5-93 生と死の境界(1)

 誰しもが青白く光る波間に浮かぶロワールハイネス号を見つめていた。

 エルシーアの青緑色を模した船体。金色に塗られた三本マストを持つ縦帆船スクーナー

 それはアドビス達を待っているかのように、波頭一つ立たない夜の海上でひっそりと漂っていた。

 

「あれは……」


 その存在に最初に気付いたのはヴィズルだった。

 そしてアドビスも感じた。

 いや、二十年以上も経ってというべきか。

 海で畏怖すべき存在の気配を。

 頭の中で声がする。


 ――こちらへ来るのだ……そなたの助けを待つ者がいる。


「ジャーヴィス艦長。舵が……舵がききません! ロワールハイネス号の方へ、本船が引き寄せられているみたいです」


 勝手に動く舵輪を指差し航海士がうわずった声を上げる。それを聞いた水兵たちがざわつきだした。


「心配しなくていい。全員その場で待機してくれ」


 アドビスは周囲へ冷静に呼びかけた。


「閣下……」


 アドビスの隣へジャーヴィスがやってきた。その表情は不安げだ。ヴィズルもこちらへ振り返る。

 アマランス号はゆっくりと導かれるようにロワールハイネス号へ近づいていく。


 縦帆船の特徴である、マストに対して垂直に取り付けられている主帆メインスルは、綺麗に畳まれて帆桁ヤードに巻き付けられている。船体に穴のようなものは空いていない。無傷のようだ。


 そして中央のメインマスト前の甲板には人影があった。ほんのりと青い微光を放ちながら、けれど周囲に畏怖を与えるような大きな気を持つ存在。

 海の色を海上から海底まで表すようなグラデーションを描いた長い髪の女性が一人立っている。神秘的で安らぎを感じる青い光は、彼女の体全体から発せられていた。


 ロワールハイネス号とアマランス号が横並びになる。アドビスはジャーヴィスに命じて渡り板を用意させた。水兵たちが鉤爪の付いたロープをロワールハイネス号の舷側へ投げ入れ、船が揺れないように安定させる。


「ジャーヴィスとヴィズル、お前達だけ来てくれ。他の者はアマランス号で待機だ」

「ミリアス、アマランス号を頼む」


 ジャーヴィスが副長のミリアスを呼び寄せる。肩口で切りそろえた金髪を揺らしながら、ミリアスが黙ってうなずく。けれど彼の視線もまた、不思議な青い光に包まれたロワールハイネス号の甲板へと注がれている。


「行くぞ、ジャーヴィス」

「はっ」


 アドビスはジャーヴィス達を伴い、渡り板を歩いてロワールハイネス号の甲板へ降り立った。


「青の女王――ストレーシア。二人はどうなってるんだ?」


 アドビスが声を発する前にヴィズルが物怖じもせず、青い髪の女性に向かっていった。寄せては返す波のように、白い素足に絡まる衣の裾をひらめかせ、青の女王ストレーシアが一歩後ろへ下がった。

 甲板には赤い黄昏色の髪をした少女と、リュニスの黒い軍服を着たシャインが横たわっている。


「シャイン、ロワール!」


 ヴィズルが二人へ呼びかける。

 すると紅髪の少女の方が先に身じろぎをし、起き上がる気配がした。

 ヴィズルが少女の傍らに膝をつき、その顔を覗き込んだ。



  ◇


 

 ロワールの顔を見た時ヴィズルは驚いた。

 船の精霊レイディである彼女の姿は人間そっくりだが、厳密にいうとそこまではっきり見えるわけではない。光の加減で後ろにあるマストや海が透けて見えることがある。


 だが違う。

 ここにいるのは、ヴィズルが知っている『船の精霊レイディ』じゃない。

 鮮やかな紅髪を揺らし、透き通った水色の瞳を見開いた『彼女』からは体温が感じられた。


 身を起こす彼女を支えるため肩に手をかける。

 触れているというのがわかる。ここに存在しているというのが、わかる。


「……ヴィズル?」


 声もまた鼓膜を震わせるように聞こえる。

 彼女の声は直接頭の中に響くような感じだったのに。


「ああ、俺だよ」


 ロワールのこの変化はなんだ?

