第二十二話:慈悲深き死神
その声は完全に予想外だった。
アンデッドである僕は正のエネルギーを察知できる。だが、それは極わずかな量でも完璧に察知できるわけじゃない。
耳を澄ませなければ小さな音を聞き取れないように、何かに気を取られていれば見逃すこともある。
油断していた。センリは一度倒れたのだ、まだ半日も経っていないのに戻ってくるなどどうして予想できようか。
最終的には後片付けに戻ってくるとしても、一晩の猶予はあると思っていた。
吸い込まれるような紫色の瞳がこちらを見ていた。
その容貌には何の感情も浮かんでおらず、心臓が動いていたら止まりかねない程、恐ろしい。
「貴方――」
僕は刹那の瞬間、考えを巡らせた。
まず最初に確認したのは、センリに仲間がいるかどうかだった。センリが連れていた四人の終焉騎士は……いない。これは朗報だ。
次に、彼我の力量差を確認した。センリはロードとの戦いで疲れ切っている。だが、身に秘めた正のエネルギーは、ここを立ち去る寸前に見たものよりも随分回復していた。完全には程遠いようだが、正真正銘の――化物だ。
格好は少し汚れていたが、大きな負傷もない。そもそも、ロードとの戦いで粘りを見せた所から察するに、センリはたとえ死にかけだったとしても戦闘中に覚醒しそうである。
物語の中では、そんな感じで
最後に、相手の僕に対する認識を想像した。
僕は既に、街でルウと一緒にいる所を見られている。ルウは(十中八九)終焉騎士の手によって殺されたわけだから、ルウと共にいた僕を敵と判断するのは至極当たり前に思える。
センリはじっと僕を見据えていた。だが、本当に極一瞬、ちらりと空に輝く太陽に視線を向けるのがわかった。
陽光の下で動けるアンデッドは低位の者だけだ。陽光の効果を受けているようには思えないのに本能に任せて襲いかかってこない僕を、アンデッドだと判断すべきか迷っているのだろう。
負のエネルギーは隠せているので、一見アンデッドには見えない。だろう、本当なら。
銀の矢に触れた事によって焼けただれ、まだ鋭い痛みを訴える右手を握りしめる。
祝福された銀の矢は
今更隠しても無意味だ。センリがそれに気づかないわけがない。
そもそも、仮に僕が人間だったとしても、ロードの仲間の時点で討伐対象だろう。終焉騎士団は攻めの集団である。子供向けの御伽噺の中でも、死霊魔術師に操られた街の人々を容赦なく打ち倒すシーンがあるくらいなのだ。
センリが何故一人で戻ってきたのかがわからない。
だが、逃げたら殺される。襲いかかっても殺される。それらの素振りを見せるのは逆効果だ。
ならば――説得するしかない。
僕がセンリならば僕を逃したりはしないが、センリは僕ではない。
街で見た彼女には、他の三級騎士達と少し違った様子が見えた。三級騎士になくてセンリにあったもの……それは、慈悲だ。
僕達を人間だと思いこんでいたからかもしれないが、彼女は僕たちを助けようとした。
正直に言おう。ここに来たのがセンリではなく、三級騎士だったら、恐らく僕はもう死んでいた。
三級騎士でも二級騎士でも、僕にとっては対抗できない死神には変わりないから、やってきたのがセンリだったのはむしろ幸運だった。
彼女は、違う。御伽噺に出てくるような苛烈な終焉騎士と比べて、慈悲深い。そしてそれは隙である。
僕は努めて平静を保ち、悲しそうな表情を作ってルウの墓を見た。
「生前、ルウに、墓を作るように……頼まれたんだ。彼女が安らかに眠れるように祈っていた」
「…………そう」
口から出てくる言葉は素っ気なかったが、その眼差しに一瞬憂いが過るのが見えた。
敬語ではないのは、こちらが素だったのか。まだ油断は出来ないが、すぐにこちらを消滅させるつもりはないらしい。
フレンドリーに対応するのだ。人間味を見せるのだ。僕はまだ彼女の前でアンデッドっぽさを見せていない。
「えっと…………センリ、だっけ? センリは何をしに来たの?」
センリは墓を見つめながらしばらく沈黙し、やがてぽつりと言う。銀の髪が穏やかな風で揺れている。
「………………彼女の、遺体を取りにきた。街で葬ろうと」
