第十話:悪意
ロードの、老獪な魔導師の用心深さを見誤っていた。いや、僕の知っている世界はあまりにも狭かったのだ。
僕の情報源は書物だけだった。そして、その書の中に監視の魔法についての記述はなかった。
だが、知ってどうにかなるかは別にして、予想くらいはしておくべきだった。ロードの使った魔術は明らかに死霊魔術ではなかったが、死霊魔術師が死霊魔術以外使ってはならないなどという決まりはない。そもそも、僕には文句を言う権利はない。
描いた奇妙な魔法陣から現れた無数の梟は窓から解き放たれ、夜の森に散っていった。唯一幸運だったのは、ロードが梟を屋敷の中に残さなかったことだ。だがその幸運もこの状況を打開する上で役に立つとは思えない。
ロードはルウを呼び出し、怯える奴隷に鋭い声で命令した。
「ルウ、奴らが戻ってきたら餌をやれ。あれらは使い魔――我が眼にして耳、お前よりもよほど役に立つ忠実な下僕よ」
「は、はい。かしこまり、ました……旦那様。それで……その……餌は、何をやれば――」
「肉だ。血の滴るような、新鮮な、生肉。手を加える必要はない」
ルウは怯えていたが、僕はそれどころじゃなかった。
眼や耳。最悪だ。僕には無数のロードの使い魔の眼を掻い潜り夜の散歩を楽しむような技術はない。
屋敷を徘徊していた
だが、あの梟は違う。眼と耳などという表現をしたのだから、恐らくその眼や耳に入ったことはすぐさまロードに伝わるのだろう。
この状況で夜に狩りに出るのは――無理だ。あまりにもリスクが高すぎる。ただでさえ今のロードは周囲を警戒しているのだ。
夜の狩りは僕にとって二つの意味を持っていた。
力を蓄え、位階変異を加速させる事と――食事だ。そして今、問題なのは特に後者だった。
アンデッドの位階変異は単純な強化ではない。新たに短所が増える事もある。
メリットとデメリットは表裏一体だ。
可能なのではない。必要なのだ。
屍鬼が持つもの。それは――強い飢餓感だ。それも、理性を完全に吹き飛ばしかねない、強烈な飢餓感である。
恐らく、それが屍鬼が人を襲う最たる理由であり、そのアンデッドが鬼と称された理由なのだろう。
僕が変異当初味わったそれはまさしく、生前経験したことのない類の地獄だった。
脳を焦がし、本能を揺らす衝動。思考は『食べたい』の文字で埋め尽くされ、眼の前にいたロードやルウ、ロードの使役する他のアンデッドに至るまで、あらゆる物が『食べ物』に見えた。
僕がその衝動をなんとか耐え、夜間にひっそりと狩りに向かう事ができたのは、ただ運が良かったからだ。
かろうじて、ほんの少しだけ、生存欲求が食欲を上回った。僅かなボタンのかけちがえが発生していたら、僕は食欲に支配された鬼と化し、二度と生存欲求を食欲の上に置くことはなかっただろう。
屍鬼の食欲は根性で耐えきれるようなものではない。
ただでさえ少なかった時間がほとんどなくなった。僕の経験上、何も食べない場合、屍鬼の飢餓感はおよそ三日で限界値に達する。
そこから先は理性との勝負だ。前回は半日持った。今回もそれくらいは持つだろう。
だが、その状態に陥った時点で僕の負けだ。
屍鬼の力は飢餓感に反比例する。空腹になればなるほど、僕の力はどんどん低下していく。
どこまで下がるのかは知らないが、あまり悠長にしている時間はないだろう。
ロードに付き従い、狩りを行う。力が入らないが、その状態でも狩り慣れた魔獣が相手ならば問題ない。バックアップもある。
火種のようにくすぶる飢餓感を押し殺し、ただ淡々と命令に従う事だけに集中する。
眼の前の生きた肉の塊を殺し、殺し、殺す。腹が減った。血飛沫が飛び、温かい死体が転がる。だが、今手をつける訳にはいかない。
もしも僕が、知性を持つ屍鬼に変化したことを知ったら、ロードは僕に枷を加えるだろう。今、この段階で強い枷がつけられていないのはただの幸運なのだ。
僕はどうするべきか決めあぐねていた。もともと僕は、狩りを重ね力をためつつ、隙を狙って寝込みを襲うつもりだった。
