第一話:生ける死者
「エンド、ついてこい」
ロードが短く命令し、研究室のような部屋を出る。僕は黙ってその後についていった。
身体が動く。手が、足が、思った通りに動く。まともに歩くのは果たして何年ぶりだろうか――。
痛みのない身体というのは不思議な心地だった。どこか現実感がない……まるで夢でも見ているかのようだ。
部屋を出た所で、ふいにロードが立ち止まり、僕を振り返る。金色に輝く瞳がまるで全てを見透かすかのように僕を見る。
「ふむ……言葉は――通じるようだな。言語による命令が通じないのでは話にならん」
「……」
言語による命令が……通じない?
何を言っているのかわからない。だが、意識が戻った直後、僕の肉体が僕の思考よりもロードの言葉を優先して動いたのを思い出す。
あれは――まずい。逆らう余地がなかった。状況がわかっていない僕でも一瞬で理解できる、致命的な感覚だ。
死霊魔術師は生ける死者を自在に操ると聞いたことがある。僕はロードにとって人形も同然ということだ。
ロードは沈黙を守る僕に、何故か満足したように頷くと、再び歩き出す。僕もついていく。
部屋の外は生前の僕が住んでいた屋敷とそこまで変わらない通路だった。明かりなどはなく、妙な圧迫感がある。
正直、何が何だか分からない。
どうして僕が復活させられる事になったのか、ここはどこなのか、僕は何をさせられるのか。理由も、経緯も、そして未来も。まさか僕を苦痛から救ってくれたわけではないだろう。
だが、唯一わかっている事がある。
今やるべきはロードに問いかける事でも、逃げる事でもない。状況を把握することだ。
幸い、考える事だけは得意だった。ベッドの上で苦痛に呻きながら死に抗っていた生前、僕に許されたのは思考する事だけだった。
今の僕もその状況から大して変わっていないが、あの頃と比べれば苦痛がない分だけ、マシに思える。
ロードについていく事数分、石造りの階段を降り、たどり着いたのは地下室だった。大きな金属製の扉を開き、ロードが中に入る。
地下とは思えない広い部屋だった。
思わず声をあげかけ、ぎりぎりで呑み込む。そこに並んでいたのは――無数の死体だった。幾つも等間隔で並べられた石台の上に寝かせられている。僕と違い、動く気配はない。
死体を見るのは初めてだ。本来ならば恐れるべきなのかもしれないが、何故か驚きはあっても恐怖は感じなかった。
「私の命令があるまで、この部屋で待機していろ」
ロードが口元から白い息を吐き出すと、僕に冷たい眼差しを向け、短く命令した。
§
ロードの足音が遠ざかっていく。それが完全に消えてからしばらく時間を置き、僕は動き出した。
まず最初に身体の動きを確認する。大きく腕を伸ばし、足をぶらぶらさせてみる。
長年にわたって僕を苛んでいた苦痛は一切残っていなかった。腕を振っても、頭を動かしても、背筋を伸ばしても、軽く飛び跳ねてみても、信じられないくらい快適だ。夢みたいだ。
思わず笑いたくなったが、声を出さずにやにやするだけに留める。ここは地下だ。恐らく多少騒いだところでロードが戻ってくる事はないと思うが、何もわからない状況だ。念には念を入れたい。
ロードが僕を置いていった部屋は霊安室のようだった。いや、霊安室というよりは――死霊魔術師にとっての材料庫とでも言おうか。
並べられた台の上には正真正銘、人間の死体が五体程、置かれている。年齢は十代半ばから三十代にかけて、性別は男性がほとんど。きちんと服を着せられていて、見た目には損傷は見受けられないが、その容貌には生気がない。
最初に部屋に入った時は驚いたが、時間が経つとなんと言うこともない。生前の僕は半分死体のようなものだったし、実際に(恐らく)一度死んだのだ。
もしかしたらこの中の何体かは僕の同僚になるかも知れないな。そんな他愛もない考えすら浮かんでしまう。
霊安室はシンプルな構造だった。扉は一つで、死体を乗せる台を除けば家具は壁際に設置された大きな棚しかない。周囲の壁は石造りのようで、軽く叩くと硬い感触が返ってくる。
居住性はどうやら僕の部屋の方が上だったな、なんてことを考えながら、棚を検める事にする。
今は少しでも情報が欲しい。
慎重に引き出しを開ける。鍵はかかっていなかった。
どうやら
「…………」
