第三話:認識相違

 熊が苦痛の悲鳴を上げ、倒れ伏す。それに向かって僕はただただ力の限り鉈を振り下ろした。

 加減もわからず振り下ろされた刃は熊の分厚い毛皮を裂き、肉を刻んだ。血が飛び散るが、僕の手は止まらない。


 身体は勝手に動いている。僕はその自分の状況を、一歩引いたところから認識する事ができた。

 飛び散った血が顔に、目に付着する。だが、痛みはない。いや、そもそも――僕に痛覚があったのならば、僕の身体には今、凄まじい激痛が奔っていたはずだ。


 僕の腕は細い。ろくに物など持ったことがないし、剣だって振ったことがない。そんな僕の細腕で野生の獣の分厚い皮を、肉を裂くことができるだろうか? ろくに食事を取っていなかった僕の顎で、一部とは言え、魔獣の肉を噛み千切れるだろうか?

 普通に考えれば、不可能だ。僕と熊が戦えば十回に十回、考えるまでもなく僕が負ける。もしも幸運にも一撃与えることができたとしても、それで熊を殺し切ることなど絶対にできない。


 だが、今の目の前には真逆の光景が広がっている。熊はまだびくりびくりと痙攣していたが、僕の与えた鉈はその肉を深く傷つけ、骨にまで至っていた。明らかに致命傷だ。


 どうしてこの屈強な獣を倒せたのか。僕はその主因を、鉈を振り下ろすたびに腕に伝わった不気味な衝撃から察していた。


「もういい、死んでいる。止めろ」


 ロードの命令を受け、壊れたように動いていた腕が止まる。息は乱れていない。疲労も苦痛もない。アンデッドにそのような物は存在しない。

 ただ、そっと右腕を見下ろす。僕の右腕は今にも腐り落ちてしまいそうなくらい鬱血していた。


 僕の見ていた限り、右腕に攻撃は受けていない。恐らくそれは、熊に全力で鉈を叩き下ろした反動だった。

 僕に痛覚があったのならば、攻撃を続ける事ができなかった。少なくとも力を入れる事はできなかった。そういう類の傷だ。


 いや、それだけではない。接近時に腹に受けた頭突きも、太い前足のなぎ払いを受けた左腕も、恐らく僕が生きていたら一撃で戦闘不能になるだろう威力を持っていた。


 左腕からは折れた骨が突き出し、脳の奥をかき回した指があらぬ方向に折れ曲がっている。


 負傷や痛み、疲労を気にせずに全力で攻撃できる。恐らく、それがアンデッドの強みなのだろう。

 しかしそれは、肉体が傷ついていないということではない。ロードの従えた狼達も道中受けた傷は残っている。


 あれほど痛みに苛まされていた僕の肉体が今、一切痛みを感じないようになっている。その事実は僕にとって、自分がアンデッドとして生まれ変わったことを理解した時以上の衝撃だった。


 ロードは熊の死骸をちらりと確認すると、続いて僕の身体を上から下まで観察し、眉を顰めた。


「この程度か……いや、病死の死体でここまでやれたのだ。上出来、か。今が使えなくとも、後々使えるようになればいい」


 戦闘を強制しておいてひどい言い草だ。しかし、言い返すわけにもいかない。

 ロードは嘆息すると、鬱血した僕の肉体に向かって手に持った杖を当てた。


 小さく二言三言呪文を唱える。病床で何度も受けた白魔術師の回復魔法とは違う呪文だ。


「奈落より来たれ、時止まりし者、生ける死者に、負の力を。《後退転換リバース・フォース》」


 杖の先に紫の光が灯り、気味が悪い快感が傷口を駆ける。右腕の鬱血が一瞬で引き、折れていた左腕がごきりと元の場所に戻る。体内を骨が蠢き、あるべき姿に戻っていく。顎が修復され、砕けたはずの歯が元に戻る。


 回復魔法は難易度の高い魔法だと聞いたことがある。骨折程の傷でも魔法で完治させようと思うと莫大な金額がかかる、と。

 アンデッド用の回復魔法がそれと同じ難易度なのかは知らないが、ロードが卓越した魔法の使い手だということはわかる。


 魔法の行使には強い疲労が伴うと聞いたことがあるが、ロードは僕の傷を治癒し、息一つ乱していない。

 こんな森の奥に住んでいる事から予想はついていたが、やはり只者ではないようだ。


 ロード・ホロスは僕の傷を見て問題なく治っている事を確認すると、面白くなさそうな表情で言った。


「次を探す。エンド、ついてこい」


 結局、僕はその日、合計五匹の恐ろしい魔獣と戦わされる事になった。



§



 戦闘後、再び地下室に連れていかれる。どうやら僕は基本的に地下室に置かれるようだ。

 恐らく僕は剣士にとっての剣のようなものなのだろう。


 ロードが去り、静かな地下室の中、考える時間は腐る程あった。

 

