第十一話:死者の王

 渾身の一撃だった。長く伸びた爪がロードの頭蓋を易易と貫く。


 ルウが僕の突然の暴挙に、目を愕然と見開く。しかし、もう遅い。


 興奮はなかった。ただ昏い喜びだけがあった。もしかしたら、それは僕が怪物になってしまった証明なのかもしれない。


 柔らかに頭蓋を貫いた爪を引き抜く。熱い血液が飛び散り、自然と表情に笑みが浮かぶ。


 取った。これで、僕は自由だ。後はさっさと森から出てどこにでも逃げればいい。

 終焉騎士団と争うつもりはない。さっさと森を出てどこへでも逃げればいい。どこか似たような森の奥で、獣を狩って生きればいいのだ。新たなる人生に、飽きるまでは。


 ――そこで、ふと、ピシリと何かに罅が入るような音がした。


「なんと――これは……どういうことだ」


「ッ!?」


 聞こえるはずのない声が耳を打つ。

 理解できなかった。数拍遅れて、ようやく身の毛もよだつような恐怖が全身を襲う。


 確かに、僕の爪はロードの頭を貫いたはずだった。ロードは避けもしなかったし、防ぎもしなかった。


 声の元は目の前だった。確かに頭蓋を斜めに切り裂いたはずのロードが、先程と同じ姿勢のまま、平然と声をあげていた。

 爪が根本まで突き刺さったはずの頭には傷跡一つない。


 馬鹿な――ありえない。ロードはアンデッドではない。屍鬼である僕には、ロードが生命ある人間である事がはっきりと分かる。


 いつの間にか、爪に付着していたはずの血が、飛び散ったはずの血痕が消えていた。


 ありえないありえないありえない。僕は確かに――ロードを殺した。殺した、はずだ!


「既に、知能が――あるのか。あったのか……面白いぞ」


「ッ!!」


 まだだ。まだ終わってはいない。

 裂帛の気合を込め、腕を全力で突き出す。目指すは頭部ではない。心臓だ。

 五本の突き出した爪は易易とロードの痩せた背をローブごと貫き、身体の中心に大きな風穴をあける。生暖かい血の感触が手の平に伝わり、ごぷりという血の流れる音があがる。


 再び、ピシリと不思議な音が聞こえる。

 眼の前の体幹を貫かれたロードから、まるで怒りを感じさせない、称賛するような声が出される。


「頭部を貫いたのが、死ななかった理由では、ない。だが、賢い。賢いな。いつから知恵をつけたのかは知らんが――位階変異を経た後も、じっとしていたのか? 虎視眈々と私の命を狙って? ふふふふふ……期待していなかったが、予想以上に素晴らしい……素体だったようだ。……ハックには――礼を言わねば」


 怪物だ。屍鬼の僕だって、心臓を貫かれれば無反応ではいられない。

 

 ありえない。これが――死霊魔術師ネクロマンサーなのか。


 正面から敵わない事は理解していた。だから僕はこれ以上ないタイミングで攻撃を仕掛けたのだ。

 折れそうになる心を、飢えと生存欲求が支えている。


 腕を抜き出す。外に出した瞬間、確かに僕の腕にこびりついていたはずの肉片や血液がまるで霞のように消える。


 刹那の瞬間で考える。


 どうする? 頭蓋や心臓を損傷して生きていられるような生き物を、どうやったら殺せる?

 いや――違う。致命傷を受けても生きていられるのではない。これは、超回復力とか、そういう話ではない。そう、まるで、何らかの手段で、攻撃が――なかったことになっているかのような――。


 逃走は出来ない。防御もできない。判断は一瞬だった。

 殺せるまで殺す。初めて、僕はロードの前で咆哮する。


「あああああああああああああああッ!」


 逆袈裟に爪を振り上げる。鋭利に伸びたその先がローブを切り裂く直前、ロード・ホロスの声が僕の咆哮を切り裂き耳に入った。


「止まれ」


 命令が雷となって身を貫く。

 腕が痙攣し、急制動を受けた事で自壊した。ぷちぷちと腕の組織が弾け、鈍い痛みが襲う。アレほど忠実に動いていた僕の肉体が、自由自在に動いていた肉体が、僕よりもロードの命令を優先している。


 爪先が再び肉に届く事はなかった。

 そのローブに触れるか否かというところまで差し迫った爪は、どれだけ力を込めようとしても、それ以上進むことはなかった。

 僕はそこでようやく、自分の負けを受け入れた。


 駄目だ――勝てない。絶対に勝てない。眼の前の男は――怪物だ。僕などとは比べ物にならない怪物。


 命令通り一步も動けない僕の前でロードがゆっくりと振り返る。その表情には怒りはない。ただ、昏い愉悦だけが張りついていた。


 それが、彼我の実力差を如実に示していた。このロードにとって、ルウの虚偽報告(実際は真実だったわけだが)で怒りを示した眼の前の男にとって、僕が千載一遇の好機を狙って起こした反乱など、怒る程のものではないのだ。


