特別編②:エンド男爵のどきどき子犬生活
可愛い。どこからどう見ても完全無欠の愛玩犬だ。
鏡の中で、半透明の白い子犬がつぶらな瞳でこちらを見ていた。言うまでもなく、僕の今の姿である。
ぴんと立った耳に、柔らかそうな長く白い毛。尻尾も何もかもがふさふさしていて、誰だろうと癒やされる事間違いなしな姿である。この姿に変わった僕に躊躇いなく鉈を振り上げたアルバトスは本当に血も涙もない
ただの雑種ではない。品種がなんなのかはわからないが、明らかに血統書付きの犬だ。
気品と可愛らしさを兼ね備えた姿はその辺の金持ちな商人か貴族の家に転がり込めば可愛がられること間違いなし、僕は自由を妨げられるのが我慢ならないので飼い犬にはなりたくないが、うまく立ち回ればかなり楽に、そして幸福に暮らせる気がする。
たとえば……どうだろうか。
夜に、誰かしら美味しそうな血の匂いをした女の子を探し出し、その前で物欲しげに鳴く。
家に入れてくれたらしめたもの、散々媚びを売りかわいがって貰った後は――皆が寝静まった後、こっそり少しだけ血を分けてもらうのだ。
犬状態の僕はちょっと尋常じゃないくらいに可愛い。僕が大の犬好きなのを置いておいても、老若男女問わず魅了する可愛らしさだ。鳴き声もこれまた可愛いのである。中身は全裸の吸血鬼なのだが。
もしもバレても、逃げて次の宿を見つければいいだけだ。問題は、服までは変化してくれないので、犬から人に戻る際は服をどうにかしなくてはいけない点か……地味にハードルが高いかもしれない。負の気配は隠せても服を着ていなければ犯罪者なわけで……。
鏡に腕を伸ばし、肉球でたんたんと叩く。軽く部屋の中を駆け回る。
下位吸血鬼の力は一切発揮出来ていなかった。その癖、太陽光が弱点なのは変わらないのだから、よくわからない。
でもこの姿、逃げるのに最適だな……力全然出ないし、朝になると死んじゃうけど。
これが変身するのが豚とか蜘蛛とかだったら、僕はこんなに簡単に受け入れられなかっただろう。
だが、子犬ならまだいける。僕は犬派なのだ。いざという時は、お金がなくなったら芸をすれば稼げるかもしれない。何か練習しておくべきだろうか。
身軽な身体で駆け回るのは楽しい、いつもは入れないベッドの下とか、棚の影とか、箱の中とか、どんな所にでも滑り込めてしまう。今の僕を止められるものは誰もいない。
相対的に広くなった部屋の中で楽しく駆け回っていると、突然ノックの音がした。
ぴょんと飛び上がり、鍵を開ける。僕は子犬の身体をしているが、頭脳は人間のままなのだ。
「……何やってるの、エンド」
ジト目でこちらを見下ろしていたのは、センリだった。
鋭敏になった嗅覚がその極上の血の匂いを感じ取り、頭がくらくらする。僕はふらふら近づくと、センリの足元に頭をこすりつけた。
「……くーん」
「エンド、多分その愛らしい姿は、貴方の呑気な内面を示している」
こんなに可愛らしい見た目をしているのに、センリの対応は一貫して冷たかった。
もしかしたら、犬よりも猫派なのだろうか。その辺にいた人には何回か抱き上げられたのに、センリには一回も抱っこして貰っていない。
いや、別にいいよ。構わないけどさ、僕はセンリが猫になったら毎回抱き上げるよ? 犬になっても毎回抱き上げる。そして、夜は同じベッドで寝るのだ。大型犬だったらベッドから下ろすけど、ペットというのはそういうものだ。
ぴょんぴょん跳ねながら声なき声で訴えるが、センリには通じない。
「貴方は……人間。忘れたの?」
「きゃんッ! きゃんッ!」
見てよ、センリ!
僕は――わんわんと鳴けないのだ。きゃんきゃんとしか鳴けないのだ! アルバトスは犬の状態でも人の言葉を話していたが、いつか僕もできるようになるのだろうか。
くるくる自分の尻尾を追いかけ回していると、センリは諦めたようにため息をついた。両手で両前足の下を掴み上げ、持ち上げる。
高い。高いぞ!
