第十二話:交渉②

 アルバトスと紹介された女が今にも飛びかかってきそうな強い戦意の灯った瞳でこちらを見ている。まだ襲いかかってこない事が信じられないくらいだ。


 じっとカイヌシの目を見返す。

 その何を考えているのかわからない不気味な男は薄い革の手袋に包まれた手を擦ると、これみよがしに不愉快そうな表情を作り、言った。


「予想外か? 私だって、予想外だった。余程、滅却にとってお前の手の内にある者は貴重なのだろう。私は……狩り専門なのだが――」


「考える時間が欲しい」


「貴様に時間などない」


 僕の言葉に、隣のアルバトスがテーブルを握り、歯を剥き出しにする。細い指が食い込み、木製の分厚いテーブルにみしみしとひびが入る。正のエネルギーで強化しているようにも見えないのに恐ろしい膂力だ。


 だが、もちろん僕だって同じ事はできる。

 相手が強敵なことを予想していたからルールを反故にして血を吸ってきたのだし、何の策もなくこの交渉に挑んだわけではない。


 取引の内容だって予想外などではなかった。ただ、少しだけやり口が予想よりも……平和的だっただけで。

 僕の持つもので彼らが交渉してまで欲しがりそうなものなど、センリくらいしかない。


 少し、まずいかも知れない。

 僕は怪物だ。怪物である僕にセンリが同情してくれるのは、僕が狩られるものだからだ。その前提が崩れれば、センリが僕に寄り添う理由はなくなる。


 うまいやり方だ。終焉騎士団が約束を守るとは思えないが、負の力を隠すことができれば逃亡成功率は大きく上がる。


「僕は血を吸わなくちゃ生きていけない」


「知らん。負の力を隠せればいくらでも安全に獲物を得られる。お前が本当に無害な吸血鬼ならば、やり方はいくらでもあるだろう」


 僕の言葉に、カイヌシは顰めっ面を作る。


 ……やりにくいな。


 確かに、やり方はいくらでもある。

 吸血鬼が狩られる立場なのは、そのアンデッドが多くの場合、吸血衝動に酔いしれ獲物の血を吸い尽くして殺すからだ。

 加えて、真性の吸血鬼の場合は呪いで吸血対象を闇の眷属に変える事もできる。爆発的に勢力を増す吸血鬼は人類の敵そのものだ。

 だが、逆に、その特性を発揮しなければ、僕は限りなく無害でいられる。僕に掛けられた呪いはある分野に於いては有用だから、もしかしたら、誰かパトロンを見つける事もできるかも知れない。


 カイヌシが差し出した紙は契約書だった。


 その紙切れ自体には力がないだろうが、そこには、先程カイヌシの言った内容――ナイト・クリスタルと自由を代償に、僕が自らの意思でセンリから離れる旨が書かれていた。


「一筆、頂こう。血判も、だ。暴力で従わせたものではないという証明だな……それを持ってわがままな姫を迎えに行かねばならない」


「……証明にならない」


「なる、さ。吸血鬼は呪われている。死ねばその死体は塵と化す。死体から血判を押させるのは不可能だし、染み付いたお前の負の力を、終焉騎士は見分けられる」

 

 カイヌシの声は低く鬱屈した響きがあった。

 ……あのセンリならば納得し受け入れてもおかしくはない、か。


 懐に手を入れ、カイヌシが小さな革袋の中から、小指の爪の先ほどの結晶を机に置く。大きさは小さいが、見覚えのある結晶だ。


 ――本物だ。


 本能的に理解する。僕の身から常時放たれている負の気配を吸収し外への拡散を防ぐ結晶だ。

 その大きさで僕の気配を完全に隠せるのかは不明だが、ないよりはずっとマシだろう。喉から手が出るほど欲しい物だ。


「この大きさでも、滅多に出回らん、とても希少な品だ。くっくっく……夜の眷属ならば誰もが欲しがる品だよ。本来、下位レッサー程度が持つものではない」


「……センリには替えられない」


 一度、否定しておく。平穏な生活は僕の求める物ではあるが、所詮は石ころだ。二個目があったのだから、三個目も四個目もこの世には存在するのだろう。センリは世界で一人しかいない。


