実践的手法を用いたのっぺらぼうに関する考察
久藤さえ
ぼう部長
私と彼が一緒に暮らしはじめて、二ヶ月が経った。
新しいマンションの間取りに慣れ、動線が定まった。近所のお店の品揃えはだいたい把握した。
二人で生活するうえでのルールは、まだ試行錯誤を続けている。
彼は一人暮らしが長かったから、家事全般はひととおりこなせる。というか、私より何事も丁寧で上手い。
そんな私の彼氏は、のっぺらぼうだ。
彼との出会いは、二年前の春だった。
大学院を卒業し、入社した製薬会社の新人歓迎会で、私は生まれて初めてのっぺらぼうを見た。
学生時代、奨学金を得るために必死で勉強に明け暮れていたので、私は飲み会というものに全く慣れていなかった。わいわいと盛り上がっている会話の輪の一番外側で、泡の消えたビールにちびちびと口をつけていると、隣のテーブルの彼と目が合った。正確には目が合ったような気がした、だが。
彼は普段、特別に個室で仕事をしているようで、私は書類に記された名前と、社内のふんわりとした噂でしか彼のことを知らなかった。彼は陰で「ぼう部長」と呼ばれていた。のっぺらぼうの、ぼう部長。
あまりじろじろと見るのは失礼だと分かっていても、彼の、目も鼻も口もないつるりとした顔にどうしても注目してしまう。
「倉本由希さん」
いきなりフルネームで名前を呼ばれて、私は文字通り飛び上がった。
「は、はいっ」
「ハハ、そんなに緊張しないでください。皆さん盛り上がっていますねえ。僕は面白い話もできないし、お酒に弱いので、乗り遅れてしまっている気がします」
確かに、彼の顔はうっすらと全体が紅潮していた。
「私も、こういう飲み会は慣れていないので、どうすればいいのか分からなくて……」
そう言ったきり、気まずい沈黙の中でひたすらフライドポテトをつまんだ。
「あの、倉本さん」
「はひ」
ポテトがまだ口に入っている。
「××の今月号はもう読みましたか?」
彼が名前を出したのは、海外の学術誌だ。
「いえ、今月号はまだ読んでいません」
「でしたら、月曜日にお貸ししますよ。倉本さんが大学院で研究してらしたテーマについて、新しい論文が載っていましたから」
「あ、ありがとうございます」
そのとき、私の隣に座っていた先輩社員が、いぇーい新人ちゃん飲んでるぅ?と肩を組んできて、話はそこで途切れた。
月曜日に出社すると、私のデスクの上には、おしゃれな封筒に入った学術誌が置かれていた。
数日後、私は学術誌を読み終え、その封筒にチョコレートを入れて彼の部屋のレターボックスへ返却した。
そんなやり取りが何度か続いて、彼は自分の趣味だけどよかったらと、おすすめの小説やエッセイを貸してくれるようになった。どの本も面白くて、彼の守備範囲の広さに驚き、またお礼に何を渡そうかと考えてワクワクしている自分がいた。
半年ほど経ったある日の朝、私がいつものように借りた本をレターボックスに返そうとしたとき、ガチャリとドアが開いて彼が部屋の中から現れた。
「おはようございます」
「おはようございます」
もう、前のように緊張することはなかった。
「今回の本はいかがでしたか」
「とても面白かったです。ロシア料理の話がたくさん出てきて、どれも美味しそうだなと思ったのですが、私はロシア料理を食べたことがなくて味が分からないのが残念です」
彼はいつもより少し高めの声で言った。
「僕も、ロシア料理は食べたことがありません」
「そうですか」
「前から一度、食べてみたいとは思っているんです。でも一人で行くのはいかがなものかと考えてしまって」
「そうですね、私も牛丼屋なら一人で入れますが、ロシア料理はためらいます」
「なので倉本さん」
「はい」
「今度の日曜、一緒にロシア料理を食べに行きませんか」
私が人生で初めてデートに誘われた瞬間だった。
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