修一さん
付き合いはじめてから、平日は会社の上司と部下として振る舞い、週末のどちらか一日を一緒に過ごすようになった。
お互いがやってみたいこと、行ってみたい場所を言い合ってリストにまとめ、計画を立てる。二人で実行したら、リストのステータスを「完了済」と入力する。一年が過ぎる頃には「完了済」のものも多くなったが、困ったことにやりたいことリストの案件は新しく増えていくペースの方が早いのだった。
そろそろ寒くなってきたある土曜日、私たちは「水上バスに乗る」という案件を実行したあと、喫茶店で一休みしていた。
ココアを飲みながら、私は彼にある提案をした。
「修一さん」
「はい」
「提案があります」
「あ、それでは書き留めないといけませんね」
彼は、次にやりたいことリストに何かを加えるのだと思ったようで、鞄からごそごそと手帳とペンを取り出した。
「私たち、一緒に暮らしませんか?」
ペンを構えたまま、彼はしばらく動きを止めていた。
ゆっくりとこちらを向いた彼の顔には、うっすら汗がにじんでいる。
「由希さん、どうしてそのような提案に至ったんですか」
「今住んでいるマンションの更新時期が来ているんです」
「それは少し笑えない冗談ですよ」
彼は珍しく、やや怒りを含んだ言い方をした。
「いえ、冗談ではありません。補足すると、更新時期というのはひとつのきっかけで、私はしばらく前から修一さんと暮らしてみたいと思っていたんです」
すっと彼から怒りの気配が消えた。
「なぜ、ですか」
「お付き合いするようになってから、私たちは一緒に色々なことを経験してきましたよね」
「ええ」
「一人ではできなかったことに、二人で挑戦してみるのは楽しいです」
「ええ、それはとても」
「でも、私は最近思うのです。新しいことを経験する楽しさも素晴らしいですが、私は修一さんのことをもっと知りたいと」
それは、彼にとって予想外の言葉だったようだ。
「……僕のことを」
「はい。私が知っている修一さん自身のことは、ごく断片的な情報に限られています。あなたのことを知りたいという気持ちが、どんどん強くなってきてしまったのです。それで、一緒に生活をしてみたいと思うようになりました」
彼は少し俯いた。
「修一さんは、どうですか。今まで通り休日に会って外出したり食事をしたりする、そのままが良いでしょうか」
彼は俯いたまま、手元のペンを見つめていた。
しばらくして、彼はぽつりと言った。
「僕は、怖いです」
かたり、とテーブルにペンを置く。
「僕という人間の中身は、色々なものが欠落していて、スカスカの穴だらけです。一緒に生活して、それが由希さんに分かってしまったら、ということが怖いのです」
「私も、怖いと思っています」
彼はようやく顔をあげた。
「私の中にある醜い部分を、修一さんに見られてしまうかもしれないと」
きっと今までのように、楽しいだけではいられない。
「私はそれでも、二人で暮らしてみたいという気持ちの方が大きいです」
初めての経験を分かちあえる喜びを知ったから、もう一歩先の、あなたの世界を見たくて。
彼がふーっ、と大きく息を吐いた。
そして、テーブルに額がつきそうなくらい頭を下げた。
「ありがとう。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
私もテーブルにぶつける寸前まで、頭を下げた。
一緒に生活してみて分かったことはいくつもある。
例えば、彼はホラーやサスペンスものの映画が苦手なようだ。借りてきた映画を観ているとき、いつもクライマックスはクッションで顔を隠している。静かなシーンでいきなり大きな音がすると、ヒャッと変な声を出して驚く。
また、彼は嗅覚が鋭い。私が帰宅すると、コートについた匂いで、商店街のお肉屋さんの前を通ったでしょう、と通ったルートを当てることができる。
そういう発見を積み重ねて、私は一つの仮説をたてた。
彼はのっぺらぼうに「見えている」だけなのではないか。
目も鼻も口も存在しないなら、本も読めないし、食事も摂れない。そもそも呼吸ができないだろう。
彼の顔にはそれらが存在し、機能している。けれど何らかの作用で、周りからは(彼自身が鏡を見るときも含めて)のっぺらぼうに見えてしまっているのではないだろうか。
もしもその作用、非科学的な言葉でいうなら魔法か呪いのようなものが解明されたら、私は彼ののっぺらぼうではない顔を目にすることができるのかもしれない。
でも私は、その瞬間を待ち望んではいない。今は新しい二人での生活を試行錯誤しながら積み重ねてゆくことに、一番の関心を持っているからだ。
私が彼にキスをするとき、彼の唇がどこにあるのか迷うことはない。そして確かに、唇の柔らかさを感じる。彼がのっぺらぼうであっても、特段困ることなんて無いのだ。
実践的手法を用いたのっぺらぼうに関する考察 久藤さえ @sae_kudo
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