第一話:貴種

 窓が完全に閉められた酒場の中は、むわっとした熱気が篭もっていた。


 店内の人の数は多くない。囁くような、しかし熱の入った声で繰り広げられる討論。嗅覚を刺激する強い酒気。


 壁に掛けられた銀の十字架は以前までならば酒場ではまず見られなかったものだ。


 僕はその席の一つで深く座り、脚を組んでいた。

 時計の針が動く小さな音。酩酊した客たちの声にも僅かに暗い感情が込められている。


 夜が来る。


 その言葉が恐怖と共に語られるようになったのはもう二年も前の事らしい。

 酒場に飾られた十字架も、店の周りに申し訳程度に流れる水も、きっちりと閉じられた扉も全てその影響だ。



 土の下で心臓だけの状態で生き続けるのは苦痛ではなかった。苦痛すら感じなかった。

 僕にあったのは――無だ。センリをなんとか送り届けたところで意識が消え、そして、気づいたら三年が経過していた。


 馬鹿げた話である。そして、僕が十年過ごしても変わらなかった世界はたった三年で大きく変わってしまっていた。

 酒場では十字架が飾られ、夜に人が外を出歩く事はなくなり、そして――ほぼ全ての街では流れる水が敷かれるようになった。


 店は客を入れる際によく確認し余所者は招き入れないようになり、そしてもちろん、料理におけるにんにくの割合も増えている。




「すいません、今日はにんにく、品切れなんです」


 料理や酒を運んでいた女の子が新たに来た客に申し訳なさそうに言う。

 嘘だ。にんにくは裏の食料庫に大量にストックされている。もともとこの手の酒場では騒動の前からにんにくを使う料理が一般的だった。

 本来ありえないであろう店員の言葉に、客が目を見開く。


「あ、あぁん!? にんにくがないのに、こんな夜に営業とは、正気か!? 隣町で店が一軒やられたの、知ってんだろ!?」


 吸血鬼は恐怖と共にやってくる。課された代償は厄介だが、相手はその代償と付き合いながら吸血鬼をやっているのだ。

 僕は張本人だからよく知っているのだ。流れる水も聖水も銀の十字架もにんにくも、どうしようもない程の弱点ではないという事を。

 水は魔法で蒸発させられるし、せき止める事もできる。銀の十字架は触れないと効果がない。そしてにんにくは――弱点だが、にんにくを食べた人間の血が吸えないわけではない。


 と、そこで、対面の席でこの街の名物料理である怪鳥のフライを突っついていた少女が顔を上げた。


 足先まで伸ばしたプラチナブロンド。まるで血が流れていないかのように白い肌に、握れば折れそうな華奢な手足。


 ミレーレ・ノア。センリも華奢だったが、数年病床に伏していた彼女の肉付きは同年代と比べても明らかに薄い。

 つい先日までは立ち上がる事すらろくにできなかった少女は一瞬客の男に蔑みの視線を向けたが、僕が何も言わないのを知ると、こちらを見て言った。


兄様あにさま、何を考えておいでですか?」


「…………あの十字架は正式な十字架じゃないな。ちょっと歪んでいる、十字架はしっかりとした比率じゃないと効果がない。あれじゃ銀としての効果しかない」


「!! なるほど!! さすがです、兄様! 私も兄様のように立派になれるように頑張ります!! メモを取らないと…………正式な十字架じゃないと、効果がない、と……」


 ミレーレが花開くのような笑みを浮かべると、食事をどけてノートとペン(どこからか手に入れたもの)を取り出し、メモを取り始める。

 どうも、長く自分より強いセンリと共にいたせいか、その反応はちょっと居心地が悪い。だけどきっと、向上心があるのは良いことだ。


 と、そこで先程店員に絡んでいた男が、僕たちに気づき目を見開いた。


「ッ……な、何だ!? なんでこんな夜に、酒場に、ガキがいるんだ!?」


 眼と眼が合う。その手足が一瞬震え、反射のように一歩後ろに下がる。そして、僕は眼に力を集め、囁くような声で言った。


「『まぁ落ち着いて、座りなよ。たまには、酒場ににんにくがない事もあるし、子どもがいる事もある』」




「あ………………ああ……そうだな」




 男の目が一瞬光を失い、熱に浮かされたような表情で首を縦に振ると、ふらつきながらも大人しく席の一つにつく。


 これが貴種吸血鬼ノーブル・ヴァンパイアになる事で得られる特殊能力――目を合わせた相手の思考に干渉する、『魅了視ファシネイト・アイ』だ。


 貴種になって得る能力なだけあって、この能力はかなり強力だ。

 特に、この力があれば招かれない限り中に入れないという条件はほぼ無視できる。ガラス越しからでも掛けられるし、酒場では今、来客時は少し扉を開けて客の顔を確認するようなルールができているが、その際にも掛けられる。そして、招いて貰える。


 もちろん、魅了視は絶対ではない。相手の精神力の強さによっては失敗するし、そもそもプロの吸血鬼狩りや終焉騎士は相手の眼を見ないように気をつけている。だが、全ての人間にそのような対策を強いるのは不可能だ。


 この吸血鬼が増えた時代でも、貴種吸血鬼がほとんど存在しない事もきっと、対策の遅れに拍車を掛けているのだろう。


「さすがです、兄様! 私もいつか同じ事が出来るのでしょうか?」


 ミレーレが恐る恐る聞いてくる。僕はガラスの杯に注がれたよく冷えたトマトジュースを飲み干し、笑った。




「出来るさ。なにしろ、君には僕の血を分けたんだ」





§






 闇の時代がやってきた。


 きっかけはあの一級騎士――《滅却》のエペが病床に伏した事だったらしい。


 超々遠距離から僕を消滅させかけたあの怪物が倒れるなんて僕にはにわかに信じがたいのだがともかく、まるでその時を待っていたかのように、これまで小競り合い程度で済んでいた魔王達が終焉騎士団に対して一斉に蜂起した。