 まるで人間として血肉を備えた存在としているようだ。


 だがチッとヴィズルは舌打ちした。

 ロワールがあからさまに落胆したように眉をひそめたのだ。失望感も露わに。

 子猫のようにやや釣り目がちな瞳が細められ、唇を不満げにとがらせた。


「シャインは? シャインは何処?」

「あんたのそばにいるよ。全く、奴じゃなくて悪かったな!」

「ロワール。そなたは目覚めたようだな」

 

 見上げると青の女王が静かに微笑んでいた。だがその顔には陰りがあった。


「どういうことなんだ?」


 不吉なものを感じてヴィズルは青の女王へ詰め寄ろうとした。


「グラヴェール艦長。起きて下さい!」


 アドビスとジャーヴィスが、ロワールから少し離れて横たわるシャインの傍に膝をついて呼びかけている。アドビスがシャインの肩を静かに揺すっている。だがシャインが起きる気配はない。


「シャイン!」


 ロワールが弾かれたように立ち上がり、よろめきながらシャインの元へ駆け寄った。ジャーヴィスがその様子に戸惑いながらも、ロワールに場所を譲る。

 彼女の白く長細い指がシャインの頬に触れる。青の女王が静かに口を開いた。


「ロワール、すまぬ。シャインの魂は半分に分かたれていた。それを失念していた」

「どういうことだ?」

「ヴィズル……そしてシャインのお父さん」


 ロワールがアドビスを見上げた。


「ごめんなさい。シャインは『私』をこの世界に連れ戻してくれたの。自ら『船鐘シップベル』の中に、魂だけの存在で入って」

「なんだと!」


 ヴィズルは絶句した。

 そんな御業ができるのは、目の前に立つ海を統べる海神・青の女王しかいない。

 だが納得がいかない。

 ヴィズルは立ち上がった。青の女王に向かって叫ぶ。


「俺は感じているぞ! シャインの気配を。シャインはここにいる。何故目が覚めない? 説明してくれ、ストレーシア!」


 ヴィズルにとって青の女王は、『術者』としての力を使い続けるための契約主であった。よってかの神と言葉を交わすのはこれが初めてではなかった。

 青の女王は重々しく息をついた。


「シャインの魂は二つに分かたれていた。船の精霊としてロワールを存在させるために。だが魂の力が半分という事は、生命力も半分になる。傷を負っていたシャインの体は、魂が帰ってくる前に限界にきていたようだ」


「は? こいつはそんなことをしやがったのか!」


 ヴィズルにはすべてが見えた。

 アドビスとジャーヴィスは事情がよくわからないのだろう。沈黙したままだが。


「すまぬ。もう少し時間があれば、間に合ったかもしれなかった」

「ちょっと待てよ、ストレーシア。いや青の女王。手段はあるはずだ」


 ヴィズルは改まった口調でストレーシアを見つめた。

 

「シャインは生きている。生と死の境界でな。まだ間に合う。要は、シャインの失った魂の力を補完すれば、奴は戻ってこれるはずだ」


「ヴィズル。お前の言うことは正解であり、不正解でもある。残念ながら、魂の力はそなたの『術者』の力とは異なる」


「へへっ、それはわかっているさ。魂の力は『魂』でしか補えない。このブルーエイジの短剣が、それを欲するようにな」


 ヴィズルは三日月の短剣を青の女王に差し出した。


「この短剣に込められた魂の力を使えないか? 足りないというのなら俺の魂でも、術者としての力をすべて使ってくれて構わない」

「ヴィズル……!」


 ロワールが弾かれたように顔を上げた。両手を握りしめて、叫ぶ。


「青の女王様。私も……! シャインを助けて。シャインがいなかったら、私はとっくの昔に消えていた存在だった。いえ、『彼』だけが私に気付いてくれた。『船鐘シップベル』に囚われ続けた私の事に――。シャインを助けて下さい。今度は私の魂で……」


 ストレーシアは交互にヴィズルとロワールの顔を見る。

 シャインの傍らにいるアドビスとジャーヴィスを見た。

 青の女王は静かに瞳を閉じた。


「わかった。そなたたちの心からの願いだ。やってみよう。それにヴィズルの言う事は試すだけの価値がある。短剣を……」


 青の女王が差し出す手に、ヴィズルは三日月の形をしたブルーエイジの短剣を握らせた。


「魂の量は十分だな。おや。この短剣からは……何故かシャインの気配がかすかに感じられる……」


「ああ、一口ぐらいだけどな。ブルーエイジが奴の魂を喰ったんだ」


「何の因果かは知らぬが。うまくいきそうな気がする。ロワール。そしてアドビス」


 青の女王に名前を呼ばれたアドビスは、何故か動揺のかけらも見せなかった。

 まるで彼女に会ったことがあるかのように。

 青の女王は深海のような青い瞳を細めた。


「シャインの手を握って呼びかけなさい。ロワールは右手を。アドビス、そなたは左手を。こちらへ戻ってくるようにと。あなた方の絆――それが迷い魂となったシャインをこちら側へ引き寄せるでしょう」


 青の女王に呼びかけられ、ロワールとアドビスがシャインの手をそれぞれ握りしめる。そしてブルーエイジの短剣が形を変えていくのをヴィズルは見た。

 ストレーシアが胸の前で向かい合わせにした手の平で、それは丸くて白く輝く玉となっている。

 ストレーシアはシャインの胸にそれを押し当てた。

 心臓の鼓動のような明滅を繰り返して、光の玉はシャインの体に吸い込まれていく。


「シャイン! 私はここにいるわ。だからあなたも戻ってきて」

「シャイン。私にはお前が必要だ。戻ってこい」




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