第16話 空の名は知らず


 何日たったのか、ラカラカには分からなかった。

 冷たい岩のような水の衝撃の後は、何も覚えていない。

 最初に気がついたのは、寒さだった。居心地の悪さに覚醒する。目を開けると、黒く濡れた岩の表面を、たらたらと水が流れて行くのが見える。自分の顔の上にも、たらたらと水が流れるので、片手で拭って頭を上げる。

 岩の上にひじをついて体を起こし、体のまわりを見る。

 すぐ隣に、大きな死体が転がっていた。すりきれた帯で、ラカラカの腰と死体の肩口が結ばれている。片手を伸ばすが、水を含んできつく締まっていてほどけない。短くつながれているので、窮屈だが、なんとか座った姿勢になって、両手で帯をほどく。時間をかけてほどいた帯を投げ出し、ラカラカはため息をついて、顔を上げた。

 あたりは冷たく湿っている。遠くは靄に煙って良く見えない。

 滝の中なのだろうか、と思う。

 ぐずぐずになった草のかたまりが、岩の角にひっかかっている。足をびんと伸ばして竜が死んでいる。なだらかな傾斜の岩場全体が、水に洗われている。

 見上げても、天海はなかった。

 とても低いところに、見たこともない暗い天蓋がある。薄暗く、昼夜もわからない。景色が見えるだけの明るさがあるから、たぶん昼間だと思うが、太陽の姿はない。時折、青い電光が光り、世界を裂く音がする。それ以外は、遠くを隠す靄と同じ、無彩色の広がりが全天を覆う。太陽の船も月の船も、天海と一緒に落ちて沈んでしまったのだろう。

 電光が世界を裂く音の他に、聞いたことのない音が、まわりじゅうに満ちている。

 頭上から落ちてくる無数の水滴が、岩や、死体や、ラカラカに当たって、砕けて跳ねる音。ラカラカは顔を仰向け、落ちてくる滴の源を捜す。顔を打つ滴に、紫眼を何度もしばたいた。

 いくつもいくつも、小さな水滴が上から落ちてくる。強い風に吹かれて、横殴りにラカラカを打つ。

 これが、落ちてきた天海の中なのだろうか、と思う。

 水だらけだ。

 無数の水滴が跳ねる音は、滝の音よりやさしい。

 ラカラカに当たった水滴が、たらたらと頭の先から指の先まで流れる。鼻先から指先から、また滴になって離れて行く。

 隣に横たわる死体は、なんだかぶよぶよしているが、キダイだった。イセの姿は見えなかった。

 ラカラカは、ぼんやりとキダイを見る。

 青年は、だらしなく口を開け、ふくれたまぶたが眠そうだ。関節以外のところで折れ曲がった腕から、白い骨が突き出している。ぼろぼろになった上着をまくると、左胸の傷口は白くふやけていた。膨らんだ腹を押すと、指の跡が残る。右足の膝から下は辛うじて腱一本で大腿骨につながっている。

 ラカラカは、水滴に打たれるキダイを見ている。

 キダイの肌は黒く変色し、ますますぶよぶよと膨れて、濁った目玉と毒色の舌が飛び出す。落ちてくる無数の水滴を味わっている。

 無数の水滴が落ちる。電光が世界を裂く。ラカラカはキダイを見ている。

 キダイの体に開いた全ての穴から、水に薄められた血膿が流れ出し、屍臭が漂って、ラカラカは鼻簗にしわをよせた。キダイの頭に張りついた短い髪がところどころ禿げている。 そのうち、キダイの体はぐずぐずになって、ぺしゃんこにつぶれてくる。むせかえるような腐臭にも、ラカラカは慣れてしまった。目玉はなくなり、皮膚は破れ、肉も内蔵もとろけて、骨から剥がれ落ちていく。

 無数の水滴が、骨を洗う。風はだいぶ弱くなり、電光さえ弱々しく去っていく。

 キダイはとうとう布切れを巻いた骸骨だけになった。あたりには、水滴の音だけが満ちている。

 ラカラカはキダイを見ている。無数の水滴が、濡れそぼった髪の先から落ちていく。

 ラカラカは、自分が本当に生きてキダイを見ているのだろうか、と思う。誰もラカラカを確認してくれなかったら、自分では幽霊だとわからないかもしれない。

 薄暗闇と、真っ暗闇が、だらだらと入れ代わる。薄暗闇の間だけ無彩色の天蓋が、ぼんやりと灰色に光る。一度入れ代わるのが一日であったろうが、ラカラカは数えようとも思わなかった。ただ、ぼんやりとキダイを見、水滴の音を聞いた。骨は晒されていく。

 無数の水滴。無数の日々。

 少女は、無数であるはずの水滴の音が、あるとき、少なくなっているのに気がつく。体に当たる滴も、確かに数が減っている。薄暗い天蓋が、白さを増しているような気がする。

 頭上から、水滴が落ちてこなくなった。

 灰色だった天蓋は、明るいときには、白く光を放っている。相変わらずそこいらじゅうが湿っぽかったが、ラカラカの髪も乾き、少し暖かくなった。風が、柔らかい。

 遠くの靄もいつのまにか消えて、大地の輪郭が見えるようになった。岩場はだいぶ離れたところで終り、黒い地面の帯が横ざまに伸びている。その先には、広大な水面。白い波頭の線が、黒い地面の帯にそって繰り返し打ち寄せる。灰色の水が地平線の彼方まで広がっている。天海が落ちている、と思う。