 中でももっとも大きな魔王勢力が、かつてセーブルを僕に派遣してきたあの『杭の王』だ。

 これまで滅多に存在しなかった吸血鬼を推定千人以上揃えた王の軍勢は圧倒的な力で街々を攻め滅ぼしたという。


 終焉騎士団が闇の軍勢に対して優勢だったのは、終焉騎士が精鋭揃いというのももちろんあるが、魔族や強力な闇の眷属――特に吸血鬼の総数がそこまで多くなかったというのが大きい。


 その前提が覆された。大量の吸血鬼を始めとした魔の軍勢はいかに終焉騎士団でも相手しきれるようなものではなかった。

 彼らは英雄だ。だが、人間だった。無尽蔵の体力を持つ化け物を前に、足手まといである人間を守りながら戦うだけの力は彼らにはなかった。

 かくして、終焉騎士団は敗退した。



 いや――敗退したという言い方は正しくはない。



 彼らは、今も戦い続けている。《滅却》の継承者であるセンリ・シルヴィスを中心として。




 だが、人の街はあいにく散らばっていた。終焉騎士団も劣勢を強いられている状態で、全ては守れない。

 世界は戦乱の渦に巻き込まれた。魔王たちは未だ終焉騎士団に的を絞っているが、それでもいくつもの街が滅び、国が滅んだ。


 まだ滅ぼされていない街もいくつも存在するが、魔王たちの戦力はちょっと訓練した騎士程度では相手にならない程に強い。

 魔王本体も強いが、相手は軍勢である。ライネルの時は彼自身の気質もあったし、直接本丸に攻め入れたが、正面からぶつかれば貴種吸血鬼でも敗北は必至。

 そもそも、僕が万全に戦えていたのは非常に高品質なセンリの血があったからだ。


 復活し、現実をまざまざと突きつけられた僕に残された選択肢は無きに等しかった。





§






「どうしたの? こっちを見て」


 じっとこちらを見ていたミレーレに、目を瞬かせ尋ねる。

 ミレーレは頬に手を当てると、うっとりしたように言った。


「兄様…………格好いいです」


「そ……そう……」


 何もしていないのに格好いいとか、吸血鬼の眷属化の副作用だろうか?


 ミレーレはかつて僕が罹患していた死魂病の患者だ。そして今はこの――エンド・バロンの眷属である。


 街々を旅し、僕はあまりに生きるに適さない者――あまりに死者の素質が強すぎる者を探し続けた。


 全ては――新たなる仲間とするために。


 魔王たちと戦うには、センリを手伝うには、ひいては人間を救うには――強力な仲間が必要だった。

 センリとは眷属を作らない約束をしていたが、相手が僕と同じ境遇だったら許してくれるだろう。



 一般的に吸血鬼に噛まれた者は吸血鬼になるとされているが、吸血と眷属化は厳密に言えば違う。


 吸血は吸う事だが、眷属化は――与える事だ。きっと、滅ぼされた『獣の王』が持っていたという狼人作成の呪いは眷属化の派生だったのだろう。


 吸血鬼の血を与えられた者は、吸血鬼となる。

 ミレーレが血の繋がっていない僕を兄様などと呼び始めたのもそれが理由だろうか。


 そこで、ミレーレの眉が僅かに顰められる。その小さな鼻がぴくぴくと動く。



「兄様、死者の臭いが……近づいてきます」



 最近、この近辺の街で吸血鬼が対策の足りない酒場や商店を襲う事件が頻発していた。

 僕が復活するまでは吸血鬼とは幻想に等しいくらい珍しいものだったはずなのに、全く物騒な時代だ。


 今回僕がやってきたのはそれを止めるためだ。


 突然扉がへし折れ、飛んできた巨大な石の塊が店を破壊する。酔っぱらいの一人が巻き込まれ、下敷きになる。

 強い血の臭いが店内に広がり、一拍して悲鳴があがる。


 だが、つい先日までただの人間だったはずのミレーレの顔色は一つも変わっていなかった。


 ただ、鼻を小さく動かすと、笑みを浮かべて言う。



「兄様、私が殺していいですか? 絶対に期待に応えて見せます」


「ああ、いいよ。やってみな」




 僕の言葉を受けると同時に、ミレーレの肉体が膨張する。分厚いコートが内側からの肉に引きちぎれ、銀の毛皮が現れる。


 力の行使だ。


 吸血鬼ヴァンパイアの眷属化は下位レッサーしか作れないが、貴種吸血鬼ノーブル・ヴァンパイアの血を受けた彼女は最初から吸血鬼だ。

 そして、吸血鬼となった今も彼女の魂は僕と同様に、ずっと奈落に落ち続けている。


 ミレーレが変身したのは、スマートな体躯をした銀の狼だった。

 僕がかつて変身していた犬とあまり変わらない色なのにどうしてミレーレが変化するとこんなに格好いいのだろうか?


 狼は知性が垣間見える眼でちらりと僕を見ると、そのまま体勢を変え、店の壁を体当たりでぶち抜き、飛び出す。



 ばらばらと落ちてくる瓦礫。僕はミレーレの食べ残したフライを一口齧り、ため息をついた。




 あまりにも本能が強くなりすぎたら、ミレーレを殺さねばならないな。


 できるだけ避けたい事ではあるが――だが、あのままだとどうせ死んでいたのだ。彼女もきっと、後悔したりはしないだろう。

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