 自分の状態はよくわかった。身体は動く。疲労もなければ痛みもない。夜目も利く。そういえばこの地下室、ロードの吐息は白かった。室温は低めのハズだが、全く寒さを感じないのも恐らく今の肉体の特性なのだろう。

 身体については、全てにおいて生前よりも優秀だが、痛覚がないので肉体が損傷してもそれに気づかないかもしれない点についてだけは注意する必要がある。


 また、ロードが強力な魔導師であり、僕以外にも強力な手下を何体も持っている事もわかった。

 夜狼もそうだし、戻る最中には歩く人骨も見かけた。よく物語の中で死霊魔術師が使役するスケルトンという奴だ。僕が見かけたのはそれだけだったが、物語の中では死霊魔術師は大量のアンデッドを操っていた。他にも操っている死者が何体もいると考えた方が自然である。もちろん、ロード本体の戦闘能力についても考えなくてはならない。


 だが、肝心のロードの目的がわからなかった。

 どうして病弱な肉体しか持たない僕を蘇らせたのか。護衛にするにしても、もっと他にもいくらでも選択肢はあったはずなのに。


 そして何より気になっているのが――ロードの想定と今の僕の状況の『差異』だ。

 

 ロードの気配がなくなってしばらくして、僕は再び動き出した。


 音を立てないように扉の前に行き、慎重に扉のノブを握る。扉が軋んだ音を立てびくりとするが、ロードが戻ってくる気配はない。


 そっと力を込める。最初はどうにもならなかった扉は静かに、あっさりと開いた。

 目を大きく見開き、右手で入り口の縁をつかむ。


 そして、僕はゆっくりと右足を一步外に出した。


 足の裏が床に、部屋の外に触れる。


 ――やはり、思ったとおりだ。


 出られる。最初に待機させられた時はどうしても出られなかったのに、今ならば脱出できる。


 最初との違いはなにか?


 ロードは今回、僕を置いていく時――命令をしなかった。最初のように、部屋から出るなという命令が欠けていた。

 だから、今の僕は命令に縛られることなく、自由に部屋から出られる。


 どくりと、鼓動を止めたはずの心臓が跳ねた気がした。



 これが――差異だ。ロードの想定と、今の僕の状況の差だ。



 ロードは僕が逃げる可能性を全く想定していない。命令し忘れたという線はないだろう。死者を操る魔導師がそんな間抜けなわけがない。


 恐らく、最初の命令は特に意図したものではなかったのだ。なんとはなしに出した言葉だったのだろう。


 そして、どうして僕が逃げる可能性を想定していないのか?


 もし心臓が止まっていなかったのならば、僕の心臓は緊張で早鐘のように打っていただろう。


 幸運だった。

 過去の自分に感謝する。最初に目覚めたその時、ロードに声をかけなかったのは、本当に幸運だった。


 思い返せば、これまでロードの言葉は全て独り言に似た響きを持っていた。僕に対して命令する時でさえ――こちらの意思を尋ねるような気配はなかった。


 足を引っ込め、そっと扉を閉じると、先程まで立っていた場所に戻る。

 この状況で屋敷の中を歩き回るのは余りにも不用心過ぎる。せめてロードの一日の行動パターンくらいは知っておくべきだ。


 僕の想像が正しければ――ロードは僕に自意識がある事をまだ知らない。


 まだ情報は足りないが、言語が通じる事を確認していた点といい、一切こちらから言葉をかけなくても何も言われなかった点といい、そう大きくは外れていないと思う。

 何より、自意識が残っている事を知っているのならば――もっと『最初にすべき命令』というものがあるはずだ。


 この事に気づかれてはならない。

 手をだらんと下げ、彫像のように姿勢を保つ。何をするにしても、チャンスはあるはずだった。

 

