえを彼岸へ引き渡しはしないぞ」


 ルードウィンたちは橋の中ほどまで進むことを許された。

 橋が揺れ、ワイヤーが軋む音は、不気味な唸り声のようだ。


 橋の遥か下方、ルードウィンたちの脚下のさらに下を、水しぶきを上げながら古代機械が疾走していくのに気付いた者はいない。


 生命と死の海へ向かう玉座を見た者はいない。


× × ×


 彼らはまさに橋に住まう者たちだった。


 橋げたの下に、〈寄合〉は奇妙な住居を築いていた。氷柱のように垂れ下がる鉄骨の構造は彼らの手によって建て増しされたものだ。それだけでなく、紐や布状の繊維もまるで廃墟のカーテンのごとく中空に漂っているのだった。


「血が足りてない。すぐに輸血だ」


 テキパキと〈寄合〉の者たちが動く。ウルスラを乗せた担架が橋の側面から吊り下ろされる光景には冷や汗が出た。橋の裏には、ルードウィンたちが上で出会った者たちより何倍も多くの人間が住まわっているようだった。もし、ルードウィンが血迷ったあげくに橋を破壊していたら、虐殺といっていい惨事を引き起こしていたことになる。〈寄合〉には女性も子供もいた。


「〈寄合〉の中には、こうして孤立したコミュニティを築くグループもあれば、他の社会に紛れて暮らす者もいるんです」


 複雑な集合住宅である〈寄合〉の住居に招き入れらたルードウィンたちは、先ほどの煙草の男に引き合わされた女性に内部を案内されていた。ウルスラのことで気が気でなかったけれど、ルードウィンたちがジタバタしたところで何もできやしない。


「変成の器に選ばれ、王となる道を採った者は、確かに人心を掴む魅力と威風を手に入れます。しかし、たったそれだけで王になれるでしょうか? 本当は、この大陸にくまなく拡がり、人知れず大きな影響力を持つ〈寄合〉の信任を得られるからこそ、その者は王になれるのです」


 まるで解説の定型文があるかのようにつらつらと淀みなく女はまくし立てた。


 共同スペースも、王都の外れにあるバラック小屋の集落のような安っぽい造りだったが、ひとつだけ違うのは、ここが清潔に保たれていることだ。ゴミも落書きもない。すれ違う人の態度から、礼節が行き渡っているとわかる。


「悪いが、そのあたりのことは全然わからないんだ。玉座を手に入れるのは、王としての権威以上の意味があるの? それに竜紋というやつも……おとぎ話でないとしたら、驚きだけど」

「もちろん。玉座にはもっと深い意味で正当な王を創り出す能力があります。あなたが潜り抜けてきた内乱の戦場だって歴史の表面のほんのひっかき傷のようなもの。真の歴史は英雄に築かれるのじゃない。かといって名もない民衆でもない。もちろんわたしたち〈寄合〉が世界の牛耳っているってのでもない。ただ、思っている以上にわたしたちは関与しているということ。あ、この食堂のおススメはシェパーズパイです。他のみなさんもいかがですか?」


 橋の下で暮らしているわりには屈託のない笑顔で、女は言った。シェパーズパイの味はといえば、自慢するだけのことはある。若いゾナンはあっという間に二皿を平らげた。


「うまいっす」

「ああ、そうか」


 疑い深いルードウィンは、毒が盛られていないかと心配になった。思えば、ゼロッドをそそのかしてベイリーを毒殺しようとした過去がある。因果に苛まれ、自分の身を案じても無理はない。それに〈寄合〉の者たちが、ウルスラを治療すると引き取った上で始末していてもおかしくはなかった。なぜなら、ルードウィンは玉座への争奪戦をかき乱す厄介者なのだ。