 命の危険があったのならば、ロードの表情も少しは変わるだろう。万に一つ、億に一つも、僕の反乱は成功しなかったのだ。

 ロードがまるで僕を甚振るかのように種明かしをする。


「くくくくく……エンド、貴様は賢しいようだが――魔術を知らん。貴様の敗因は、我が命が、ふふふ……『たった一つ』だと考えていた事だ。ああ、しゃべることを、許可する」


「どういう、事だ――」


 先程から、ずっと攻撃を仕掛けようとしているが、まるで全身が石になってしまったかのように動かない。

 ロードは深い笑みを容貌に表しながら、ゆっくりと懐から銀色の丸い石を取り出した。


 今まで見たことのない、不思議な光沢を持った石だ。元は滑らかな球形をしていたようが、今はそこに大きな罅が入っている。


「くくく……私は――この命を百二十に分けている。貴様が殺したのは、その内の二つに過ぎん。我が配下である貴様が私を殺すには、刹那の瞬間で百二十の死を私に与える必要があると、そういう事だ。一流の死霊魔術師ネクロマンサーならば、皆やっていることだ」


 罅が広がり、ロードの手の中で銀の球が粉々に砕け散る。だが、そんな物は見ていられない。


 百二十の命……だって!? ありえない。僕が生前読んだ御伽噺の中でさえ、そんな話は出てこなかった。卑怯にも程がある。


 だが、同時にロードの自信の理由を理解し、納得する。

 それが本当なら――絶対に勝てない。一度や二度ならば奇襲で潰せても、百二十もの命を殺し尽くすのは不可能だ。僕の反乱は最初から成功の目がなかった。


 強い後悔が身を襲う。だが、どうしようもなかった。あの時はそれ以外の選択肢はなかった。遅いか、早いかだけだ。


 重要なのはこれからだ。


 僕はこれから――どうなる? 反乱を起こした屍鬼を、目の前の男はどう処断する?

 睨みつける僕に、ロードが嗤い、命令する。


「だが……これからも狙われては溜まったものではないな。エンド。今後、私に対する一切の攻撃行動、不利になりうる行動を禁じる」


 やはり――そうくるか。

 だが、ついさっきまでは死んでも聞きたくなかったその言葉にほっとする。何故ならば、その命令は現時点で僕を殺す気はないという事を示しているからだ。


 そして、そのほっとした事実に僕はどうしようもなく絶望した。


 新たな疑問が幾つかできたが、それはとりあえず捨て置く。


 くじけてはならない。今必要なのは――絶対の意思、どろどろとした信念だ。

 ホロス・カーメン。殺す。絶対に殺してやる。生前に感じていた、眼の前に迫る絶対の死と比べれば、お前など取るに足らない存在だ。


 どんな手段を使ったとしても、たとえ何年、何十年経ったとしても――自由を勝ち取るのは、この僕だ。


「くくく……凄まじい戦意。絶対的な力の差を感じ取って衰えぬ漆黒の意思。位階変異を経て、自我を得て尚、それを勘づかせず身を潜める知性。貴様こそ、我が悲願たる死者の王よ。長きに亘る我が願いの成就ももう目前か。不死殺しの終焉騎士団が目前に迫っているが……ふふふ、はははは……」


 目がぎょろりと動き、ロードが高々と嗤う。

 双眸が闇の中、強く輝いていた。アンデッドにされる寸前で捨て置かれたルウが、床にうずくまったまま震えるのが見える。


 笑え。いくらでも笑うがいい。僕は最後に笑えれば――それでいい。

 

「我が力に、なってもらうぞ。エンド。貴様の意思など無関係に、な」


「僕を自由にしろ。従ってやる」


 もう反抗はバレている。形だけの恭順など無駄だ。そして、きっとそれがロードの望む所でもある。

 睨みつける僕に、ロードは予想通り、愉快そうに笑った。


「ああ、病死と聞いていたが、なんと凶暴な男だ! だが、いいだろう。エンド、動くことを許可する」


「……もう一度、命令しろ」


「? 動く事を、許可する」


 先程までまるで全身を固められたかのように動かなかった肉体が、その声を受けた瞬間、あっさりと自由を取り戻す。

 僕は即座に反転し、扉に向かって全力で駆け出した。鈍く痛む腕を意に介さず、全力で床を蹴り、階段を駆け上る。


 階段を上る僕の背後から、慌てたような叫び声が上がる。


「エンド、逃げるな!」


「ッ……」


 やはり、無理か。いや、無理だとは最初からわかっていた。だが、試さずにはいられなかった。

 足を止める僕に、ロードが呆れたような声を上げながら近づいてくる。


「油断も隙も、ないようだな。だが、それでこそ――死者の王の資質よ」



§



 そして、翌日から僕の囚われの日々が始まった。

 表向きは変わらないが、全身を目に見えぬ鎖でがんじがらめに縛られた日々が。

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