海よりも深く、山よりも高く
うたう
海よりも深く、山よりも高く
遠くに響いた銃声で目が覚めた。
一緒に昼寝をしていたはずの、息子たちの姿が見当たらなくて、カーリーは動転した。
もう一度、銃声が響いて、カーリーは慌てて、ヤップストンの町境へと駆け出した。
程なくして、走り寄ってくる息子たちの姿が見え、カーリーは安堵した。が、それも束の間、小銃を構えている男の姿が目に入って、背筋が凍った。
カーリーの姿にほっとしたのか、息子が足を止めようとした。
「アル! 止まっちゃダメ!」
カーリーは叫んで、息子の背後に回った。息子たちの背を守りながら、走る。
「とにかく走って!」
甘えん坊のアルは、何度も振り返って、カーリーの姿を確かめようとした。その度にカーリーはアルを叱った。
アルの双子の兄、キャスは、事態を理解しているのか、一目散に先頭を走っている。しかしこの事態を招いたのは、おそらくキャスだろう。キャスは腕白で好奇心旺盛だ。
ヤップストンの町には近づくな。
もっときつく忠告しておくべきだったのかもしれない。あるいは、大袈裟に言い過ぎてしまったから、キャスが興味を持ってしまったのか。どう伝えるのが正解だったのか、後悔しても仕方がない。この難局を乗り切りさえすれば――。今回のことは息子たちにとっていい薬になるはずだ。好奇心は、豊かに生きるのに必要な感性ではある。だが、行き過ぎた好奇心には危険が伴うと学ぶに違いない。余程のことがない限り、息子たちはもうヤップストンに足を踏み入れたりはしないだろう。
ヤップストンの住人との諍いは、祖父の代よりもずっと前から続いている。もうお互いに理解しあうことは不可能なのだと思う。何度も双方に死者を出している。カーリー自身も嫌悪感や恐怖心にも似た、なにか根深い感情を持っている。関わり合いにならぬのが一番なのだ。子供を産んで、余計にその意識が強くなった。それで平穏な暮らしが保てた。
だから非は息子たちにあったのかもしれない。でも、と思う。まだあどけなさの残る息子たちにまで銃口を向ける、ヤップストンの人たちの野蛮さに腹が立った。
また銃声が鳴ったと思った瞬間、不意に左太ももに激痛が走った。勢いのまま走り続けて四歩目、体が傾いだ。撃たれたのだと悟った。五歩目はもう踏み出せなかった。
カーリーの息遣いが聞こえなくなって、不安になったのか、アルが立ち止まって、振り返った。
「ママ!」
「行きなさい! お家まで帰れば、大丈夫だから」
キャスも気づいて戻って来ようとする。
「ママ、ごめんなさい。僕のせいで」
キャスの涙声に、カーリーの胸が詰まった。
「少し休んだら追いかけるから。先に行きなさい」
「でも」
そう渋る息子たちをカーリーは、「すぐに行かないと帰ってからのお説教がひどくなるわよ」と言って急かした。
「早く帰ってきてね」
「絶対だよ!」
足を引きずりながら、カーリーは草むらまで這った。草むらに隠れて、追手が来ないことを祈った。傷はそこまで深くない。少し休めば、きっと息子たちのもとに戻れるだろう。致命傷には至っていない。
息子たちは、まだまだ手がかかる。カーリーなしでは死んでしまうかもしれない。生きる術をまだ何も伝えてなかった。父親は、どこで何をしているのか知らない。カーリーが身籠るとどこかに消えてしまった。恨んだことは一度もない。男はそんなものだと思っていた。だがこの期に及ぶと急に恨めしさが募る。カーリーに代わって、育児を担ってくれればいいが、そんなことは望むだけ無駄だった。
目を閉じて、呼吸を整える。痛みが引いていく気がした。
絶対に生きて帰る。
でもその願いも虚しく、匂いを嗅ぐ犬の鼻音が聞こえてきた。
拾い食いをしてはいけないと、息子たちにもっと口を酸っぱくして言うべきだったかなとカーリーは思った。落ちている食べ物は、罠である可能性があるから。
犬が一匹吠えた。追随するように、二匹、三匹と吠え立てる。全部で八匹はいる。うるさかった。
「よし。よくやった」
人間が五人、遠巻きにカーリーに銃口を向けている。ヤップストンの住人だ。
そのうちの一人が指笛を鳴らして、犬たちに指示をした。
「仔熊も探せ」
行かせては駄目だ。
カーリーは草むらから飛び出した。
でも傷を負った脚では犬に追いつかない。仮に追いついたとしても八匹すべてを仕留めるのは難しいだろう。カーリーはすぐに諦めた。
人間だ。人間を一人やれば――。
まだ立ち上がってはいけない。身を低く、そして的を絞らせないようにジグザグに駆ける。左の後肢が地面を蹴っても痛みは感じなかった。
狙うのは、左から二番目にいる、気が弱そうな若者だ。恐怖で銃口が定まっていない。
一歩、二歩、三歩。間合いが詰まる。あと一歩。
立ち上がった。
刹那。銃声が四つ連続した。もうどこが痛むのかもわからなかった。カーリーの全身が熱かった。それでも右腕を振り上げる。
膝が崩れた。体が後ろに持っていかれそうになる。
カーリーは抗うように右前肢を伸ばした。爪が若者の肩口にかかった。
渾身の力を振り絞って、前肢を振った。
手応えはあった。
「リオン!」
年嵩の男が叫ぶのをカーリーは倒れながら耳にした。
指笛が鳴った。
「一旦戻るぞ」
「ジョッシュ爺さん、こいつはどうするんだ?」
「そんなのは後だ。どうせもう動けまい」
犬が戻ってきたようだ。ハァハァという息遣いが聞こえた。
「ほら、早くリオンを担げ。急がんと危ない」
足音が遠ざかっていく。
ああ、よかった。
妻のフェリシアに手を握られていた。
どのくらい眠っていたのか、わからない。癖のある熊肉の臭いが部屋に充満していた。
「エドは、食べたか?」
リオンの声にはっとして、フェリシアの顔がくしゃくしゃに歪んだ。フェリシアは、何度も頷いた。その度に、雫がぽたぽたと落ちた。
「そうか、よかった」
肩口が痛む。我ながら無茶をしたものだとリオンは思った。病床に伏す息子のために、どうしても熊肉が欲しかったのだ。それもより滋養のあるいい部位の肉だ。
熊の肉は、町のみんなで分けることになっている。だが、心臓や掌など、より滋養のある部位、より美味な部位は、狩猟に参加したもので分けるのが慣わしだった。それでリオンは熊狩りに名乗りをあげたのだ。
現れたのは、仔熊二匹だった。仔熊なら、リオンでもどうにかできるだろうと思った。が、すぐに親熊が現れ、親熊と対峙することになった。結局なにもできなかった。それでもリオンの家には、特権である部位の肉が届けてくれたらしい。
「エドね、おかわりしたよ。美味しいって」
リオンの目には自然と涙が溢れてきた。
海よりも深く、山よりも高く うたう @kamatakamatari
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