5-95 反旗

 青の女王が海へと姿を消した後。ヴィズルとアドビスはアマランス号の艦長室にいた。ロワールハイネス号の救出にはいろんなことがありすぎた。よって、ノイエ・ダールベルクに報告する内容をまとめるため、ジャーヴィスと話し合うことにしたのだ。


 そしてひょっとしたらではあるが、リュニス皇帝の気が変わって、アノリアを奪還せんと艦隊を差し向けるかもしれない。よってアドビスはアノリア沖を監視することに決めた。どのみち後数時間で夜明けだ。港に戻るのは朝になってからでもいい。


 艦長室に案内され、肘掛け椅子にアドビスが座り、長椅子にジャーヴィスとヴィズルが腰を下ろす。

 卓上にはジャーヴィスが料理長に言って用意させたのだろう。シルヴァンティーの柔らかな香りが立ち上る白いティーカップが置いてある。

 ヴィズルは内心思った。茶ではなく何か軽いアルコールの方が、本当は皆飲みたいんじゃないのか? と。


「それで……グラヴェール参謀司令、ご子息の具合はどうなのですか?」


 神妙な面持ちで口を開いたのはジャーヴィスだった。


「アマランス号の軍医の見立ては、シャインは左胸の下に刀傷を負っていたが、傷口は塞がっているそうだ。ただ、傷が塞がるまで時間がかかったのだろう。失血のせいで体がかなり衰弱している。一週間程度は安静が必要らしい」


「そう……ですか」


 ジャーヴィスが安堵の息をついた。


「それからあの赤毛の少女のことだが……」


 アドビスがヴィズルとジャーヴィスの顔を交互に見た。


「ロワールのことか。彼女がどうかしたか?」

「ロワールというのか。彼女は」

「ああ。ロワールハイネス号の元・『船の精霊レイディ』だったんだけどな……一体何をどうしたのか。人間になってたな」

ですって!?」


 ジャーヴィスが柄にもなく驚きの声を上げた。


「彼女の事は本人、もしくはシャインから事情を後で聞けばいい。ただ少し頭痛がするそうだ。だから彼女もロワール号の副長室で休んでもらっている」


 ヴィズルは胸の前で腕を組み、長椅子に背中を預けた。ロワールの変化は確かに興味深い。そして頭痛がするのもわかる気がした。実体のない存在が血肉を備えた体と一つになったのだとしたら。新たな体と心が馴染むまでこちらも時間がかかりそうだ。


「ヴィズル、お前はロワールハイネス号で二人の様子を看ていてくれないか? 必要な薬や物資があれば言ってくれ。用意する」


「わかったぜ、ジャーヴィス。けどよ、俺としては、アノリア港に長期間留まるのはおすすめしないな。特にシャインの体を思えば」


「それは私も同感だ」


 ジャーヴィスがアドビスの方へ視線を向けた。


「グラヴェール参謀司令。アノリアの気候は蒸し暑く、体力の落ちた病人の回復には時間がかかると思います。ご子息は元々食も細いですから。それに街もリュニスとの交戦で建物が破壊され、物資の流通が不安定です。ダールベルク統括将へ、ロワールハイネス号のアスラトルへの帰港許可を頂けるよう願い出ないと……」


