第五章
Prologue:終焉
どうやら外で何かが起こったらしい。
白い古びた病院。他の病室からは隔離された個室のベッドの中でミレーレ・ノアはごく自然とそれを感じ取った。
一つだけ存在する、中庭に面した小さな窓から、最低限の家具しかない病室に静かに日が差し込んでいた。
ミレーレの病室は時の止まったような空間だ。他の病室からは離れているが故に音もなく、孤独の余り頭がおかしくなりそうになった事もある。
そんな少女にとって、変化とは如何なるものであっても歓迎だ。
元々、ミレーレの病室には最低限の医者や看護師しか訪れていなかったが、その回数が減った。
一日に二度出されていた食事の質が落ち、介助にやってくるその頻度が落ち、その双眸の下の隈が濃くなり、やがて血の匂いを纏うようになった。
医者は何も言わなかった。ミレーレもまた、何も言わなかった。
病室は完全に外界と遮断されている。情報は入ってこないし、ミレーレの方からそれを求める事もない。
彼らがミレーレの病室に来ているのはただの仕事だ。
ミレーレの生まれ育った国が先進国で、どうしようもない病人を見殺しにしないだけの余裕があったのはもしかしたら医者にとってもミレーレ本人にとっても余り良いことではなかったのかもしれない。
いや、もしかしたらどうしようもないミレーレを見捨てないのには何か理由があるのかもしれないが、それはミレーレの知るところではない。
最初は話しかけようとした事もあった。
だが、ミレーレの視線を受けただけであからさまに強張る医者の表情を見れば、もはや何も言えない。
変化はゆっくりと、しかし着実に起こっていた。
何があったのか気になったが、確認はできなかった。もちろん、確認してどうするという事もある。
ミレーレは死ぬ。一年後か二年後か三年後か、わからないが、確実に。
外の世界で何か良からぬ事が起こったのは確実だ。
極稀にあった家族のお見舞いがなくなった。半年に一度様子を見に来ていた魔導師や神官が来なくなった。魔導師や神官が姿を現さなくなるのはいつの時代においても凶兆である。
その事を半死人に興味本位で確認されたとなれば、医者も良い気はしないだろう。
今日も何事もなく時間が進み、小さな窓から夕日が差し込んでくる。
ミレーレの病室に時計はない。日の動きだけが唯一時を知る手段だ。
そろそろ夕食の時間だ。空腹は感じていなかった。既にそのような機能はミレーレから失われている。
だが、食べなければ肉体が死ぬ。既に死は必定だが、自殺するような勇気はない。
病床に伏して丸二年。最初は自分の思った通りに動いていた身体はいつの間にか介助なしでは生活できないくらいに衰えていた。
まだ辛うじて起き上がる事くらいはできるが、遠からぬうちにそれすらできない、生きた人形と化すのだろう。
誰一人として、ミレーレを元気づける者はいなかった。
いや――ミレーレの病は治らない。それは最初から言われていた事だ。
故に、ミレーレはまだ歩ける頃から隔離された病室に閉じ込められた。医者も看護師も、そしてほとんど存在しない癒しの魔法の使い手も、訪れる者は最初からミレーレの完治の可能性を諦めていて、それはまるで死を望まれているかのようだった。
決して癒えぬ病。十を越えたばかりの娘にすら、現実を突きつけざるを得ない、逃れ得ぬ絶望の運命。
神に仕える者が慰めの言葉すら持たないそれを人は――呪いと呼ぶ。
最初は境遇が信じられなかった。次に、自分の身の上を呪った。だが、今は受け入れている。
夜がやってくる。明かりは与えられないし、そもそも与えられても何もできない。
日が完全に沈む。だが、今日は満月なのか、差し込む強い月明かりのおかげで視界には困らない。
夕食が来ない。眠くはなかった。上半身を起こし、窓を見る。
もしかしてもうミレーレに食事を届けるような余裕すらなくなったのか? それならば、それでいい。
身体の内側に感じる鈍い痛み、ミレーレはため息をつく。
元が不明の痛みも、少しずつ強くなっている。それはきっと、死の足音だ。
何かが起こっている。どうせならば戦争でも起こって何もかもが滅べばいい。
そんな事をぼんやり考えたところで、部屋の外から足音がした。
普段よりもだいぶ遅いが、夕食だろうか? それにしては――食事を乗せるキャスターの音がしない。
