第二話:試運転

 ロードに付き従い、屋敷を出る。眼の前に広がった光景に、僕は表情に出さずに絶句した。


 僕の生前の人生の殆どは病床にあった。

 頭痛、腹痛、全身に絶え間ない痛みが奔り徐々に衰弱していく奇病。原因は不明。治療方法は存在せず、いかなる名医も魔法使いも治すことの出来ない不治の病。

 十になるかならないかでベッドから一人で立つ事も覚束なくなり、そこから死ぬまでの数年間、僕の世界は自室の窓から見える景色が全てだった。


 僕は世間知らずだ。知識の多くはベッドの上で読んだ書籍から得た物で、実際にこうして屋外に出るのも十年以上ぶりだ。

 だが、そんな僕でもロードの屋敷が存在する場所が普通ではない事がわかる。


 ロードの屋敷の周囲にあったのは――黒々と茂る不気味な森だった。時刻は夜のようで、空は暗く大きな白銀の月が静かに輝いている。

 屋敷は大きくぐるりと金属製のフェンスで囲まれており、上部は登れないように長い杭のような物が並んでいた。


 唯一存在する門は頑丈そうで、ピッタリと閉じられている。

 硬直する僕の前で、ロードが立ち止まり、小さく手を上げる。それが合図だったのか、静かな足音が近づいてくる。


 振り向かずに、横目で確認する。現れたものに思わず声が出そうになるが、なんとか抑え込む。


 近づいてきたのは、三頭の漆黒の毛並みをした狼だった。大きさは僕の半分程だろうか、頑張れば乗れそうなくらいに大きい。

 狼は左右に別れロードに近づくと、唸るような鳴き声をあげ、立ち止まった。


 直感でわかった。この狼達は――死体だ。いや、ロードの立場を考えれば最初からそう考えて然るべきだろう。


 狼の動きは俊敏で、牙も爪も見るからに鋭かったが、よく見るとその目は濁っている。 

 死霊魔術師なのだから、人間以外の死体を動かしていてもおかしくはない。

 

 やはり……逃げられない。たとえ地下室から脱出できたとしても逃げ切れはしない。

 無策で逃げても確実に捕まる。僕はここ数年、走ったことはおろか、まともに歩いたことすらないのだ。死体という条件は一緒なのだから、僕と狼で鬼ごっこをして勝てる可能性はないだろう。


 ロードは懐から鍵を出し門を開けると、短く命令した。


「来るのだ、エンド。貴様の力を見せてもらう」


 力を……見せてもらう? 僕に……力なんてない。

 持たされた鉈がずっしりと重い。僕が死体じゃなかったらとっくの昔に腕は上がらなくなっていただろう。


 無言の抗議は通じなかった。僕に行動の選択権はなかった。ロードが門の外に出たので、仕方なく僕も続く。


 初めて立ち入る夜の森は夜目が利いてなお不気味だった。

 風のざわめきも、虫や獣の鳴き声も、何もかもが恐ろしい。しかしロードは、そんな道ならぬ道を躊躇いなく突き進んでいく。

 左右に狼達を従えながら進むその有様からは王のような風格が見える。いや、実際に彼は王なのだろう。

 邪悪なるアンデッド達を従える死者の王。そして、その後ろをただついていく僕はその一人の従者に過ぎない。


 森にはおおよそ人の手の入った跡がなかった。足元の悪い道をふらつきながらも必死にロードについていく。鬱蒼と茂る枝葉や藪により視界は悪く、はぐれたら遭難してしまうかもしれない。


 疲労がない身体が、人ならざる肉体が今だけはありがたい。


 しかし、ロードはどこに向かっているのだろうか。何を目的にしているのだろうか。


 ロードについていくこと十数分、不意に視界の端――藪の陰で何かが光った。ロードの左右に従っていた狼が小さく唸り声をあげる。

 ロードが退屈そうにつぶやいた。


「ようやく……現れたか……」


 藪ががさりと動き、そろそろと黒い塊が姿を見せる。

 現れたのは、ロードが従えている狼よりも一回り大きな狼だった。恐らく、同じ種族なのだろう。漆黒の狼は唾液を垂らし、爛々と光る眼を僕とロードに向ける。


 身体が強張った。野生の狼を見るのはもちろん初めてだ。

 ロードにとっては大した相手ではないのかもしれないが、身体をまともに動かした経験のない僕にとっては違う。


 黒い狼はすぐさま飛びかかることなく、こちらを見たままそろそろと円を描くように体勢を整える。

 しかし、ロードは構えることすらせず、眼を細める。


「……数が多いな……この数は、無理か」


 その言葉で、僕はようやく自分たちが囲まれている事に気づいた。


 前後左右、幾つもの眼がこちらを見ている。闇に溶けるような漆黒の毛皮。足音を残さないしなやかな身のこなし。

 群れだ。忘れていた。狼は群れを作る生き物なのだ。


 もしも僕の身体が生きていたら、恐らく緊張で倒れていただろう。だが、僕は既に死んでいたので、衝撃を顔に出すことなくゆっくり周りを確認する。光る眼は十六個――つまり、狼の数は八匹だ。ロードの従えた狼の倍以上の数。


