キャスター・ヘッドバンキング Vol. 15.10.2

エスプライサー

負荷領域の〇〇と屋上シンクロニシティ

 この感覚の名前を、僕はまだ知らない。


 霧がかかったような景色。

 現実のテクスチャーの上から、薄く塗られた別次元の景色。

 残像のようにそれは漂う。誰かが言っていたけど、それは重なり合った別の世界の出来事を受信した際に起きる現象なんだって。

 こことはほんの少し違う世界。

 だけど絶対に、その世界には行けなくて。

 見えるけど、触れられない。

 跨ぎ越せない、どうやっても超えられない壁が、そこにはある。


「――」

 そんな時は、音も聞こえなくなる。現実の世界から、自分だけが遊離しているみたいで、自分の鼓膜にも、靄がかかったようになっていて、耳に届く音も不鮮明だ。

「――ッ。ねぇ……アモスったら!」

 いつも通り、その現象は唐突に終わる。

 いきなり大音量で聞こえた自分を呼ぶ声に、少したじろぐ。

「ちょっ、声デカいって」

 土曜日の午前中、新宿マルイの屋上庭園は幸せそうな家族連れや慈愛に満ちたご婦人で賑わっていた。

「声デカいって、アンタがいくら呼んでも返事しないからでしょ」

 ジト目でこちらを見ながら、トリンプは平坦な口調でそう言った。

 こういう時は普通、そっぽを向いてむすくれるのが常考なのに、コイツは頑としてそういうノーマルな反応は返さない。曰く、「アタシはいつだって常識離れしてんのよ」とのこと。

 ノーマルがノーマルなのは、それがみんなにとって一番丁度いいからであって、欲しがっているからであってね……。

「なんスか。なんスかその顔。なんかまたバカにしてんだろ」

「いやいやしてないって……」

「ま……丁度気分がいいから、気にしないけど。……それより、アンタ本当に大丈夫なの?」

 心配しているときは素直にそういう顔するんだもんな。

 トリンプのそういう顔を見て、無意識のうちにしかめ面になっていたことに気付く。

 右の側頭葉に、人肌に温められた鉄球を埋め込まれたような異物感があって、それを排除しようと躍起にならされるサイレンみたいな痛みが、じわじわと、時に甲高く響く。

「……こういうのなんてんだっけ?」

「どういうのよ?」

「なんか、絶対に経験したことも、見たこともない景色のはずなのに。前に見たことがあるような気がすること」

「あー、なんかよくあるよね。そういうの。でも、それって別に名前なんてないでしょ」

「そうなの?」

「だと思うけど。そういうので言ったら、水が熱くなって泡になることも、冷たかったり気持ち悪かったりで肌に小さい粒が沢山出来ることも、名前なんてないじゃない」

 その通りだ。そういう、よくあることは、それ以外にも沢山あるけど、そういうのには、特に、名前なんてない。

 そういうものだと、みんな思っている。

「帰ろ」

「え?」

 ベンチから立ち上がって、少し先で振り返るトリンプを見て、なんだか改めて可愛いな、なんて思ってしまった。これはひょっとすると、旅先から帰ってきたときに感じる家の良さに近いものかもしれない。

「忙しい中、やっと取れたデートの時間だけど、それで体調崩されたら寝覚め悪いじゃない。別にアタシはそもそも、家でゆっくりするのでも構わないんだから。どうしても、アンタがここに来たいって言うから、付き合ってあげたんでしょ」

「そうだっけ?」

「……」

「何?」

「重症だわ。ここに来てからずーっとぼーっとしてるし、かと思ったらどうでもいいこと言い出すし、挙げ句色んなこと忘れてるし。ねぇ、早く帰ろ。ちょっと横になったらよくなるでしょ。熱とかあるわけじゃないよね」

 言いつつ近づいてきて、僕の額に手を伸ばすトリンプの手を取って、ギュッと握りしめる。

「なっ、なによ?」

「お願いがある。もう少しだけ、ここにいたい」

「……動けないくらいキツいってこと?」

「いや、もうちょっとしたら出てきそうなんだ」

「出るって何が? いや、待って、言わなくていい」

 ビニール袋を差し出される。

「何コレ?」

「吐くんでしょ?」

「違うよ。なんか思い出しそうってこと」

「あっそ。ずっとそうやってぼーっとしてるつもりなら、アタシ一人でどっか買い物してくるから」

 言い終わるやいなや、さっさと庭園を突っ切って本当に行こうとする。

「待った! ちょっと待ってくださいよ!」

 短いスカートが翻る様を、もう少しだけ見ていたい欲求に駆られたけど、状況改善を優先させる理性が僅差で勝った。

「コーヒー! コーヒー飲めば生き返る!」

 トリンプは答えず、ひらひらと後ろ手を振って、そのまま屋上庭園を後にした。

「なんだかんだ言って、お節介なんだよなあ」

 こんなこと本人に直接言うと、ぷいってなっちゃうから絶対言えないんだけど。



 ――!!

