5-86 皇帝の選択
あいつら、無事なのか?
アマランス号の船縁にかじり付いたまま、ヴィズルは近づいてくるリュニス艦隊の黒い船影を憎々しげに睨みつけた。
皇帝の本隊と思われるが数は意外と少なそうだ。大きな三角帆を張った軍用ドロモンが恐らく十隻。
それより小型のドロモンが恐らく同数。そして大砲を積んだ一等軍艦が一隻。
日没が迫ってきたため、海上の視界は時間と共に悪くなっていく。
ロワールハイネス号がリュニス艦隊に近づく姿はかろうじて見えたが、日が沈みつつある今、かの船の姿は何処にもない。
軍用ドロモンの大きな船体のせいで、ロワールハイネス号が隠れているせいだ。
きっと、そうだ。
船影と宵闇のせいだ。ロワール号が見えないのは。
けれど指先がチリチリする感覚が一向に治まる気配がない。
嫌な予感がすると決まってするのだ。
それがヴィズルの神経を一層苛立たせていた。
西の港の動向を伺うアマランス号の甲板が急に騒がしくなった。
体格の良い甲板長が呼び笛を吹いて、各マストに水兵達を招集している。
ミズンマストの前に佇み、肩口まで伸びた金髪を揺らした副長のミリアス・ルウムが声高に叫んだ。
「アノリア港へ戻る! 帆を回せ! 船を回頭させろ」
ヴィズルは弾かれたようにアマランス号の後部甲板へ歩き出した。
舵輪を握る操舵手の隣に立ち、両腕を組んで甲板を眺めているジャーヴィスに近づくと呼びかける。
「ジャーヴィス」
だがジャーヴィスは前方を眺めながら返事をしない。もとよりこちらを見ようとしない。彼とは数歩という距離しか離れていないのにだ。
無視すんなよ。
ヴィズルはいらいらとジャーヴィスに話しかけた。
「ジャーヴィス、ウインガード号と合流するのか?」
「……そうだ」
渋々振り返ったジャーヴィスの顔は険しく、口元もぐっとひきしめられたままだった。
「ロワールハイネス号を放っておくのか? シャインはリュニス艦隊に突っ込んでいったんだぜ?」
ジャーヴィスの眉間の皺がくっきりと浮かび上がる。
「わかっている」
ヴィズルは溜息をついた。
「わかってるならどうして救出にいかねぇんだ? アノリアはもうエルシーアが制圧したようなものだ。この船一隻が持ち場を離れた所で、状況がひっくり返るってこともねえだろ」
「ヴィズル」
ジャーヴィスが拳を振り上げ、船縁を強く打ちつけた。
「アマランス号はエルシーア海軍の軍艦なのだ。そんな勝手な行動をとることは許されない。旗艦の命令を無視すれば作戦が崩壊する」
「ジャーヴィス、待てよ。だったら旗艦に、アドビスに許可を求めればいいじゃねーか!」
ヴィズルはジャーヴィスに詰め寄った。
その青い眼の奥を見据えればわかる。
ロワールハイネス号のことを、シャインの事が気になっているくせに、ジャーヴィスはその感情を押し殺している。
「ジャーヴィス、自分の心に嘘をつくなよ」
「嘘?」
ヴィズルを嘲るようにジャーヴィスが肩をすくめた。
「言っておくがヴィズル。私はアマランス号の艦長だ。私の肩には三百名の水兵の命がかかっているのだ。個人の感情で軽々しい行動をとることは決して許されない」
「……ああそうかよ。わかったぜ」
この偏屈には何を言っても無駄だ。事態は一刻を争う。
規則なんかくそっくらえだ。
銀髪を振り乱してヴィズルはジャーヴィスに背を向けた。
「ジャーヴィス。あんたの行動は軍人として正しくても、友人としては最低だぜ。じゃ、俺のことは止めるなよ。俺はお前の部下じゃないからな!」
「ヴィズル! 待て」
ジャーヴィスがヴィズルの右腕を素早く掴んだ。
意外だった。驚きつつ振り返ると、ジャーヴィスが冴え冴えとした光を放つ青い瞳を細めながらヴィズルを睨みつけている。
「お前の悪い所は、人の話を最後まで聞こうとしない所だ」
「けっ! 言葉を返すが、あんたの悪い所は、融通がきかない頑固頭な所だよ!」
「もうすでに許可を求めている」
「えっ」
ジャーヴィスがヴィズルの右腕から手を離した。
「ロワールハイネス号の救出要請をウインガード号へ求めたがまだ返事がない。ここで待っている時間が惜しい。だから港へ戻りウインガード号のグラヴェール参謀指令へ直接訴える」
「……ジャーヴィス」
「そういうことだ」
ジャーヴィスは凄みを帯びた目でヴィズルを見ると、甲板の水兵たちへ声をかけた。
「見張りはリュニスの残兵に気をつけろ! 急ぎ港へ向かう」
◇◇◇
バーミリオンは『青の女王』号へと戻った。
「皇子、彼奴の船が沈んでいきます。危ない所でした……」
背後でサセッティの声がした。軽く息が弾んでいる。