 僕の答えに、カイヌシは眉を顰めると、まるで諭すような声をあげた。



「お前は、センリ・シルヴィスの未来を狭めている。まさか、お前についていくことが彼女の幸せだと考えているわけではあるまい。人の理性があるのならば――解放するべきではないか?」



 これだ。この男は、僕の弱点を明確に見極めている。

 僕の強みは人間の精神を持つことで、弱みもまた同様だ。


 参ったな……眼の前の男に少しだけ、共感すら覚えてくる。力だけ強力な終焉騎士よりもやりにくいかもしれない。


「お前に誑かされ、姫が得たものは何かあるか? 経歴に傷がつき、かつての仲間に追われ、体調を崩し寝込む。お前は血を啜り、弱さを盾にしてその優しさにつけ込んだだけではないのか? 人の心を持っているのならば、よく……考えるがいい」


 言葉で、正論で詰められると僕は弱い。何故ならば、僕には正義がないからだ。

 その通りである。言われるまでもなく理解している。僕はセンリの弱さに付け込み、よりかかり、何も与えずそして――そうまでしても、生き延びたかったのだ。


 策が崩れた……かもしれない。

 僕はどうしたらいい? ……いや、決まっている。


 人間みたいに、大きく深呼吸をして、カイヌシを見上げる。


「センリは……僕に全てを与えてくれた」


「……」


「ああ、誤解しないで。与えてくれたって言っても、処女以外だよ。彼女は純潔のままだ。だから、終焉騎士団の一員としてもまだやっていける。いずれ――彼女を終焉騎士団に返す日が来るんじゃないかとは思っていた」


 どういう理屈なのかはわからないが、強い祝福は清き身体に宿る。

 だから、終焉騎士は男も女も、ほとんどが純潔らしい。それは彼らの弱点の一つで、夜の眷属や悪魔の中にはその弱点を率先して狙うものもいる。


 カイヌシの眉がピクリと動く。


「わきまえていた、か……私も面目が立つ」


 僕は、机に置かれたペンを取ると、躊躇うことなく一息にエンドの名を書いた。

 ここまであっさり要求に従うとは思っていなかったのだろうか。瞠目するカイヌシに、ペンを置いて言う。


「ただ、一つだけ言っておかなくちゃいけない事がある。僕がセンリを誑かしたんじゃなくて……センリが僕を誑かしたんだよ。僕が奪ったんじゃなくて、彼女が与えてくれたんだ。センリが僕を人間にした。カイヌシさんにはわからないだろう、人間だった自分が急に怪物になってしまった時の気持ちを。そして、そんな存在が人に受け入れられる事の喜びも」