その言葉は、僕にとって予想外のものだった。
「そうか…………それは、余計な事はしなければよかったな」
心の底から思う。ルウの墓を作らなければ、僕はセンリが来る前にここを去れたのだ。
ルウも、こんな森の中で墓を作ってもらうよりも、街で綺麗な墓に眠ったほうが嬉しいに決まっている。
約束があったからしょうがないのだが、終焉騎士団がそんな殊勝な団体だったとは思わなかった。
苛立ちを表に出さないように黙り込む僕に、センリが距離をつめ、僕の隣に立ち墓を見下ろす。
白い柔らかそうな首筋。その肉からは強烈に食欲を誘ういい香りがした。
爪を伸ばし、腕を振るえば到達までに一秒かかるまい。だが、その選択肢を取ることはできない。彼女に僕を攻撃する口実を与えてはならない(僕がアンデッドな時点で十分口実になるんだが)。
「友人、だったの?」
友人? ルウが聞いたら、怒りそうな単語だ。
僕とルウは友人などではない。最後には約束を交わし手を組んだが、どちらかと言うと終始敵対の立場にあった。
僕は顔を押さえ、センリと同じくらい沈痛な声を作っていった。
「いや…………家族、だよ」
「…………」
心に訴えかけろ。センリの、この慈悲深き死神の同情を誘え。
いける。ここまで死んでいないのだ。僕ならばいける。どんな卑劣な手段も使おう。
幸い、取り繕う必要はない。自分で言うのもなんだが、生前からずっと僕は可哀想な人間だった。
「だが、ようやくルウは安らかに眠れた。このままホロスの奴隷でいても未来はなかった。彼女は無意識の内に、死を望んでいた。センリは恩人だ」
「そんな事、ない……」
僕の持ち上げに、センリは眉一つ動かさずに押し殺したような声で言う。
表情がほとんど動かないので感情が分かりづらいが、情に厚いのは間違いなさそうだ。
僕は、賭けに出た。
時間は僕の味方ではない。いつまでもセンリが戻ってこなければ、終焉騎士団の仲間が探しに来る可能性はある。
自分の眼を指差し、深々とため息をついて言う。
「こういう時、アンデッドの身体は不便だな。こんなに悲しいのに――涙が出ないんだから」
「ッ!? 貴方、やっぱり……ッ!」
センリの表情が確信に変わり、素早く一步距離を置く。これは、彼女の間合いだ。
剣は抜いていないが、僕は今、死地にいる。だが、僕は焦らない。慎重にいくのだ。
僕は敵意がないことを示すために頑張って笑みを浮かべ、両手を開き、大きく上げてみせた。
「ああ。僕は……『
「………………え?」
これまでほとんど変化がなかったセンリの表情が変わった。大きく目を見開き、敵意のない瞳で僕を見る。
ホロス・カーメンは最後まで僕に生前の記憶が残っていない事を疑わなかった。そして、どうやらセンリの表情を見るに、それは相当レアなパターンのようだ。
勝った。ルウの胸に刺さっていたのは矢だった。センリの武器は剣だ。
彼女には哀れな人間は斬れない。身体が化物でも、人間の知性と理性が残った僕を、彼女は斬れない。
たとえ誰も彼女を責めなかったとしても、センリは他人に共感しすぎている。
終焉騎士としては致命的なまでの甘さだ。戦闘能力はとてつもないが、センリには余りにも人間味がありすぎた。
脚色はいらない。ありのままの経緯を語るのだ。
僕はこれみよがしと本来不要な呼吸をしてみせると、可哀想なエンドの話を開始した。
§
センリは僕の話を無表情のまま、黙って聞いていた。だが、そのアメシストを思わせる瞳には終始、動揺の波が奔っていた。
恨みはなかった。生前の僕にあったのは苦痛と絶望だった。努力の余地などなく、僕は生への執着だけを残し短い生を終えた。
再び目覚めることができたのは、そしてアンデッドとなった後も記憶が残っていたのはまさしく――奇跡だ。
理由はわからない。アンデッドとしての復活は、僕が意図したことではない。
だが、僕は幸福だった。こうして再び自分の足で立つことができたのは、森を走り回れる事が出来たのは、幸福だった。
果たして、人間を襲わない、襲う必要のないアンデッドと、人間の違いは――なんなのだろうか?