「異常はないか。ゾナン。なら、僕も頼もう」

「え、ひどいっすよ総督代理。毒見させたんですか。失礼ですよ、こんなに親切にされてるのに!」


「いいんです。警戒するのも当然です。こんな橋の裏側にぶら下がってる連中の食べ物なんて、ね」


 女は面白がっているようだ。外からの客は珍しいのかもしれない。


 食事中に失礼、と断って女は煙草に火をつけた。


「その煙草は?」

「これは〈寄合〉の符丁にもなります。外でこの煙草を吸っている者を見かけたら仲間だと思えばいい」

「知っている女が吸っていたな」

「〈寄合〉は皆さんが思ったより側にいますからね」


 ウルスラの手術が終わったとの報告がもたらされたのは、その数刻後であった。


「手術は成功した。ひとまずは経過を見よう」


 ここで出会った者たちは誰ひとり名乗ろうとしなかった。橋を封鎖していた男のひとりが、今度はルードウィンたちの相手をした。手の空いている人間がゲストの面倒を見るというルールなのかもしれない。


 術後のウルスラは絶対安静で、まだ眠ったままでいる。


 ルードウィンはウルスラのベッドの傍らに立ったが、いたたまれない気持ちが押し寄せてくる。ウルスラとルードウィンは二人きりだった。


「――助かった、みたいだな」


 呼びかけたとて返事はない。


「ウルスラ、君はあの時、僕をかばったのか? それとも偶然なのか」


 ルードウィンが言うのは、ジヴの矢を受けた時のことだ。あの時、一瞬強張った顔になったウルスラが咄嗟にルードウィンの身を覆ったような気がしたのだ。しかし、武術の心得があるわけでもないウルスラにそんな芸当ができるとは思えなかった。


 ウルスラの頬にそっと掌を触れる、伝わってくる温もりが、どこか懐かしい。近頃、いつ人間の肌に触れただろうか。交わした握手の相手も覚えていない。装甲車で握ったウルスラの手は氷のように冷たかった気がする。


「すまないウルスラ、僕は君を偽った。ベイリーを殺そうとしたのは僕なんだ。いろんなところに手を回して……ああ、画策したよ。救国の英雄を裏切って、世間を出し抜いて、その秘密を抱えたまま王国の頂点に居座りたかった。あの玉座を手に入れたかった」


 抗弁も反駁もしない相手に一方的に言葉をぶつけ続けるのは卑怯だとわかっていた。それでも言葉は止まらなかった。そして涙も。


「その結果が――ご存知の通りさ」


 こみ上げる激情。慙愧の念。


「ウィースガム号は沈んだ。部下たちは死んでいった。ついには君まで失いかけた。僕のちっぽけな野望のせいだ。すべてはうまくいくかと見えた。けど、ヴェローナの言った通り、盤上のゲームのように現実は運ばなかった。地上で栄華を楽しんだ後、地獄で裁かれるものだとばかり思っていた。でもさ、罰ってのは思ったより早く配達されるもんだな」


 ウルスラの胸がゆっくりと上下するのを涙がかすんだ視界でじっと見つめた。


「決めてたんだ。君が助からなかったら、玉座を狙ってるやつらを皆殺しにして僕も死のうと。でも、もし助かったなら――」


 そう言ってルードウィンは襟元のピンバッチを外し、ウルスラのベッドのサイドテーブルに置いた。


「僕は何者でもない追跡者となるつもりだった。竜紋とやらもない、総督代理でもない。ただのルードウィン・ザナックだ。生きているにしろ死んでいるにしろベイリーを見つけようと思う。僕の友達はあいつだけだから。総督代理は君だ。どう? 野心満々の君が望んでた出世だろ? もしかして君も王様になりたかったのかな? ……そんなわけないよね、君は節度ってのを知ってる。僕みたいなバカじゃない」


 その時、数秒ほどウルスラは眼を開いた。そこに感情の色はなく、ルードウィンの声への反応も見られない。すぐにまぶたは落ちた。


「ごめんよ、喋り過ぎたみたいだ。もう部屋に戻るよ、また明日ね、ウルスラ」


 名残り惜しそうにウルスラのベッドを離れたルードウィンは、一度だけ彼女を振り返ってから部屋を出た。


「またね、ウルスラ」


 しかし、明日は訪れなかった。少なくともウルスラにとっては。


 深更に容態が急変した秘書官は、静かに息を引き取ったのだった。


 彼女の亡骸は、水葬にされ、河を下り、ひとり玉座を追った。





 






 

 





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