 だが、ロードはどこか不快な表情をしていたが、怯えている様子はない。狼達がそろそろと円陣を縮めてくる。

 ロードはそれを確認すると、ただ右手の指を鳴らした。


 魔術師、ホロス・カーメンの行動はただそれだけだった。ロードを護衛していた三匹の死んだ狼が跳んだ。

 まるで悪夢でも見ているような気分だった。右側を守っていた狼が、一番近い狼に体当たりをしかける。左側を守っていた一匹が暴れる狼の喉笛に噛みつき、食いちぎる。


 凄惨な光景に目を見開く。

 数は相手が勝っていた。だが、それ以上にロードの狼は強かった。そこには喧嘩すらしたことのない僕でもはっきりわかる違いがあった。


 まず大きさは小柄だったが、身体能力が傍目から見てわかるくらいに高かった。相手の動きは柔軟で素早かったが、ロードの動かす狼はさながら黒い風のようだった。

 次に、攻撃行動に一切の躊躇いがなかった。まっすぐに目の前の狼に飛びかかり、己の身を省みず食らいつくその様子からは精密機械のような印象すら受けた。

 最後に、一切動きが鈍ることはなかった。囲まれ身体を爪で裂かれても、足に、喉に噛みつかれても、怯みすらしなかった。


 結局、その動きが止まったのは狼の群れの内の五体を殺し、三体が森の奥に逃げ去った後だった。

 再び、何事もなかったかのように狼達がロードの周りを固める。だが、その光景からは忠誠心のような物は感じられない。

 

 ただ、呆然としていた。その強さに、その悍ましさに。


 死霊魔術師。それは、この世に存在する数多魔術師の中で、最も邪悪な存在の一つとされている。

 僕はあまり詳しいわけではないが、死者の魂や残骸を操り冒涜する死霊魔術ネクロマンシーは世界的に禁忌とされ、その存在は神話や御伽噺、歌劇の中で常に狂った敵役として登場する。


 知識では知っていたが、目の前でその力を見て、その力が忌み嫌われる理由がはっきりと理解できた。


 あまりにも――冒涜的だ。

 僕は狼達に情など抱いていないが、この光景を見せられれば誰だって『邪悪』と断じる事ができる。


 そして、その存在により復活させられた僕も――邪悪な存在になったと言うべきだろう。


 勝てるのだろうか……死者を冒涜し世界に真っ向から反抗しているこの男に。

 いや、勝たねばならない。勝たなければ、遠からず僕もこの哀れな狼達と同じ運命を辿る事になるだろう。


 配下達が倒した狼の死骸を検分していたロードが呟く。


「ふむ……夜狼ナイトウルフは足りていないが――捨て置くか。行くぞ」


 ようやくと言っていたが、目的は夜狼ではないのか……。

 だが、よく考えれば、夜狼が目的なのだとしたら僕を連れてくる理由はない。鉈を持たされたが、まだ何の命令も受けていない。

 ロードを守り前に立つことすら命令されていないし、藪を切り開けとも言われていない。ただ、ついてこいと言われただけだ。


 再び歩く事数十分。森の中には本当に人の気配がなかった。そもそも、夜の森に入る人なんていないかもしれないが、あんな大きな狼が出てくるのだ。町の近くではないだろう。


 歩いている最中も、獣は頻繁に現れた。それも、明らかに人に対して敵意を持ち襲ってくる獣だ。もしかしたら、これが魔獣と呼ばれる存在なのかもしれない。

 最初にロードが夜狼と呼んだ狼に、僕よりも二回り大きく、棍棒のようなものを持った猿。青い炎を纏った狐に、苔色をした大きな猪。恐らく、僕が一人で遭遇したら為す術もなく殺されるであろう多様な魔物達を、ロードの狼達は容易く蹴散らしていく。