 荒い息を漏らしながらも何も言わなかったアルバトスの瞳孔が窄まる。


 僕はテーブルの上の夜の結晶ナイト・クリスタルを取ると、懐のポケットに入れた。

 右手の親指の皮膚を噛み貫き、血の滲んだ親指を契約書に近づける。



「僕は…………センリが愛しくてしょうがないんだ。だから、それがセンリの幸せに繋がるのなら……喜んで解放しよう」



 力を込め、親指を契約書に押し付け、離す。契約書にはしっかりと僕の指の跡が残る。

 死んだら灰になるのに血判が残るとは、どういう理由なのだろうか。


 これでよかった。他の道など思いつかない。これでよかったのだ。後は――賭けだ。


 そんな事を考える僕の前で、カイヌシが契約書を持ち上げ確認すると、大きく頷き、懐に入れた。

 笑みを浮かべ、僕に向かって握手でもするかのように手を差し出してくる。


「話のわかる……吸血鬼ヴァンパイアで良かった。肩の荷が降りた」


「ところで、一つだけ確認したいことがあるんだけど……」


「…………なんだ?」


 手を握らず、椅子に座り直し、目を細めた。



 カイヌシとアルバトス。全く、恐ろしい使い手だ。僕の覚悟を、言葉を聞いても、二人の表情はあまりにも変化していない。

 怪物なのはこっちのはずなのに、まるで立場が正反対だ。



 そう、僕のイメージする……吸血鬼狩り、そのものだ。



 微笑みかける。今回の取引は本当にヒヤヒヤする物だった。

 そして、僕は疑問を口にした。


「その契約書、終焉騎士の許可取ってる? 僕の知る終焉騎士団は怪物に温情をかけるような甘い集団じゃないんだけど」



「……くっくっく……連中が私に、仕事を任せたのも、当然だな。お前は、察しが良すぎる」


 その腕が伸び、僕の腕を掴む。力が一気に抜ける。

 だが、その時には、僕はテーブルを大きく蹴り上げていた。


 大きく重い木のテーブルがひっくり返り、掴んでいた手が外れる。抜けかけていた力が急速に戻る。

 轟音が響き、一拍遅れて周囲から悲鳴と怒号があがる。


 完全に奇襲だったはずだが、カイヌシはテーブルに押しつぶされていなかった。

 素早く横にずれて回避したのか、集中する視線の中、平然と立ち、笑う。


 触られた瞬間に力が抜けたのは手袋の下に十字架でも仕込んでいたのか。テーブルを蹴り上げていなかったら手を振りほどけなかったかもしれない。


 だが、その瞬間、僕にあったのは深い安堵だった。


 吸血鬼狩りと吸血鬼の関係はそうでなくてはならない。


 カイヌシが腰から剣を抜く。酷く嫌な感じのする銀の剣だ。


 十字架だ。直感でわかった。


 あれは、吸血鬼の恐れる十字架の条件を明確に満たしている。握りと刃の大きさを考えればありえない大きな鍔の剣を握り、カイヌシが小さく笑う。


「悪く思うな、哀れな吸血鬼ヴァンパイア。契約は破っていない。その魂、せめて慈悲を以て滅してやろう」


 状況を察した客たちが悲鳴を上げ、これまで飲んでいた酒や摘んでいた料理を放り出して出口に殺到する。

 そうだ。人混みなど、吸血鬼狩りヴァンパイア・ハンターにとって意味をなさない。終焉騎士は人間を守ろうとするが、吸血鬼狩りは人を守ろうとすらしない。


 彼らが吸血鬼を狩るのは、金銭とそして――深い恨みが原因だ。

 終焉騎士団のように闇の眷属を圧倒できる祝福の才能なく、しかしそれでも諦めきれない強い感情を持つ狂人。


 たとえ千人殺しても一匹の吸血鬼を狩れるのならばそれを是とする。

 それが、吸血鬼狩りヴァンパイア・ハンターという者たちだった。


 片手で大きなテーブルを持ち上げ、アルバトスが吐き捨てるように言う。


「血を、たっぷり吸ってきたな。いくら綺麗事を吐こうが、匂いでわかるぞ……吸血鬼ヴァンパイア


「僕を殺して、その足でセンリに話をしにいくつもりか」


「なに、これはちょっとしたサービスだ。うちは個人でやっていてな……あの化物に、恩を売らねば」


 こじれたとしても許容範囲だということか。なるほど、彼らが受けた依頼は僕を殺す事だけらしい。


 逃がしてくれるつもりはないようだ。まぁ、それはそうだ。吸血鬼狩りが吸血鬼を狩らないのならば、名前を変えなくてはならない。


 しかし、まさか店から出してさえくれないとは……。

 カイヌシが懐から瓶を取り出し、中の液体を剣身に振りかける。ぽたぽたと水滴が剣身から垂れる。


 十中八九、アンデッドの身体を蝕む聖なる水だろう。絶対に受けてはならない。純粋な力はこちらの方が上だが、聖水の効果がどれほど強いのかわからない。



 僕とカイヌシは――少しだけ似ている。


 少しだけ親しみを込めて、笑いかける。カイヌシの眉が顰められる。そして、僕の札を切った。




「僕も……約束は破っていないよ。誰にも手紙の内容は話したりはしていない」


「……」



 話したりはしない。ただ…………手紙を見せただけだ。

 ここに来る際も一緒に来たりはしていない。ただ……そう、待ち合わせの場所で先に待っていてはもらったけど。



 危なかった。最後まで平和的な交渉を試みられたらどうしようもない所だった。

 まさか僕が、センリの幸せを願わない訳にもいかない。



「…………剣を、納めて」


 そして、僕の予定通り、冷たい声がほとんど人のいなくなった酒場内に響き渡った。

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