5-94 生と死の境界(2)


 ◇◇◇



 長い、長い夢をみていたようだった。

 気付くとシャインは、ぼんやりとロワールの顔を見上げていた。

 彼女は視線が合うと大きな瞳を更に見開いて、いきなりシャインの首筋に腕を回し抱きついてきた。


「シャイン、シャイン……!!」


 喜びの声が次第に涙交じりの嗚咽に変わった。

 そこでシャインはふと感じた。ロワールの変化に。

 首に回された彼女の手のを感じる。

 頬にかかる彼女の体温、髪の一筋――それらがすべて実体として存在していることを。すべてを思い出した。


「ロワール! 君は……」


 まつ毛に涙の雫を光らせながらロワールがうなずいた。何度も大きく。


「そうよ。私はここにいる。あなたのおかげで」

「シャイン」


 シャインはロワールに右手を掴まれたまま、首を左へ回した。

 こちらも自分を心配するように顔を覗き込むアドビスがいた。彼の肩越しにジャーヴィスとヴィズルもいるのが見えた。


 アドビスは口元をぐっと引き締め、ただ一度深くうなずいた。シャインは左手をアドビスが未だに握りしめていることに気付いた。


 何故か声が上手く出せない。シャインは返事の代わりに、アドビスの手を強く握りしめた。

 シャインの手のひらをすっぽり覆ってしまうほどの大きな手。

 一瞬子供の頃を思い出した。

 この手を握った時とても大きな安心感を得ることができたことを。

 アドビスはいつものように無言だった。

 けれど普段人々に畏怖を感じさせる猛禽のような瞳は、温かな光に満ちていた。


「戻ったか、シャイン」


 人々の一番後ろで、青い微光に体を縁取られた女性が微笑んでいた。


「ストレーシア……」


「シャイン。そなたの命はここにいる皆のおかげで辛うじて繋ぎ止められた。今世に戻ってきたからには、決して粗末に扱うでないぞ」

「はい。ストレーシア……ありがとうございます……」


 シャインは身を起こそうとした。途端、左胸に痛みの衝撃が走った。

 息を詰めて上げかけた頭を再び甲板へと沈ませる。額に冷や汗が浮いて呼吸が早くなる。


「すまぬな、シャイン。私が人間にできることはせいぜい傷口を塞ぐ程度。お前は致命傷ではないが傷を負っている」

「大丈夫か?」


 シャインはアドビスの手が背中に回るのを感じた。彼の補助で何とか上半身を起き上がらせる。

 傷が痛むのは動いたからだ。

 そして、生きているからだ。


「……血は止まっている。すぐに軍医に診せる」


 アドビスが素早く傷の様子を確かめた。


「手配します」


 ジャーヴィスがこの場を離れアマランス号へと向かった。


「ロワール」


 ストレーシアがロワールを呼んだ。

 海神の手にはほのかに青く光る『船鐘シップベル』があった。


「そなたに礼を言わなくてはな、ロワール。この『船鐘』に閉じ込められし魂は、私が輪廻の輪へと還す。それができるのも、そなたが鐘にただ一人とどまり、暴走を止めてくれたおかげだ」


「いえ……私はただ、魂たちの声を聴いていただけだったんです」


「だからこそ、だ。そなたが魂の声を聴くことができたから……多くのブルーエイジがこうして一つ所へ集まることができた」


 青の女王の手の上で、鐘が一際強く青白い光を放った。

 青い夜の雲間が晴れてまばゆい光が上空から神々しくも降り注いでいる。

 真珠で飾られたストレーシアの両手が天へと伸ばされる。


「エルウェストディアスの民達よ……さあ、今こそ輪廻の輪に戻るのです……そして再び命をまといて、いつの日か生まれてくるのです……」


 ふわりと『船鐘』が宙へ浮き上がった。

 はるか遠く空の高みへと。船鐘だった光は天へと昇りながら四方へと弾けた。

 星のようにきらきらと輝きながら更に上へ上へと昇っていく。

 魂の光一つ一つを慈しむように、柔らかな光明がヴェールのように差していた。

 シャイン達は黙ってそれをロワールハイネス号の甲板から見上げていた。


「角笛の音が聞こえる」


 ロワールがポツリと口を開いた。

 シャインの耳にも、どこか誇らしくも鳴り響く透き通った音を捉えた。

 それは魂たちの昇っていく天上から響いてきた。


「……審判の角笛……! ノルン、あなたもやっと天へ……」


 天へ昇る魂たちの光を受けて、淡い紫色に光る空をストレーシアが見上げた。

 一羽の黒い鳥が空を舞っていた。

 まるで海神に挨拶でもするかのように、それは二度三度と輪を描いて舞った後、天上から降り注ぐ光目指して飛び去った。ストレーシアはそれをかつて見せたことのない切ない表情で見つめていた。


「あっ、指輪が……」


 ロワールが右手を上げた。

 シャインが彼女にはめたブルーエイジの指輪が溶けるように消えていく。


「これは一体……」


 シャインの問いにストレーシアが答えた。


「この指輪に込められていた一番深くて重い『悲しみ』が、やっと浄化されたのです。千年の時を経て……。口には出せない悲しみが込められていた。とても重くて私一人では浄化できない『悲しみ』が。けれどシャイン、そしてそなたの母リュイーシャ。この指輪を担ってくれたクレスタ歴代の巫女たちのおかげで――」


 シャインは再び空を見上げた。

 感じたのだ。

 いつも自分を見守ってくれた優しい風が、さよならを告げて頬をかすめ、天へ舞い上がったのを。

 シャインの肩を掴むアドビスの手に一瞬力がこもった。

 彼もきっと感じたはずだ。

 そしてこの場にいないリオーネも、アスラトルの地できっと……。


「シャイン、では私も行くことにする。だがそなたが指輪の担い手であったことは変わらない。そなたが海で死ぬ時は、必ず私が迎えにゆこう」


 シャインは唇を歪めて微笑した。

 できればそうならないように、彼女の加護があればありがたいのだが。

 一言そう伝えようと思った時、ロワールが不意に立ち上がった。

 両手を腰につけてストレーシアを見上げている。


「残念ですけど青の女王様。それはずっと、ずうーーぅっと先のことですからね!」

「そうあることを私も願おう」


 ストレーシアはちょっと意地悪な微笑みを浮かべた。

 そして青く輝く髪を靡かせながら波しぶきと共に海へと還った。

 同時に周囲を照らしていた光も消え失せ、辺りは夜の闇と静寂に包まれた。

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