だが、今のロードは常時警戒状態だ。追い詰められている。
弓なりに飛来してきた礫を鉈で防ぎ、樹木の上に潜んでいた黒色の猿を袈裟懸けに切り裂く。
唯一の光明は――位階変異だ。次に位階変異が発生して屍鬼でなくなれば、ここまで飢えに苛まされることはなくなるはずだ。問題の根本解決にはならないが、とりあえず時間稼ぎになる。
ありえるだろうか? 僕が屍鬼になるまでにかかった期間は三ヶ月程度で、一般的な死肉人の位階変異の時間――半年から一年――よりも遥かに短い。だが、次の位階変異は本来、数年かかるものなのだ。
奇跡。奇跡が必要だ。
空腹を思考でごまかし、取り囲んでいた夜狼の群れを剣でなぎ払い血祭りにあげる。そこで、ふいにロードが訝しげな声をあげた。
「……エンド、貴様、動きが悪くないか?」
「……」
「何かあったか? 傷は……ないようだが」
「……」
ロードの濁った目が、まるで作品の調子でも確認するかのように僕を検分する。
一瞬ひやっとしたが、黙って立っているとすぐにロードは気の所為だと思ったのか、次の獲物を探すべく命令を出してきた。
……どこに違和感を抱いたんだ?
一瞬言い知れない苛立ちを感じたが、落ち着いて考えてみると、こちらは空腹を全力で耐えながら戦っているのだ。
いつも僕の戦闘を近くから見ているロードが何か違和感を感じても不思議でもなんでもない。いつも通りの動きをしているつもりだったが、どうしても気は急いてしまう。
ただ無心で武器を振る。振る。振る。血が飛散し、一滴が偶然口の中に入る。
僕は酒を飲んだ事がないが、酩酊とはもしかしたら今のような状態の事を指すのかもしれない。胃袋の奥底から凄まじい熱が食道を駆け上がり思考を揺らす。
足りない。血だけでは足りない。膨れ上がった食欲が理性を揺さぶり、足元がふらつきかける。
「どうした!? エンド、何があった?」
明らかに精彩を欠いた動きだった。ロードが鋭い声を飛ばす。
一滴の血では飢えは全く満たされなかった。
駄目だ。まだ、駄目だ。バレてはならない。僕は生き延びなくてはならない。
目的はない。理由もない。僕はただ――生きたいのだ。たとえそのために何もかもを犠牲にすることになったとしても。
表情に出さずに丹田に力を込め、どうしようもない飢餓感を理性で上書きする。火で炙られるようなじわじわと来る焦燥感を耐えきる。
そして、僕は何とか怪しまれることなく、その日の狩りを終える事に成功した。
ロードと共に屋敷の中に戻ると、いつもは出迎えなどしてこないルウが現れた。
暗闇の中、手にとった燭台に照らされたその顔は疲れ切っていて生気がなく、しかしその目だけがいつもと違い得体の知れない輝きを持っている。
嫌な予感がした。傲岸不遜に腕を組み、不快なゴミを見る目で見下ろすロードに、ルウが掠れ声で言う。
「旦那、様…………その……私の、こ、言葉が、正しい証拠を、見つけました…………」
§
食欲と生存欲求が身体の中で戦っている。体温などないはずなのに、身体の中から燃えるような熱を感じた。
今はルウなどかまっている暇などないのだが、ルウの二つの目は、何ら彼女に害を与えていない僕を告発する、暗い喜びに満ちていた。
ルウが、憤懣を押し殺すロードと、全力で空腹を我慢する僕を案内したのは、いつも僕が収められている地下室だった。
何を見つけたというのだろうか? 死体安置所に僕が動いた形跡などない。床は石畳だし、僕は自分が動いた証拠をできるだけ残さないように注意していた。
そもそも、部屋にはほとんど物がないのだ。家具も棚と死体の乗った石台ぐらいしかないし、死体はロードの物なので触れないように注意している。
「こ、こちらです、旦那様…………」
地下室にたどり着くと、ルウは身を震わせ、迷いのない動きで棚に向かう。
そこで、僕はようやくルウの見つけた物に思い当たった。
表情が強ばる。一瞬だけ食欲を忘れる。
ルウが手を掛けたのは下から二番目の引き出しだった。もともとは何も入っていない引き出しで――今は、僕が見つけた、ロードの図書室で埃を被っていたアンデッド図鑑が入っている。