外からかけられていた鍵が開き、扉が音を立てて解放される。重い身体を動かすのは億劫だったが、苦労してそちらを見る。
入ってきたのはくたびれた白衣を着た医者と――。
「ミレーレ、お客様だ」
「……!?」
それは、ミレーレが出会った中で最も身なりのいい青年だった。
漆黒のビロードのような外套に、ぴかぴかに磨かれた革製の靴。月明かりをよく反射する、真っ白の髪。腰には一振りの剣を帯び、ミレーレは見たことはないが、貴族というのはこういう出で立ちをしているものなのだろうか。
呆然とするミレーレを他所に、医者が輝く瞳を向けて言う。
開いた瞳孔。獣のように爛々と輝く双眸。まだ元気だった頃も、病の正体を医者が知らなかった頃も、こんな目で見られたことはない。
「ミレーレ、久しぶりにいいニュースだ。君は――今日で、退院だ」
「ぇ……? 何を、言って――彼は、誰ですか?」
退院なんて、あるわけがない。ミレーレが掛かったのは不治の病だ。
死亡率は百パーセント。医者も、魔導師も、神官も、治療を試みる前に諦めた。
そもそも、万が一、億が一、奇跡が起こって退院するとして、どうしてこんな夜に実施されるだろうか。
ミレーレの反応をどう取ったのか、医者がもっともらしく頷く、続ける。
「ああ、紹介が遅れたね。この御方は――お医者様だ。とても遠くから、わざわざ、君のために、いらっしゃった」
余りにも異様だった。闇の中、明かりもつけず、来客を紹介する。
その瞳の奥には確かに尋常ならざる輝きが宿っていた。思わず、聞き返す。
「何の、お医者さま、ですか?」
仲こそ良くはなくても、病室に入れられて以来ずっと世話になってきた医者の男が眼を瞬かせる。
眉が一瞬訝しげに顰められ、すぐに元に戻った。
「それは…………些細な事だ」
「ッ…………お名前は?」
「それは………………些細な事だ。重要なのは、この方が、君を救ってくれるという事だ」
明らかに不自然な話だが、その声には確信の響きがあった。
正気じゃ…………ない。
まるで好意を無下にされたかのような不機嫌そうな顔をしている医者。その隣に立つ青年は、ミレーレと医者の会話を聞いても表情一つ変えていなかった。
年齢はミレーレよりも数個上だろうか、腕利きの医者と言うには若すぎるが、ミレーレが衝撃を受けたのは、息を呑んだのは、品の良い服装でもなければ、年齢が理由でもない。
何故だろうか、ミレーレにはひと目でわかった。
どうして医者の男は気づいていないのか。どうしてこんな夜に、明かりもつけずに、ミレーレの部屋にやってきたのか。
目の前の青年は――明らかに死んでいた。
その身に纏う死の気配は、ミレーレが身近に感じているものと同じ類のもので、しかし比べ物にならない程、濃い。
人間、ではない。
「あなた、は…………死、ですか?」
それは、ミレーレが恐れ、しかし待ち望んでいたもの。
その姿はミレーレがイメージしていた、終焉そのものである。
意図した問いではなかった。
自然と出てきた掠れた声に、医者が眼を丸くする。
「??? 何を、馬鹿な事を――」
「そうだよ。ああ、君はもう出ていくといい。案内、助かったよ」
あっけなく青年が認め、隣の医者に退室を促す。
男の双眸がいぶかしげに歪み、しかしすぐに自分を納得させるように頷くと、部屋から出ていく。
病室に静寂が戻る。何も言えなかった。
青年が近づいて来るが、ミレーレの身体はとうの昔にまともには動かない。
太古から存在し、原因不明。ほとんど発症者のいない、魂が死に向かう病。
――『死魂病』によって。
青年の動作はその余りに馬鹿げた死の気配とは裏腹に緩やかだった。
頭がうまく働かない。昨日までこんな事が起こるとは思っていなかった。
青年がじろじろとまるで品定めするようにミレーレを見る。
心臓がまるで反抗するかのように強く打っている。ぐちゃぐちゃになる思考の中、なんとか声をあげる。
「何故…………どうして、動いて、いるのですか?」
『終焉』は目を丸くすると、恐ろしげな外見のイメージが霧散するような邪気のない表情で答えた。
「……動きたいから?」
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