柳瀬さん
デートに誘われた日の帰り道、私は書店でファッション雑誌を購入した。今まで、服装は周囲にそこそこ馴染んで機能的であればいいと思っていたので、異性とのデートにふさわしい装いを意識したことがなかったからだ。それらの雑誌はとても情報量が多く、私は頭を抱えた。これを読みこんだ上で最適解を導くなんて、難しすぎる。結局、雑誌に載っていた中で良さそうに思えた店に行き、マネキンと同じ一式を買いそろえた。
日曜日、待ち合わせた駅で電車を降りて改札へ向かうと、出口の正面に立っている彼の姿が見えた。グレーのジャケットに濃い色のデニム。サングラスとマスクをつけているのは、目立つことを避けた変装だろうか。時刻は待ち合わせの30分前だ。
私は一度立ち止まって深呼吸をし、手ぐしで髪を整えて、改札を出た。
「お待たせしました」
「いえ、僕が早く来すぎてしまいました」
恐らく私の姿をじっと観察するための間があって、彼はこう言った。
「倉本さん、今日は会社にいるときより空気を多く含んだ服装ですね」
ふわっとしている、ということだろうか。
「変ではないでしょうか」
「いえ、とても似合っていると思います。アクセサリーのデザインとも調和がとれています」
「ありがとうございます。部長がノーネクタイの服装をされているのを初めて見ました」
「あ、今日はお休みの日ですから“部長”は無しにしませんか」
「……では、柳瀬さん、と呼びます」
「それでお願いします。じゃあ、行きましょうか」
そうして彼はくるりと振り返り、店の方向へ歩き始めた。
後になって彼は、あの初めてのデートに着ていった服は、上から下までファッション雑誌の真似をしたのだ、と少し恥ずかしそうに教えてくれた。
予約したお店の場所も、前日に下見して駅からの道を覚えておいたのだ、とも。
それは、彼にとっても人生初のデートだったのだ。
ボルシチやつぼ焼き、最後の甘い甘いロシアンティーまできっちりとコースを平らげると、二人ともお腹がパンパンになった。
店を出て、私たちは腹ごなしにぶらぶらと大きな公園を目指して歩き始める。
「お料理、どれも美味しかったですね」
「外国の料理というのは、本で読んでいても、やっぱり食べてみないとどういうものか分かりませんね」
「今まで知らなかった味を知るというのは面白いです」
「少し自分の世界が広がったような気持ちになれますね」
いつの間にか公園の中に入っていた。午後の公園は、家族連れやランニングをする人で賑やかだ。
私たちはどちらからともなく、ベンチに座った。しばらく、沈黙が流れる。
彼は思い思いに公園で寛ぐ人たちを、眩しそうに眺めているように見えた。
彼は、前を向いたまま言った。
「……倉本さん」
「はい」
「私のように変わった特徴を持つ者は、生まれてすぐから政府機関で養育されるということを、お聞きになったことはありますか」
「はい、テレビや本からの情報としては」
この国では数十年前から、いわゆる“妖怪”に似た特徴を持つ子どもが、一定の割合で生まれてくる現象が起きていた。猫娘、一つ目小僧、のっぺらぼうなど、発現する特徴は多岐に渡る。政府機関で養育され、高度な教育を施される彼らは、ほぼ例外なく優れた知能や運動能力を発揮するのだという。
「言葉だけ聞くと、無機質で厳格な規律に縛られた暮らしをイメージされるかもしれませんが、そんなことはないんです。僕に関わってくれた大人はみな、優しくて教養に富んでいて、尊敬できる人たちでした。子どもがたくさん集められているわけですから、遊ぶ相手には事欠きませんし、たくさんの本や音楽にも触れることができました」
彼がいま、とても大事な話をしようとしていると感じて、私は黙ったままでいた。
「でもやはり集団生活ですから、叶えられないこともあるわけです。お菓子を食べながらテレビを見て夜更かしするとか、夜中にコンビニに買い物に行くとか。そうやって小さい我儘を諦めることが、幼い頃から何度もあって、私は自分で先回りして物事を諦めるようになってしまっていました」
彼は言及しなかったが、自分はなぜのっぺらぼうに生まれたのか、なぜ普通の暮らしを送ることができないのか、人々の好奇の目に晒されねばならないのか、繰り返し繰り返し考えてきたのだろう。
「だから今日初めてロシア料理を食べに行けたことは、私にとってはものすごい前進なんです」
と彼は振り向いて、続けた。
「新しいことを、自分の身をもって知るというのは、きっと生きていくのに必要なことなんです」
そこで、彼は少し俯いた。
「それで、これは倉本さんが良ければ、なんですが……」
どんどん声が小さくなる。
「これからも、僕と一緒に、出掛けたり、食事をしたり、してもらえませんか」
私はやや混乱した。外出や食事はお安い御用なのだが、これは文字通りにとってはいけない言葉のような気がする。ここはやはりきちんと確認すべきだろう。
「あの、すみません、確認なのですが、柳瀬さんのおっしゃっていることの意味というのは」
彼は耳まで赤くなりながら、消え入りそうな声で言った。
「お付き合いを、してもらえないかということです」
はっきりと言葉にされて、私はうろたえた。しかし、私の中に断るという選択肢は浮かんでさえこなかった。
「はい、ええと、あの、承りました」
あまりの恥ずかしさに、その公園からどうやって家まで帰ってきたのか、記憶がない。
ともかく、私たちは恋人として付き合うことになった。
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