 まずい。この森、想像以上に危険だ。これでは仮に操られた狼とロードの眼を潜り抜け、塀を越えたところで、逃げることができない。


 だが、ロードについて歩いていく内に幾つかの事がわかってきた。


 この肉体は疲労はもちろんだが、痛みとも一切無縁であること。足場は悪く、何度か手足に枝が引っかかったが、全く痛みを感じなかった。体力の限界も感じない。

 森は深いが、人里はそこまで遠くはないはずだ。ロードがいくら優れた魔術師でも、魔術で屋敷を生み出すことはできないだろう。食料なども必要なはずだ。人の出入りもゼロではないと考えた方が自然である。


 考えを整理しながら、遅れないよう必死についていくと、ロードが再び立ち止まった。また獣が出たのか。

 枝葉が擦れあう音と共に、ぬっと大きな影が飛び出してくる。


 現れたのは熊だった。まだ子供なのか、体高は僕の半分程だが、発達した四肢に生えた長い爪は十分凶悪だ。

 これまで現れた獣は皆群れを作っていたが、今回は一匹のようだ。ロードの狼ならば容易い相手だろう。


 そんな事を考える僕に、ロードが不意打ちで言った。


「一体、か……エンド、戦え」


 ……は?


 一瞬何を言われたのかわからなかった。


 戦う? 僕が?


 僕の持つ死霊魔術師の知識と照らし合わせれば、事前に予想して然るべき命令だった。死霊魔術師にとってアンデッドは武器なのだ。

 だが、僕はその可能性を無意識で除外していた。

 僕は病弱だ。獣と戦ったことはもちろん、喧嘩の経験すらない。身体を鍛えたこともない。戦い方など、知らない。


 片手でぶら下げた鉈を見る。無理だ。相手は小さいとは言え、熊なのだ。訓練も受けていない、何の取り柄もない人間が天性から恵まれた肉体を持つ熊に勝てるわけがない。


 相対した熊の眼には殺意があった。返り血で濡れたロードの狼達を見ても退く気配はない。

 僕には受け取った鉈があるが、熊には爪がある。いくら痛みのない肉体を持っていても、バラバラにされれば動けなくなるだろう。無理だ。絶対に無理。


 及び腰になり、鉈を構えもしない僕に、ロードが訝しげな表情で言う。

 命令の言葉が脳を揺さぶる。


「どうした? これは命令だ。『全力で戦い、あれを殺せ』」


 脚が地面を蹴った。それを僕が認識したのは、目の前に熊が迫ったその後だった。

 身体が勝手に動く。僕の恐怖も逡巡も全て置き去りにして、その瞬間、僕は為す術もない観客の一人だった。

 鉈を持った手が大きく振り上げられ、熊に向かって振り下ろされる。熊は急に襲いかかってきた僕に対して、腕を持ち上げそれを受けた。

 刃が深くその左足に食い込む。肉を断ち、骨に当たる感触が腕にかかる。熊が咆哮し、頭から突っ込んでくる。


 全身に衝撃が奔った。みちりと何かが弾ける音を体内で聞く。今まで僕が聞いたことがない致命的な音。しかし手は鉈を離さず、痛みは感じない。


 頭が動く。悲鳴を上げる間もなく、僕は身を乗り出し熊の耳に齧りつく。

 凄まじい獣の臭いが思考を貫き、歯に伝わってくる硬い肉と毛の感触に強い吐き気を催す。


 歯が砕け、顎から嫌な音がした。熊が大きく頭を振って僕を振り払う。噛みちぎった耳の一部が口から零れ落ちる。


 吐き気も、臭いもすぐに気にならなくなる。


 その瞬間――僕は確かに、誰もが目を背ける『怪物』だった。


 左手が即座に動き、一步引いた熊の右目に向かって突きが放たれる。指先が柔らかい物を貫く感触を感じる間もなく、その左前足が伸び切った僕の腕を撃つ。


 ごきりと、骨が折れる音がした。左腕から折れた骨が突き出している。 全力で突き出した指の先も折れている。しかし、やはり痛みは感じず、眼球を貫いた指はロードの命令を守り先に進み始める。


 熊の力は強かった。僕などよりもよほど強かった。本来貧弱な僕では逆立ちをしても勝てない相手だ。

 だがしかし、それ以上にロードの命令は強力だった。

 平然と人間を襲う魔獣にも痛覚はある。だが、僕にはない。右手が、半ば食い込んだ鉈を無理やり引き抜く。血が飛び散り、熊が大きく悲鳴のような咆哮をあげる。


 背骨でも折れたのか、視界がふらつく。しかし、そんな事を意に介することなく、僕の腕は大きく鉈を振り上げると、ロードの命令通り全力でその太い首目掛けて叩きつけた。


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