バーミリオンは無言で後方の海上を眺めた。
リースフェルトの船が船尾を下にして沈んでいくところだった。
日没の残照に照らされながらそれはあっという間に波間へと消えていった。
「サセッティ」
「はっ」
「
サセッティの強面が虚を突かれたように色を失っていく。
「それは……」
「お前の気持ちはわからぬわけではない。だが何故かすっきりしないのだ。この結末が」
「皇子。あやつはエルシーアの間者だったんですぞ! 何をそんな世迷言を言われるのか」
「リースフェルトの目的はただ一つ。我らが不当に攫ったエルシーアの公女を救うためだった。それだけであったのに。我らの元へエティエンヌのことを伝えるために戻ってきた」
「あやつは海に船と共に沈みました。今はその事実を皇帝陛下へお伝えせねば」
「ああ……そうであったな」
バーミリオンは海から無理矢理視線を引きはがした。
つまらない罪悪感など沈んでしまえ。
この忌まわしきアノリアの海に。
そうして『お前』も二度と浮かんでくるな。
◇
「バーミリオン」
「皇帝陛下。只今、エルシーア海軍旗艦ウインガード号からの灯信号を確認しました」
バーミリオンはぐっと歯をくいしばりながら、かがり火の焚かれた簡易玉座に座る皇帝の前に膝をついた。兄アルベリヒはいつものように冷静な面差しで、バーミリオンを見降ろしている。
薄紫の長衣に金色の剣帯と黒の長靴を履いただけの軽装である。
「通信の内容は?」
「はっ、申し上げます。エルシーア側はアノリア港を制圧したといっております。よって陛下との対話を望んでいるとのことです。対話に応じれば、捕虜も返還すると」
「捕虜?」
「はっ。港を守らせていたドロモン二隻の姿が見当たりません。どうやらエルシーア側に沈められたようです。しかし、それに乗っていた兵士は皆捕虜となっており、陛下……港の方をご覧下さい」
バーミリオンは屈辱を噛みしめながら、兄皇帝へアノリア港を見るように手を差し伸べた。
バーミリオンの手の先は、ずらりとエルシーア海軍の軍艦が十隻並び、その軍艦の前に二十隻以上の小船が浮かべられている。
「ウインガード号の通信だと、あの小船には、ドロモンに乗っていた我が兵士達を捕虜として捕らえているということです」
流石のバーミリオンも最後は言葉尻に嗚咽が交じった。
アルベリヒは何も言わず玉座から静かに立ち上がった。
そのまま、甲板に膝をついている弟皇子の元へと向かい、そっと肩に自らの手を置いた。
「陛下――」
気弱な態度を見せてしまったことに対して、バーミリオンは己を恥じた。
皇帝の剣として、リュニス兵の規範とならねばならない立場である。
そして青の女王号の甲板には多くの近衛兵達が皇帝を守るため配備されており、バーミリオンは何とか己を奮い立たせた。
「申し訳ありません、陛下。お見苦しい所を」
「いいや。そなたの気持ちはよくわかる。バーミリオン」
兄皇帝にうながされて、バーミリオンは立ち上がった。
夜を迎えたアノリア港には、いくつもの灯りが明滅している。
どれもエルシーア艦隊のものだ。
「どうなさいますか、陛下。対話に応じますか? エルシーア艦隊の火力は我が軍より数倍も勝っていますが、宵闇に紛れて軍用ドロモンを走らせば、何隻かは船首の『牙』で沈めてやることも可能です」
アルベリヒは腕を組みしばし熟考していたが、やがて小さく頭を振った。
「……バーミリオン。エルシーア艦隊は自分たちの船の前に、我が兵士達を乗せた小船を並べている。彼らを見殺しにはできぬよ」
「陛下。し、しかし。エルシーア側の言う対話は、罠という可能性も考えられます」
「それはどうかな」
バーミリオンはひやりとした口調のアルベリヒの言葉に身を固くさせた。
「バーミリオン。あのリースフェルトが一度エルシーア艦隊の所へ行き、再びわざわざ我らの元へやってきたことを忘れたか? 彼はエルシーアがアノリアを制圧することを語っていた。我らの先手を打って、エルシーアにアノリアを取り戻させたとしたら、この対話とやらも彼が事前に準備した可能性がある」
「しかし……」
「それにエティエンヌのこともある。お前には辛い思いばかりさせて悪いが、ダールベルクが話し合いを望むというなら、こちらも彼に聞きたいことが沢山ある」
「では」
アルベリヒは頷いた。
「対話に応じると返事を頼む。軍用ドロモンはここで待機させ、我が『青の女王』号のみ、アノリア港湾へ向かうのだ」
「御意」
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