そんな事を、言外に訴えかけていく。昔読んだコメディに出てきた陽気な詐欺師の物語を思い起こしながら、エピソードを積み重ねる。
「そう。あの手紙は…………」
「ルウが、協力してくれた。ホロス・カーメンは恐ろしい儀式を企んでいた。彼がいたら、彼は僕に人を襲うよう命令していたかもしれない。それは、絶対に避けたかった。センリ達、終焉騎士団が近くの街まで来てくれていたのは幸運だった。おかげで僕はまだ、人間でいられる」
言葉を選び、許される理由を積み重ねていく。
センリが瞳を伏せる。僕は嘘はついていない。
僕は人を襲ったことはない。森からほとんど出ていないからだ。
僕は人を襲いたくはない。終焉騎士団という敵を作りたくないからだ。
だが、生き延びるために必要になったのならば、僕は躊躇いを捨てて人間を襲う怪物になるだろう。
僕は理性的だ。理性と、人間の知性を持った怪物なのだ。
客観的に見て、とても恐ろしい怪物である。僕が終焉騎士団だったら、絶対に許さない。
ある意味、才能に溢れたセンリよりもアンデッドの僕の方が終焉騎士に向いているかもしれないのは、とんでもない皮肉だろう。
「幸い、この森に人間はいない。僕はこの森でルウの墓を守って、静かに残りの人生を生きていくつもりだ。食べるものは獣を狩ればいい。これまでもそうやって生きてきた」
「……そう」
「ダメかな?」
いつの間にか、太陽は沈みかけていた、簡素なルウの墓が、綺麗な朱色に染まる。
答えを待った。浄化されかけていた手の平の傷は既に消えていた。
夜は僕の、アンデッドの時間だ。屍鬼は弱いアンデッドなのでそこまで強化されないが、昼間よりはずっとマシになる。
センリは迷っていた。一秒が一分にも、十分にも感じられた。
僕は微笑みを浮かべたまま根気よく答えを待った。いや、それしかできなかった。
今逃げればセンリは追ってくる。そして、低位のアンデッドである僕の足が、竜を容易く吹き飛ばし、ロードを百二十回弱殺せるセンリに敵うとは思えない。たとえ夜でもそれは変わらない。
センリに自覚はないが、彼女は今、僕の喉元に剣を突きつけているに等しいのだ。
そして、センリがついに顔を上げた。既に瞳に迷いはなかった。
その瞳は怜悧で、声にも感情は込められていなかったが、そこには慈悲があった。
「…………わかった。生前の記憶があるアンデッドとは初めて出会うけど……エンド、貴方には確かに理性が残っている。そういう事ならば、問題ない……と、思う」
最後の言葉にはどこか迷いが含まれていた。だが、その言葉には強い覚悟があった。
恐らく、仲間たちを説得するつもりなのだろう。
彼女はどこまでも正しく、どこまでも優しい。
ほっと息をつき、墓を見下ろす。
「よかった……多分、ルウも喜んでると思う」
「…………明日、また来る。必要な物があったら、言って。持ってくるから」
「そこまでは、頼めないよ。でも、そうだな……ルウに供える花があれば持ってきてほしい。この森はろくな花が生えていないみたいなんだ」
「…………わかった。必ず、持ってくる」
センリが強く頷く。
眩しい人間だ。生前を含め、彼女の魂は多分、僕が出会ってきた人間の中で最も汚れがない。
彼女は、人を信じている。普通に生活していたらこうはならない。
僕が憧れた終焉騎士団とはちょっと違うが、その資質は客観的に見てもとても尊く映るだろう。
だから、そんな純粋な彼女を騙すのはとても…………心が痛む。
空が薄闇に変わる。センリは目をつぶりルウの墓に祈りを捧げると、森の出口の方に向かって歩きだす。
恐らく、二度と会うことはないだろう。僕はセンリがいなくなったら、すぐに森を去るつもりだ。