意気揚々と開いた最初の引き出しは空っぽだった。二個目も三個目も空っぽ。四個目には得体の知れない牙のような物が幾つか入っていたが現状を説明するのに役には立たない。
五個目も空っぽで、六個目には液体の入った瓶が一ダース程。七個目も空、がっかりしながら最後の引き出しを開けると、中に入っていた物に思わず目を見開く。
「良いものがあるじゃないか……」
思わず声を出す。掠れた声が静かな死者の部屋に響き渡る。
そう言えば声を出すのも久しぶりだ。そして、声を出してもやっぱり痛くない。
痛みがないって素晴らしい。鼻歌でも歌いたい気分で、中に入っていた物を取り出す。
中に入っていたのは四角い鏡だった。曇っている表面を服で拭い、中を覗く。
写っていたのは記憶に残っている通りの自分だった。
線の細い容貌に痩けた頬、目は窪んでおり、髪型だけが記憶に残ったぼさぼさのものから整えられている。
恐らく僕が死んだ後に見栄えのために整えたのだろう、ありがたい話だ。
僕はしばらく鏡を見て感慨に浸っていたが、慎重に引き出しに鏡を戻した。
僕が僕である事はわかった。他にろくなものが見つからなかったのが残念だが、今はそれだけで十分だ。
ぐるりと死体安置所を確認し、最後にこの部屋にある唯一の扉に向かう。
部屋を出る際、ロードは鍵を掛けていなかった。耳を澄ませていたから間違いない。
足音を立てないよう、そっと扉の前に向かう。
屋敷の構造はわからない。状況もわかっていない。だが、この部屋には情報がなさすぎる。
僕は――何も知らない。知りたい、この屋敷の事、そして、死霊魔術の事を。僕が一体――何になってしまったのかを。
生前と違い、自由に動く身体があるのだ。
死霊魔術師は邪悪な存在だ。とてもじゃないが、信用する気にはなれなかった。ならばできることはやるべきだろう。
真鍮製のノブを握り、音を立てないように注意しながらゆっくりと回す。
僕の緊張とは裏腹に、ノブはあっさりと回った。やはり鍵はかかっていないようだ。
耳を扉に当てながら、金属の扉をゆっくりと開く。物音はない。自分の心臓の音、血の流れる音すら聞こえない完全な静寂だ。
安堵しつつも、外の様子を確認しようと扉をそっと押す。
「…………?」
扉は既に開きかけている。ほんの数ミリだが隙間もできている。だが、いくら押してもそれ以上開かない。
硬い……? 鍵? いや、違う。観察するが鍵はかかっていないし、何かで固定されている気配もない。
手の平で押す。身体全体で押す。押そうとする。
そして――僕は気づいた。
脳天に雷が落ちたかのような衝撃が奔った。足から力が抜け、その場に座り込む。
扉は金属製だ。それなりの重量はあるだろう。だが、重さではない。重量の問題ではない。
改めて、既に数ミリの隙間ができている扉にそっと手を添える。そして、一度身震いをすると、覚悟を決め渾身の力で扉を押した。
押した――はずだった。
僕の手はピクリとも動いていなかった。どれほど力を入れようとも、それ以上進まなかった。
ロードが去り際に掛けた言葉が脳裏を過る。
『私の命令があるまで、この部屋で待機しろ』
そう。恐らく、『硬い』のではない。『押せていない』のだ。
僕の肉体が、僕の意思よりもロードの命令を優先している。目覚めた直後、その命令に従い跪いた時のように。
冷たい何かが背筋を過る。思考がうまく働かない。震える手で必死に扉を押すが、僕の感情とは裏腹にどうしても身体が動かない。
理解していたつもりだった。だが、それはただの『つもり』だったのだろう。
目を見開き、肩を震わす。胸中から湧き上がった感情は恐怖でも驚愕でもなかった。
怒りだ。こんなに激しい感情を抱くのは本当に久しぶりだ。僕はその時、初めて人は怒りを抱いた時に表情が強ばる事を知った。
大声で喚いたりはしない。我を失ったりはしない。ただ、胸の内に留めるだけだ。
僕は自由になったと思っていた。痛みもしない、飛んだり跳ねたりできる身体を手に入れ、有頂天になっていた。この正常に動ける肉体があれば何でもできると思っていた。
だが、違う。僕は何も変わっていない。昔と比べればマシ? とんでもない。
生前は全身に絶え間ない痛みが奔り、手にも足にも力が入らず、ただその痛みを誤魔化すかのように思考に没頭することしかできなかった。いや、それすらうまく集中できていなかった。