 するとアドビスが眉間へ渋面を作った。


「お前達の言う事は最もだと思う。だがちょっとした問題がある。シャインはエルシーアでは『死んだ』ことになっている」


「けっ。めんどくせぇ小細工をろうするからだろうが。アドビス」

「そうでもしなければ、第二、第三の刺客がシャインの所へ来ただろう」

「……刺客ですって?」


 ジャーヴィスの顔が一気に青ざめた。

 アドビスとヴィズルはお互いの顔を見合わせた。


「ジャーヴィス。海軍省は今や非常に混沌としているのだ。シャインはアスラトルへ極秘に帰国させるが、その手はずは私がやる」


 その時だった。

 ヴィズルは戸口で音を聞いた。ごく小さな音だったが人の気配を察し、ヴィズルは長椅子から立ち上がった。三歩で艦長室の扉に近づくとそれを開く。


「……ミリアス」


 戸口に立っていたのはミリアス・ルウムだった。

 肩口で切りそろえた金髪を震わせてヴィズルの顔を睨みつけている。


「立ち聞きとはいい趣味じゃないか?」

「いや、僕は……いや、僕も……シャイン・グラヴェールの容体が気になっていたから。ただそれだけだ」

「どうしてシャインの事を……」


 ヴィズルは口籠った。

 ミリアス・ルウムが執拗にシャインに付きまとう原因。それは――。


「すみません。失礼しました!」


 ミリアスが踵を返して艦長室から走り去る。目の前の上甲板へ上がる階段を一気に昇っていく。


「ミリアスがどうしたのだ?」


 ジャーヴィスが戸口から出てきた。

 ヴィズルはじっとミリアスの姿が消えた階段を見据えた。


「……悪い。あの坊やに話さなくてはいけないことを思い出した。俺はちょっと席を外すぜ」

「ヴィズル。おい」


 ヴィズルは左肩に重みを感じた。ジャーヴィスがヴィズルの肩を掴んでいる。


「私もミリアスに話さなくてはならないことがあるのだ。後から甲板に行く」

「わかった」


 ヴィズルは小さく返事をして、ミリアスの後を追うべく上甲板へ上がった。




 ◇




 空が白み始めていた。

 アドビスが警戒するリュニスの艦隊の姿は海上にない。

 波も穏やかで辺りはとても静かだ。まもなく夜明けだ。

 ヴィズルは周囲を見回し、ミリアスの姿を探した。

 いた。

 人気のない後部甲板。ヴィズルがいる反対の右舷側で両腕を舷側に預け、水平線をひとり食い入るように見つめている。


「ミリアス」


 その小柄な背中に呼びかけてみたが、ミリアスは返事をしない。


「お前に話さなくてはならない事があるんだ」


 ヴィズルはミリアスの隣に並んだ。

 ミリアスは水平線を見つめたまま呟いた。


「お前が僕に何の話があるんだ? 関係ないくせに。放っておいてくれ!」


 ヴィズルは小さく舌打ちした。

 溜息を一つ洩らし、銀灰色の長い髪に指を絡ませる。


「関係ない? そんなこと言ってもいいのか? 俺はお前の父親の仇なんだぜ?」

「えっ?」


 ミリアスが弾かれたように振り返った。ヴィズルは口角を上げて不敵に笑んだ。

 肩の上に流れる銀髪が海風を受けて空に靡く。それは久しく他者に見せることがなかった、ヴィズルの『海賊』としての顔だった。


「お前の親父が乗っていたファスガード号は、実に守りが堅かった。ルウム艦長さえいなかったら、ファスガード号にも俺の手下を乗り込ませて、船を奪うことは容易かったんだ。だがそれができなかったから、俺はエルガード号を奪い、ファスガード号を砲撃した」


「ヴィズル、お、お前は……一体……」


 ヴィズルは夜色の目を細めながらミリアスの顔を覗き込んだ。


「俺の正体は時が来たら教えてやる約束だった。察しの通り、俺が「月影のスカーヴィズ」だ。お前らが『ノーブルブルーの悲劇』と呼ぶ、あの海戦を起こした張本人だ」

 ミリアスはたじろいだ様子で目を見開いた。


「ま、まさか……お、お前が……!? い、いいや、そんなのは嘘だ。『月影のスカーヴィズ』は死んだと海軍省の調書には記入が……」


「まあ、俺は海賊を廃業したからな。厳密に言えばこの世に『月影のスカーヴィズ』はどこにも存在しない。だがミリアス。俺がノーブルブルーの船を沈めたことは事実だ」


「……そんな、そんなことを、何故僕に話す!」


 ミリアスはヴィズルと距離を取るように後退すると両手で頭を抱えた。


「ふっ。そんなの決まってるじゃねぇか。お前がシャインを親の仇だと思いこんでいるみたいだからな。だから俺はお前に、『真実』を話さなくてはならない」


 ミリアスは力なく顔を上げた。


「僕は……僕はただ、父が死んだ本当の理由が知りたいだけだ! それを知っているのはファスガード号のサロンにいた、シャイン・グラヴェールただ一人!」


「いや、それは違う。あの場にはもいた」


 ミリアスとヴィズルは、ミズンマストの影から現れたジャーヴィスの姿に視線を向けた。


「ジャーヴィス艦長」


 ジャーヴィスはゆっくりと二人の所へ近付いてきた。


「ミリアス。先にこれだけは言っておく。私やグラヴェール艦長を含め、ファスガード号の生き残りは、海軍省にこの事件のことについて、他者に口外することを禁じる誓約書に署名させられている」


 ミリアスは顔を引きつらせた。


「そんな誓約書は不当だ。海軍省があの事件を隠ぺいしようとした意志しか感じない。おかしいと思わなかったのですか! ジャーヴィス艦長」


 ジャーヴィスはうなずいた。


「ああ。おかしいと思う。だから私もお前に協力する。二人で海軍省を訴えるのだ」

「え……」

「ジャーヴィス、お前――」


 ヴィズルはジャーヴィスの意外な発言に度肝を抜かれていた。

 海軍の役目に忠実であるジャーヴィスが、海軍省に反旗を翻すような発言をしたのだ。ジャーヴィスの冴えた青い瞳は迷いがなく澄んでいた。

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