「わかった。しばらく付き合ってあげる」
「きゃんきゃん!」
「何して欲しいの? ブラッシング?」
センリの顔が大きい。自然と視線がその柔らかそうな首元に吸い寄せられる。
最近血を飲んでない。血が欲しい。
ぱたぱた尻尾を振るが、センリは抱きしめてくれなかった。むっとした表情で言い聞かせるかのように言う。
「駄目、エンド。貴方……舐めるつもりでしょ?」
「きゃんきゃん!」
「ごまかしても、駄目! 貴方は、人間。犬の姿をしていても、人間。おまけに、全裸。わかる?」
センリはしっかり犬に躾するタイプだな。
僕を下ろすと、センリは長い毛を手で梳きつつ、もう片方の手で僕が無闇に動かないように押さえつけた。
感触的には、背中を撫でられているような感じだ。
これなら、人間形態の時の方がずっといいな。人間形態の時なら言えば抱きしめてくれたのに……もしかしたら全裸な事が気になっているのだろうか。
僕はなんかもう慣れたよ……毛皮もあるしね。
「もう、騙されない。わかっている。エンド、貴方は…………調子に乗ると際限がない」
「くーん……」
仕方ないんだ。この年齢の子犬がやんちゃなのは仕方ない事なのだ。野性なのだ。
「犬の姿じゃ、反省しているのかしていないのかもわからない」
してるよ。反省しているよ。
でも仕方ないのだ。犬なのだから匂いも嗅ぐし、大好きなセンリが近くにいたら喜びの余り駆け回ってしまう事だってある。
顔が近づけば舐めもするし、センリがベッドで寝ていたら潜り込んでしまう事だってあるかもしれない。そして、もしも仮に思わず少しだけ血を貰ってしまってもそれは責められないだろう。
舌が出てしまうのも犬の本能だ。しまえと言われても困る。アルバトスは……出していただろうか?
「……絶対に、反省していない」
愛だよ。僕は血と愛に飢えているんだ。子犬は寂しいと死んでしまうのだ。
つぶらな瞳で見上げていると、センリが冷ややかな目で言う。
「……思考が劣化している。中身まで犬になった?」
「きゅーん……」
いいよ。今だけは犬でいい。抱きしめてくれて、その肌をぺろぺろさせてくれるなら喜んで犬になろう。
犬の振りをして連続でお手をしてみせる僕に、センリが言う。
「エンド、貴方は血が欲しいだけでしょ?」
「…………」
いりませんよ、そんなの。今の僕は犬だ。吸血鬼ではない、犬なのだ。
僕が欲しいのは愛だ。愛情が欲しいのだ。抱きしめてください。
澄まし顔でセンリをじっと見る。すると、センリは優しく微笑んで言った。
「…………一緒に、シャワーでも浴びる? その素晴らしい毛皮、洗ってあげる……」
「!!」
え? いいの!? そんなふしだらな……人間の姿の時にも見せてもらったことなんてないのに。
まぁ、いいですけど。いいですよ、僕は水嫌いのワンコですが主人が求めるのならばお供しましょう。
裸に興味があるわけではありませんけど。そもそも、お腹の傷を治した時に服をちょっと捲りましたし。でもまあ、いつかベッドの上で血を吸う時の予行練習くらいには――いやいや、これは違うんだ。いやらしい意味ではないんだ。
ただの吸血鬼の本能なんだ。人間が果物を食べる時に皮を剥くのと一緒で――。
凄まじい葛藤に、感情を表に出さないだけで精一杯な僕に、センリが笑みを消して、感情のない声で言った。
「エンド…………そんなに尻尾を振ると、尻尾が千切れる」
「!?」
後ろを見ると、信じられない事に、白くてハタキのようにふさふさした尻尾が、今まで見たことがないくらい勢いよく振られていた。
完全に無自覚である。犬の身体の予期せぬ弱点であった。凄い、犬の尻尾ってこんなに動くものなんだ……。
呆然と、別の生き物のように動き続ける尻尾を見る僕の頭を、センリがぽんと押して立ち上がる。
「さ、エンド。さっさと元に戻って。いい加減にしないと……私も本気を出さざるを得ない」
まずい、滅される。
くそっ、この尻尾が憎い……この正直者の尻尾がなければ一緒にシャワーを浴びられたかもしれないのに。
僕は一度哀愁漂う声で鳴くと、元の姿に戻るためにとぼとぼと部屋の中に戻っていった。
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