だが、少なくとも――身体の制御を他人に奪われる事などはなかった。
指示を聞くのはいい。ロードはある意味僕の命の恩人だ。相手がたとえ邪悪な魔術師だったとしても、協力するのはやぶさかではない。
だが、これは許せない。
ロード・ホロスがどういうつもりで僕を復活させたのかはわからないが、生殺与奪の権を握られる事だけは許すわけにはいかない。
それは自分でもびっくりするくらいに熱い感情だった。どうやら僕はあれほど覚悟していたのに――死にたくなかったらしい。
そして、今僕は、幸運にも手に入れた『二度目の生』をなんとしても手放したくないと思っている。
そう。如何なる手段を使ったとしても。
僕は大きく深呼吸をしようとして、そこで自分が呼吸をしていない事に気づいた。胸に手を当てるが、心臓の鼓動は感じない。
何という間抜けだろうか。そこでようやく、僕は自分が許されざる存在になってしまった事を実感した。
身体は動く。痛みはない。だが、生きてはいない。動いているだけだ。
そういえば、ここに来た時、ロードの息は白かった。並んでいる死体も腐っている気配はない。そう、ここはきっと――寒いのだ。だが、僕は寒さを感じていない。感覚の一部がなくなっている。
そもそも、窓もなく明かりもない部屋だが、室内の状況が鮮明に見える。
僕は――変わってしまった。もしかしたら死体の並ぶこの状況に恐怖を感じないのもそのせいだろうか。
一瞬そんな事を考えるが、すぐに首を横に振る。
いい。意識がある。考えることができる。僕は――ここにいる。あれほど焦がれていた生の続きを体験できるのだ。
僕は病人だった。それも、長年に渡って病床から立つ事もできず、全身を苛む原因不明の痛みにずっと耐え忍ぶことしかできない、いわば『死せる生者』だった。それが『生ける死者』になっただけだ。
ならば――受け入れるべきだろう。たとえ闇に属する存在になったとしても、そんな事、何の意味も見いだせず生を終える事と比べれば大したことではない。
僕は立ち上がると、ほんの僅かに開いていた扉を睨みつけ、静かに閉めた。あれほど動かなかった扉はあっさりと元あった場所に戻る。
驚きはなかった。やはり、ロードの命令だ。僕の意思をも上回る強制的な命令は、死者を呼び起こした者の特権だろうか。
だが、穴はあるはずだ。絶対にある。
ロードは最初に言っていた。『言語による命令が通じないのでは話にならん』、と。それはつまり、僕のように呼び起こした死者には『言語による命令が通じない可能性があった』という事だ。
なんとしてでも――生き延びる。情報を集める。どうにか、ロードの支配から逃れるための情報を。
僕はあまりにも物を知らない。死霊魔術についても、この屋敷についても、そして変わってしまった自分自身についてさえ。
今は情報を集める時だ。じっと耐え忍び、牙を磨くのだ。
待つのは考えることに次いで得意だった。それがこれから役に立つのだろうことを思うと、ただ耐え忍ぶだけだった生前にも意味があったのかもしれない。
気合を入れ直すと、僕はロードが僕を解放した場所に立ち、じっと前を見た。
そのまま身体を止め、頭の中で数を数える。
眠気も疲労も空腹も感じなかった。瞼を閉じなくても目が乾かない。
ただ、眼の前を凝視しながら、たんたんと、何の感情もなく、数を数える。周りに並べた死者と同じような、ただの死体を装いながら。
§
次にロードが部屋にやってきたのは二万とちょっと数えた辺りでの事だった。
丈の長い漆黒のローブに身を包んだロードは、部屋を出た時から概ね変化のない僕を確認すると、こちらに何かを差し出してきた。
「取れ」
差し出されたものは一メートル程もある大ぶりの鉈だった。鈍色の幅広の刃は表面に血がこびりついていたが、不思議と奇妙に輝いてみえる。
言われるままに受け取る。身体全体を持っていかれるようなずしりとした凶悪な重量に、思わずふらつく。
ロードは両手で鉈を持ち直す僕を見ると、鼻を鳴らして言った。どうやら違和感は感じられていないようだ。
「試運転をする。ついてこい」
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