センリの白銀色の髪が揺れている。僕は最後に、その背中に声をかけた。
一つだけ、疑問が残っていた。アンデッド討伐のエキスパートであるセンリなら知っているかも知れない。
「センリ。そう言えば、ホロス・カーメンが言っていたんだ。『死者の王』を作る、と。もうどうでもいいことかも知れないけど、『死者の王』ってなんだか、知ってる?」
センリはぴたりと立ち止まると、こちらを振り向く事なく、なんでもないことのように言った。
「『死者の王』というのは……一級に分類される
§
センリの気配が完全に消え去るのを待って、僕は行動を開始した。
急がねばならなかった。
センリは、僕を見逃すという選択肢を取った。森でずっと過ごすという僕の提案を受け入れた。
恐らく、あの言葉はセンリの本心だ。出会って間もないが、彼女が嘘をつけるような人間ではない事は明らかだ。
だが、恐らくセンリは仲間たちを説得できない。
当然だ。僕は生前の記憶を持っているが、紛れもない化物である。闇の眷属の討伐を神命とする終焉騎士団が見逃す訳がない。
終焉騎士団に憧憬を抱いていた僕は彼らの事をよく知っている。他の騎士が残酷なのではない。センリが『異質』なのだ。
センリは仲間たちに僕の事を黙っているだろうか? それもありえない。彼女は愚かではないが、余りにも人を信じすぎる。
もしも黙っていたとしても、遺体を回収に向かったのに何も持たずに帰ってきたセンリを、仲間たちはどう捉えるだろうか?
仲間たちに問いただされればセンリは言うだろう。そして、僕のために、慈悲を乞うのだ。僕がセンリにやったのと同じように。
間違いなく、殺しに来る。集団で、殺しにくる。彼らの姫を口車に乗せて騙し、生き延びようとした醜い僕を殺しにくる。
人に認められようなどとは、受け入れられようなどとは思わない。僕は既に闇に生きる怪物だ。
生肉を食らう怪物で、長く生きれば血も吸うようになるだろう。
僕の望みは、何も変わっていない。僕の望みは――ただ、生きる事だ。生存と自由だ。それ以上の目的はこれから探す。
ルウの墓から離れ、屋敷の跡に向かう。
目的は、逃走時に持っていかなかった鉈だ。
センリが街にたどり着くまでまだ時間はある。爪は伸ばせるが、武器は必要だろう。振るうにせよ振るわないにせよ、あれも一種のロードの形見のようなものである。特別な品だ。
そう言えば、センリは『死者の王』の事を、アンデッドと化した死霊魔術師だと言った。
もしかしたら、日除けの外套や影のアミュレットは、ロードが自分のために用意した物だったのかも知れない。
ロードの研究室があった場所の瓦礫をひっくり返し、苦労して漆黒の鉈を見つける。ついでに、鞄を始めとした旅装も手に入れる。
その頃には、すっかり闇の帳が森を覆っていた。銀色の月だけが世界を照らしている。
夜目はきく。視界は確保されている。夜は僕の時間だ。
地図がないのでどこに行けばいいかわからないが、なるべく遠くに逃げよう。
センリには悪いことをする。だが、しょうがない事だ。
僕は……彼女ほど人を信じられない。
鉈を数度振り、早足で屋敷の柵を越える。
センリが向かっていった方向とは反対方向に歩みだしたその時、
――どこからともなく、名を呼ぶ声がした。
『エンドよ――ようやく、時が来た。死者の王の器よ』
まるで地獄の底から響き渡るかのような仄暗い声。背筋に冷たい何かが通り過ぎる。
とっさに腰に下げていた鉈を抜き、素早く周囲を確認する。
それは――宙にいた。湧き上がった怖気を、舌を噛んで掻き消す。
銀色の月を遮るように浮遊し、生前と変わらぬ顔で僕を見下ろしていた。
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