 ロードに敵対するにせよ、しないにせよ、手札は多い方がいい。




§ § §





 そして、僕の新しい生活が始まった。


 僕の役割はロード・ホロスの補佐だった。主な仕事は野外に出る際の護衛兼、狩り。

 ロードは僕を使って魔獣を狩り、その魔獣の死骸を使って新たなアンデッドを生み出した。


 慣れるものだ。最初は覚束なかった戦闘についても、数を重ねる毎に効率的に倒せるようになった。もう噛みつきなどという野蛮な方法を使う必要もない。

 僕の肉体には痛みがなく、疲労がなく、おまけにロードのバックアップは完璧だった。いくら素人でもここまでお膳立てされれば負けはしない。


 そして、僕はそれらの戦闘の中で、ロードがアンデッドの使役や回復魔法だけでなく、攻撃魔法についてもかなりの腕前を誇るという事を知った。


 彼は、僕が誤って後ろに通してしまった魔獣を事もなげに葬って見せた。しかも一瞬で跡形もなく、だ。そして、ロードは僕が魔獣を通してしまった事実に対して、何の感情も見せなかった。


 僕は魔法の恐ろしさをその時、改めて思い知った。ロードはこの森の魔獣達を敵と見ていない。


 明らかに僕よりも強かった。冷静に考えて自分が手に負えないような魔獣の生息する森に屋敷を構えたりするわけがないのだが、僕は無意識の内に、この年老いた魔導師は戦闘が苦手なのだと思いこんでいた。

 だが、この分だと……魔獣を利用しロードを葬るのは不可能だろう。


 そもそも、現段階では、ロードを倒した結果、僕がどうなるのかがわからない。

 御伽噺の中では、主を失ったアンデッドは消失することなく、永遠に現世をさまよう事になっていたが、真実は不明だ。


 一週間も経つ頃には、僕は相手が一体ならばほとんど無傷で夜狼を倒せるようになっていた。

 預けられている鉈の振り方もだいぶ様になっていると思う。身体全体を使って振り抜くのが相手に致命傷を与えるコツだ。


 脳天をぶち割られ脳漿をぶちまけた夜狼を前に、佇む僕にロードが訝しげな表情で呟く。


「ふむ……最初は不安だったが……今回の死体は随分とできが良いようだな……」


「……」


 当然、その言葉には答えない。だが、しかし違和感はあった。


 鉈を全力で振り切った腕は、最初に熊と戦った時のように鬱血していなかった。初戦は恐怖と混乱と命令の力で、不要な力を出しすぎたため反動が大きかったのもあるだろうが、たった一週間で無傷で夜狼を倒せるようになったのはそれだけが原因とは思えない。


 僕の肉体は貧弱だ。死ぬ前の数年は寝たきりだったから、筋肉は当然として、骨も皮膚も内蔵も何もかもが衰弱していたはずだ。いくらロードの力により限界を越えた力を出せるようになったとしても、ベースが弱ければ限界があるはずである。


 今の僕の肉体は死んでいる。ロードは僕を『死肉人フレッシュ・マン』と呼んだ。死んだのならば肉体的な成長はしないはずである。僕はまだ成長期のはずだが、食事も取っていないのだから、衰弱した筋肉が元に戻ったりするわけがない。


 だが――確実に強くなっている。


 そうでなければ、たかが一週間の実戦でまるで熟練の戦士のように魔獣をぶち殺せるようになったというのは、明らかに不自然だ。

 自分に戦士の才能があったなどとは思わない。


 ロードはしばらく沈黙したまま僕を見ていたが、ぽつりと呟いた。


「……『屍鬼グール』への変異が近づいているのか? 早い……早すぎる、が、悪いことではない……」


 『屍鬼グール』……聞き覚えがある。確か人の死体を好んで食らうアンデッドだったはずだ。


 だが、それ以上の事はわからない。僕の情報源はロードの独り言だけだ。


 そろそろ……動きだす頃合いか。


 僕はロードの皺の刻まれた額をじっと見下ろしながら、覚悟を決めた。

 ライフサイクルは既に概ね把握できている。危険ではあるが、このままじっとしていても状況がよくなるとは思えない。

 ましてや、本当にその『変異』とやらが近づいているのならば、その変異が発生する前にその詳細を知る必要がある。


 屋敷の中を探索する。


 ロードは魔導師であり、研究者だ。ロードが僕を復活させた部屋――研究室には、無数の得体の知れない器具の他に、何冊もの本があった。

 そこに押し入るのは余りにも危険過ぎるが、それ以外にも、どこかに今の僕の状況を説明できるような物があるはずだ。

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