ルウが一度目の僕を告発してから、図書室には行かなくなっていたが、その前に運びしまったままだった物だ。僕が読書をするために隠し持っていた書物の一部である。
僕の知る限り、ロードもルウもこの死体安置所の棚に触ったことは一度もなかったので、油断していた。
彼女は僕が本を読んでいる事を知っていたのだから、その時点で証拠を隠滅するべきだった。
おそらく、ルウはロードに一度目の告発を退けられてから、僕が動いた確固たる証拠を探していたのだろう。
まさかあれほど疲れ切っていた女が、僕の目を欺きそこまでやるとは、人間の悪意とは底が知れないものだ。
訝しげな表情をするロードの前に、ルウがアンデッドの図鑑を持ち上げてみせる。
僕もルウもロードの下僕だ。同じ立ち位置なのに、どうしてそうも僕を苦しめようというのか。
指先がピクリと震える。動けない。僕は、動けない。
「い、いかがでしょう、旦那様。ここ、には、本は、なかったはずです。こいつが、このアンデッドが、図書室から本を持ち込んだのですッ!! この男は、旦那様に――」
震える声で告発するルウ。
ロードは差し出された本を受け取ると、しばらく何か考えるように沈黙し、地獄の底から響くような低い声で言った。
「…………で、この書が、貴様の手に寄って持ち込まれた物ではない証拠はどこにある?」
「…………え?」
勝った。どうやらロードのルウへの信頼は底をついていたらしい。
ロードが図鑑を地面に落とす。
もともと、図書室で埃を被っていた品だ。ロードにとってそこまで価値のないものなのだろう。
ルウは何がなんだかわかっていない表情でロードを見上げている。
静かな声でロードが続ける。その声は感情的な物ではなかったが、それ故に、ロードが本気で怒っているのがわかった。
「度し難い女だ……私は、言ったはずだぞ。次に虚偽の報告をしたその時は……ただではおかない、と。これまで使ってやっていたが――恩を仇で返したな」
「そ、そんな、私は――」
「常々思っていた。奴隷を縛る術式は――欠陥品だと。私がアンデッドを操る時のように、絶対服従を強制すべきだ、と――」
青褪め、へたへたと座り込むルウに、ロードは冷たい声で言う。右手で腰から短い杖を抜き、まるで確かめるように左手でそれを撫でながら一步近づく。
杖の先に不気味な緑の光が灯る。それは、僕が何度か眼の前で使われるのを見た、アンデッド作成の魔法で発生する光だった。
ルウの表情は後悔と恐怖に完全に引きつっていた。手足からは完全に力が抜け、ただその目だけがロードに慈悲を乞うている。
「も、申し訳――ッ」
「何も言うな、ルウよ。貴様は、忠実に生まれ変わるのだ」
有無を言わさず、ロードの杖を持った手が大きく持ち上がる。皺と怒りの刻まれた顔が緑の光で照らされる。
恐怖のせいか、ルウは逃げることすら出来ていなかった。失禁したのか、座り込んだ股間付近から生暖かい液体が広がる。
僕は心の中で、ルウに礼を言った。
来た。その時が来た。
ロードは僕に背中を向けていた。その意識はルウの方にしか向かっていない。
食欲を押し込め、歯を食いしばる。
意識する間もなく、両手の爪が静かに伸びる。まるで肉体が僕に獲物を喰らえと訴えているかのように。
確信があった。今しかない。
ロードを、恩人を、天敵を殺す。力は万全ではないが、柔らかな人間を殺すぐらいなら十分だ。
この千載一遇の好機を逃せば、もう二度とチャンスはこない。
呼吸はしない。心臓の鼓動もない。僕は死者だ。死者の長所は静かな事だ。
肉体は覚えている。生物の殺し方を。それは、これまでロードに教わったものだ。
ロードが精神を集中させ、二言三言魔法の言葉を呟く。その杖が誰にも信用されない哀れな奴隷に向かって振り下ろされる。
刹那の瞬間、僕は無防備なロードの後頭部に向かって全力で爪を振り下ろした。
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