 岩場の反対側のほうは、斜面になって視界を遮っている。白い背景に、黒い岩がくっきりと見える。

 水滴が落ちて来なくなって、何度目かの明るい時間には、白い天蓋の中に大きな光が動いて行くのが見えた。天海を渡る太陽の船のように、ゆっくりと。だが、ぼんやりとして弱々しかった。

 ぼんやりとした光は、繰り返し天蓋を明るくさせて動き、だんだん強く眩しくなって行く。白い天蓋は、もくもくとしたひだを作り、流れるように動いている。

 遠くの水面の上に、光の柱が立った。

 ラカラカは、キダイの骨の傍らに座ったまま、紫眼を見張る。

 それは、滝のように水でできたものではなく、斜めに真っ直ぐに並ぶ、光でできた柱だった。幾筋も、幾筋も、様々な太さの、明るい透明な柱だ。その間に虹が浮かんでいる。十色の鱗の竜神がきらきらと光と戯れる。

 いつのまにか、水面は青く変わり、柱の立った水面が銀色にちかちかと光る。

 やがて、白い天蓋に裂け目が見えた。かすれたうすもののように、ちぎれ、柔らかそうなひだをつくり、流れる。天蓋の裂け目から、光の柱が降り、広大な水面は、白い天蓋の切れ端の柔らかな形を映す青い鏡。

 まぶしい光景に目をこらすうちに、ラカラカは突然光に包まれた。

 キダイの骸骨にも、自分の手足にも、突如、くっきりとした陰影が生まれ、光の温度を暖かく感じる。

 紫眼で天を振り仰ぐ。

 白い天蓋の裂け目から、はるか遠くへ広がる青い色が見えた。透明なのか不透明なのか分からない。天海の青のような透明な色ではない。白い天蓋の上のどのあたりが、その明るい青の輪郭なのか分からない。天蓋の裂け目は、どんどん広がっていく。

 明るい青の広がりの中に、光の塊が浮かんでいる。

 天海の上を滑っていた、金の光の船。強く目を射る輝きが、中空に光の矢をのばしている。そして、金の光球を囲んで、真円の虹が架かっている。金の瞳孔、虹の光彩。天に昇った虹の竜神は、自らの尾を飲んで完結している。

 少女は見上げ、明るい声で呼びかける。

  「レンジャ・ヤガ! ちゃんと、また会えたね」

 ラカラカは、目の奥に緑の影が焼き付くのも構わずに、太陽を見た。まぶしくて、涙が流れた。

 明るく、暖かく、風は柔らかだ。

 明るく青い天の広がり。

 天には覆いがなくなってしまったのだ、と思う。天海もない、白い天蓋も軽く風にちぎれていく。ラカラカは笑みを浮かべて、天を見ていた。

 太陽の船は空中を飛ぶことができるのだ、きっと月の船も無事に航海を続けている。ラカラカが思ったとおり、夜になると、月も、沢山の小さな星々も、ゆっくりと黒い広がりを渡っていった。

 夜明けの光芒が、大気を暖めていく。

 ラカラカは、キダイの骸骨からされこうべを取り上げた。きれいな骨だった。白くて軽い。眼窩と鼻の穴が空いた、丸い骨。

 それを見つめながら、ラカラカは久しぶりに声を出した。

  「あんたは、キダイなの?」

 されこうべは、答えない。

  「骨だよね。…やっぱり骨は骨だ。でもやっぱり、これはキダイだけど、もう絶対動かないんだから、捨ててってもいいや。骨じゃ何も見えないもん」

 ラカラカは、されこうべを足もとに置く。

  「ねえ、キダイ。シャド・ラグなんか、どっか行っちゃったよ」

 立ち上がって、にっと笑う。

 足を振り上げ、されこうべを蹴っ飛ばすと、コン、といい音がした。

 白い頭蓋骨は、弧を描いてふっ飛び、岩の上で跳ねて、コンカラカラと転がった。

 ラカラカはついでに、体の形に並んだままの骸骨を、蹴散らかす。黒い岩の上に白い骨片が踊り、カララン、カラランと楽器のように鳴った。音も、白くて軽い。

 ラカラカは、しっかりと立っている。風が、髪を揺らしていく。

  「もう行くね。…ひとりで、行くよ」

 少女は裸足で、歩き始める。

 真綿のような黒髪が、つやつやと光って、風に踊る。日が高く昇るにつれて、湿った大気が蒸れて暑い。岩も暖まり、少女の体も暖まる。

 小さな黒い羽虫が耳元をかすめ、青い波をめざして飛び去る。ラカラカは足を止めずに、それを目で追い、真っ青な水面を望む。水は、沙漠のように広く、丸く盛り上がっている。 歩きながら、一人つぶやく。

  「何があるのかなあ?触ったら水かな、やっぱり。中に何かいるかな」

 小さな足の指で、岩場をつかんで行く。

  「歩くのは楽しい。見るのも楽しいし」

 ふくよかなくちびるには、笑みがこぼれる。

  「生きてるんだし」

 だから、どこまでだって行ける、と思う。

 少女は、裸足で歩く。

 明るい天の青色を映した、紫の瞳が、とても美しい。

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アンダーウォーター・トラベラーズ 狸穴かざみ @mamiana

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