 また……残像が――!!


――「あれが俗に言う〇〇〇〇ってやつですぞ」――


 そうだ。トリンプみたいなあまのじゃく性質のことを言う何か、別の言葉が……。


 意識に重力がかかる。

 残像ははっきりと輪郭を帯びる。でもすぐにそれは、砂嵐のように霧消して視界を防いだ。

 次の瞬間、僕の意識を取り囲んでいたモザイクな世界に亀裂が走る。

 跋扈するノイズは破れた箇所から吸い込まれるように、流れ込むように、消えていく。

 反対にそこから、光が、強い光が、僕の目を突き刺してくる。

 あれは……そうだ。

 立ち眩むほどの光。徹夜明けの、あの光は。

「朝日だ」

 そう漏らした瞬間、音でも文字でもない台詞が、浮かぶ。


――「東京の日の出は6時半くらいだって。あと1時間ちょっとかぁ」――

「おまえは……誰……だ?」

――「〇〇〇くんと〇〇がやめちゃうのが想像つかないなぁ」――

「誰だ? 俺は……俺の名前は……ち、が……」

 本当にそうか?

 俺の名前がそれじゃないって、本当にそう断言できるのか?

――「でも、公務員だよ。手堅く行っちゃう僕が公務員やめるなんて、〇〇君想像できる?」――

 もう一人が、隣に座っている別のもう一人が、僕に向かって話しかける。

 座っているのはベンチで、でも、屋上庭園じゃない。

 見えている景色は同じだ。西新宿の高層ビル郡が見える。ドコモタワーも。ただ、今自分がいる場所に緑はなく、無機質なコンクリートにたった三人で座っていた。

 それに、寒い。身も心も冷え切っていた。吸ったことがないはずのタバコの苦みを、はっきりそれと自覚している。

 そして、自分の意思とは無関係に、口を開いて、徐に言葉が漏れ出す。

「いや俺もやめるなんて全然想像できないんだけど、ことやめることに関しては。だけど”ドラゴン”で働いている君も容易に想像出来る。むしろその方が自然なくらいに。二人の君が俺の想像の中で、完全に違和感なくどちらも存在してしまっている」

 ……いやに長台詞だった。しかも、何が言いたいのか、自分で言っててよくわからない。

 でも、気がかりな言葉があった。

 はっきりと、僕は”ドラゴン”と口にした。


――「マルイの屋上がめっちゃええとこなんや。こんまえ教えてもろてん。エイドリアンに」

――「ブフフフいや誰?」――

――「え? 知らない? 会ったことなかったっけ? 留学生の友達。この前まで日本に来てて」――

――「知らなかったけど。君はよくもまあ、俺の知らない世界を知ってるな」――


 マルイの屋上に、エイドリアン。

 それは確かに僕が経験した出来事だ。事実のはずだ。

 だけど微妙に違う。彼女のことを、普段エイドリアンなんて呼ばないし、友達じゃなくて、ソウルメイトだし。

 絶対に自らが経験しているという確信と、こんなことは絶対に違うという確信が同居している。まるでさっき自分が口にしたような状態だ。

 そんな中、俺の知らない世界、という言葉が、いやに耳に残る。


 場面は飛ぶ。

 さきほどの屋上に、僕は一人でタバコをふかしている。

 時間帯は、……夕方みたいだ。

 一冊の本を読みながら、ふいに、言葉が脳裏を過ぎる。


――「地獄は、頭の中にある」――


 その言葉がトリガーになって、僕の頭にあらゆる言葉が流れ込んでくる。


――「みんなそうなんだって! みんな、求められる役割から逃れられないんだよ!」――


――「我々は、広げすぎた世界を閉じなくてはならない」――


 まったく知らないのに、すごく知っている気がする人の口から、沢山の言葉を投げかけられる。

 それに応える暇も無く、また次の言葉が飛んでくる。


――「ギャルゲーかよ、お前」――


――「其の迂闊さを、後悔して死ね!!」――


 ふわっと、自分のカラダが大気を押しのける感覚を味わう。

 気がつくと、いつの間にか目を閉じていた。

 その目を開くと、僕は、無機質なコンクリートの屋上に、一人でいた。

 ベンチに腰掛け、うなだれていて、顔をあげると、見慣れているような、そうでもないような景色が目に入る。

 時間は、まだ午前中のようだ。

 吸いさしのタバコを吸ってみる。

 不思議とむせたりしない。この世界の僕は、きっと吸い馴れているのだろう。


 同期が完了した。


 どこからともなく、告げられたその情報には、なんの感慨も浮かばない。

 自分の中にあるのは、ひとつの使命感だけ。


 数多の頓挫した世界を救うため、僕は――。

 いや、俺は、とてもシンプルなことをしなくてはならない。


 長らく伝えられてきた、たったひとつの、冴えたやりかたによって。


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